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2019.1.30

テレパシー能力を獲得したい

コミュニケーションの極致であろうテレパシー能力を獲得することが、僕の人生におけるひとつの目標である。というと怪しまれるかもしれないが、僕はいわゆる霊能力や超能力といった類のものとは一切縁のない人生を送ってきた。それを目標にする、というより、自分の潜在意識の中にあったものを意識化するきっかけを与えてくれたのが、ひとりの女性である。

5年ほど前。有機野菜の定期宅配を手がける山形の会社が30周年を迎えるにあたって、記念誌を出版するということで、付き合いの長いお客さん約25名にインタビューをさせていただいた。

専業主婦や会社経営者、医師など、対象者の9割ほどを占める女性の職業やバックボーンはさまざまだったが、「安心・安全な食べものがいい」というニーズは共通していた。別の言い方をすれば、みんな多かれ少なかれ「頭で食べている」ということだった。もちろん、おいしいことは外せない条件であるが、それと同等かそれ以上に「安心・安全」を求めているように感じられた。「安心を買う」とよく言われるが、その人たちは実のところ「安心感を得られる心のよりどころ」を買っているのかもしれない。

そのことに注文をつけるつもりは毛頭ないのだけれど、僕はどうしてもその弊害に目が向く。メディアから入ってきた情報や健康に関する知識が横槍を入れるせいで、目の前の食べものを味わうこと、食を愉しむことがおろそかになってしまわないか、気になってしまうのだ。裏を返せば、僕は、今、この瞬間を生きたいし、きっとその方が人生の幸福度も高まるだろうと思う側(がわ)にいるということだ。

だからこそよけいに、際立ったのかもしれない。話を聞いたお客さんの中でひとり、僕を惹きつけてやまない50代くらいの女性(Aさん)がいた。「ただおいしいから(有機野菜を)食べているのだ」とAさんは言った。「安心」だとか「安全」だとかいうことは、眼中にすらないようだった。「毎週届く野菜は、わたしにとびきりの楽しみを提供してくれる遊び道具」と表現されていたが、娘さんいわく「一度たりとも、食卓に同じメニューが出てきたことがない」ほど料理好きな人だった。なかでも印象的だったエピソードがある。

“ 20代の頃、どういうわけか、身体の欲するがままに、茹でたどくだみを食べ続けていた時期があった。理由がわかったのは、いつの間にか食べなくなってからしばらく経ったときのこと。そういえばあの頃は鼻炎な発疹などのアレルギーに悩まされていた時期だった、と合点がいった。実際、アレルギーが完治して以来、どくだみを食べたくなったことはまったくない”のだと。

Aさんの食に対するスタンスは、自身が聞き手として心に留めていることに通ずるところがある。どんな職業に就いているとか、どういう過去を歩んできたとか、ある程度相手のことを知った状態で話を聞く場合が大半だが、毒にも薬にもなるのが知識の存在である。「経営者は◯◯」とか「女性は◯◯」とか、話し手に関するよけいな情報が入り混じると、相手の言葉や表情をそのまま味わうことができなくなってしまうのだ。

となると、相手への理解を示しているようでいて、その実、自分の中にある仮説を裏付けるために相手をの話を都合よく受け取るという事態に陥りかねない。要は、自分に関心の的が向いている状態なので、相手に対する理解など望むべくもない。

「知ることは不安を鎮める」と言った人がいたが、情報や知識は自分を守るための鎧となる。その鎧は、強靭で安定した自分を形作るために役立つ一方で、柔軟で自由な思考を奪うデメリットをはらんでいる。人は何かを得れば、何かを失う。その前提が揺らがないのであれば、常にその両方に意識を傾けておきたい、と僕は考えている。

身体がどくだみを欲しているとAさんが気づいたのは、自分の身体から発せられる声に耳を澄ましつづけてきたからではないか。過去の経験や常識にとらわれることなく、目の前の人の言葉や表情に100%集中しようという意識を持ち続けていれば、いつか「テレパシー」と呼ばれる世界が僕を迎え入れてくれるだろう。

とはいえ、「テレパシー」は手段でしかない。僕はただ、心が溶け合う瞬間が、待ち遠しいだけなのだ。

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