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2019.12.24

「美しさとは何か?」を問い直したくなる。ZARDの坂井泉水に思う「手に届かない」存在の価値

ドラマや映画、舞台(ときどきバラエティ番組)以外ではお目にかかれなかったタレントや俳優もSNSで発信するようになった昨今、彼ら、彼女らの素顔やプライベートを垣間見れるようになったことで、一般人と芸能人の距離はひと昔前よりもはるかに近づいたように見える。どうやらTwitterのダイレクトメールやInstagramのコメントを通して、芸能人と直接やりとりすることもできるらしい。

ドラマや映画、舞台(ときどきバラエティ番組)以外ではお目にかかれなかったタレントや俳優もSNSで発信するようになった昨今、彼ら、彼女らの素顔やプライベートを垣間見れるようになったことで、一般人と芸能人の距離はひと昔前よりもはるかに近づいたように見える。どうやらTwitterのダイレクトメールやInstagramのコメントを通して、芸能人と直接やりとりすることもできるらしい。

本来、手が届かないはずの存在に手が届く。そんな時代だからこそ僕は、露出が限られていて、ミステリアスな部分が多い芸能人に惹かれる。

その最たる存在が、今は亡きZARDの坂井泉水である。最近知ったことだが、テレビの出演はほとんどなく、ライブもあまり開催しなかったため、一時は「実在しないのではないか?」という都市伝説まで生まれたのだとか。

この人のエピソードで特に好きなのが「坂井さんは、撮影されるのが苦手というか、レンズを向けられると緊張するタイプでした。だから、プロのフォトグラファーが正面からねらって撮った写真よりも、素人のスタッフが何気なく撮った素顔の写真のほうが魅力的なことも多かった」というもの。

あえて言うまでもなく、写真や映像で見るこの人は、ほんとうに美しい。月並みな表現だが、これほど美しい人は二度と現れないんじゃないかと思わずにはいられない。それは単に整った顔立ちや透明感ある肌といった外見だけでなく、内面や生き方を含めたすべてをひっくるめた「美しさ」を、謎めいた彼女の存在がさらに引き立たせているからだろう。笑顔の写真がごくわずかしか残されていない(公表されていない)から、よけいにそう思うのかもしれない。

「(坂井泉水の映像やスチールを撮るうえで)カメラマンやディレクターは作品性を意識しない、主観を入れない、そこでなにかしらの自己実現を試みないことを徹底していた」というエピソードからしても、彼女の存在そのものの魅力に勝るものはなかったのだと想像できる。

多くを語らない彼女なら、もし今も生きていたとしても、人々にとって手の届かない存在であり続けたんじゃないか、と思うのは僕の願望だろうか。

広末涼子がSNSをやらない理由について「私が憧れてきたこの世界や女優という職業の“スペシャル感”を壊したくないから」と語っている記事を読んで、膝を叩いた。

生きていくうえで「手の届かないもの」はあった方がいいのだ、絶対に。

ZARD 坂井泉水

画像:『永遠』より