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2018.12.10

言葉はひとつの手段でしかない

自分は何者なのか。何のために生きているのか。おびただしい選択肢を前に立ち往生するような人生は、無限の可能性を秘めた前途洋々たる人生とも言える。
病棟を舞台とする本作の主人公は、身体と言葉の自由を失ったアルツハイマーの老人と小児ガンの冒された10歳の男の子だ。病棟で日々を過ごし、病棟で生涯を閉じる未来をさだめられたふたりは、ある意味、運命によって「無限の可能性」を奪われた人たちである。

と、ここまではフィクションの世界ではありがちな設定だろう。が、本作は「ガキ」と「ジジイ」の交流を描いている点で、世の「病気モノ」とは一線を画している。

作中において、言葉やジェスチャーで意思を伝えられない老人の心情はナレーションで語られるのだが、まぁ憎たらしい。愚痴や不満が口をついて出てくる意地の悪い「ジジイ」に、「やさしいおじいちゃん」の要素は見当たらないのだ。

一方、高齢者の病室に忍び込んで金を盗んだり、老人の経過記録に偽りの数値を書き込んだりと、いたずらの限りを尽くす「ガキ」もまた、生身の人間である。それでもこの少年を憎めないのは、「病気だから仕方がないか」と思う人情ゆえだろう。残された時間を精一杯謳歌しようとする彼の暴れっぷりは、ままならない現実への苛立ちを伴った切なる叫びとも受け取ることができる。

それにしても奇妙な取り合わせである。「ジッとして話もしない老人と遊びたい」と一途に願い続けた少年はやがて、同じ病室で日々を過ごすことを認められる。さいしょは彼の存在を疎ましいとしか思わなかった老人だが、少年の無邪気さに触れるうち、寝る時間を待つだけだった退屈な日常に彩りが加えられていく。ラストに向けて、誰も分け入ることのできない関係がふたりの間に育まれてゆくさまは、本作の見どころである。

前提として見過ごせないのはやはり、意のままにならない状況なくして、この物語は生まれ得ないということだ。もし老人が言葉や仕草で意思表示をできたなら、少年に「もう来るな」と怒鳴りつけたり、引っぱたいたりしたであろう。もし少年が健康体だったなら、老人などには見向きもせず、級友と学校生活を楽しんでいたにちがいない。「同じ釜の飯を食った仲」という言葉があるように、人間関係の親密度は置かれた環境や境遇に大きく左右される。

少年にとって、老人が「話せなくて動けない」ことは大した問題ではなかったのだろう。老人の目の動きをたよりに、すこしずつ意思疎通を実現させてゆく少年には、打算もなければ忖度もない。ただ「好きな人と仲よくなりたい」という真心は、別の意味で「無限の可能性」を感じさせてくれた。言葉は誰かと心を通い合わせるための手段のひとつでしかないと、少年はわかっているのだ。

人は自分を必要としてくれる人を必要とする。そしてそれが生きる活力になる。複雑に絡み合っているように思える世界は実のところ、至極単純な構図で成り立っているのかもしれないと思える一本。おすすめです。

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