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2019.1.3

正しいことが最善だとは限らない

「今、テーマパークに遊びにきた二人の子どもがいるとします。Aという子どもはテーマパークが閉まる時間は知っているけれど、それまで精いっぱい楽しもうとしている。Bという子どもはテーマパークが閉まるのがいやで、事務所に行って必死にテーマパークを閉めないでと懇願している。それで、閉園が来たらどうでしょう。

 Aという子どもは閉園するのを知っているので、乗りたいものから優先的に乗り、アトラクションも効率よくまわるでしょう。だから、閉園の時間が来ても、ある程度は満足して帰れるのではないでしょうか。かたやBという子どもは、事務所と交渉しちえるうちに閉園時間が来てしまって、乗りたい乗り物にも乗れず、取り返しのつかない失敗をしたと思うでしょう。遊べたはずの時間は、事務所で無駄にしてしまったのですから。

 どういうたとえか、おわかりですね。Aという子どもはがんの治療にこだわらず、時間を有効に使う患者さんです。Bという子どもは、なんとかがんを治そうと無駄な治療に時間を費やす患者さんです。あなたには子どもAか子どもBか、ふたつの選択肢があるのです」

 治療することがかえって命を縮める危険性がある末期ガン患者に向けた医師の説明である。なんとわかりやすいたとえ話だろう。まさに、プロの正論である。医療のプロとして医師が語る論理に一切の綻びはない。だが、患者側は必ずしもその正論を望んでいるわけではない。苦しんでもいいからと、最後の最後まで治療にこだわるのだ。

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治る見込みのない52歳の胃がん患者のためを思い、35歳の外科医は「もう治療の余地はない」と正直に告げる。しかし、まだまだ働き盛りの患者は「死ねと言われたも同然だ!」と憤懣やるかたない様子で、診察室から飛び出していった――。

その一件が心にわだかまり続けている外科医の苦悩や葛藤を軸に物語は進んでいく。悩んでも事実は変わらないのだと、達観とも諦観ともつかぬ考え方を抱くようになり、「残念ですがもう治療法はありません」と患者に淡々と事実を伝える他の医師のようには割り切れない。だからといって、患者や家族を安心させるためにリップサービスをするなら、誠実さを欠いてしまう上に、医療の本質から遠のいてしまう……。

あらぬ希望にすがり続ける「現実をよく知らない」患者。現実を受け容れることが最善だと考える「現実をよく知る」医師。患者は医者の立場がわからないし、医者は患者の気持ちがわからない――。両者の間に厳然と存在する溝が、この物語のテーマであろう。

両者の関係性は、茨の道を歩もうとしているわが子を思いとどまらせようとする親とそれに反発する子どもの「対立」と似たところがあると思う。現実を知らないからこそ膨らんでゆく夢想は果てしなく、勇敢で大胆な行動を生む源泉となるだろう。しかし、その行動がもたらしうる結果をある程度予測できる身には、止めることが最善だと考えても何ら不思議ではない。

傍目には無謀に映る行動がどういう結果を引き起こすにしても、決して揺るがないのは「本人が自分で選んだ道」だという事実であろう。結局のところ、他人からはどう見えようとも、自分自身が納得いく人生に勝る幸福はないということか。

どこに立つかによって、見える景色は違う。その違いを受け入れた上で、どう生きるかを問われるような一冊。おすすめです。