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2020.1.17

悪者なのか、犠牲者なのか?/映画『この自由な世界で』

旅行で訪れたベトナムで、ストリートチルドレンの子どもたちが友人の財布を盗んだ。走り去る時、ものすごくキラキラした笑顔をしていた。『犯罪を犯しているのに、どうしてあんな笑顔ができるんだろう』と思った。それで気づいたのは、彼らにとってはそれが犯罪かどうかよりも、苦しい生活の中でお金を手に入れて、自分の母親を喜ばせてあげることの方が重要だということ 」※

“悪者”は出てこないこのエピソードと似た背景を持つ映画がある。『この自由な世界で』(2007)。イギリスのシングルマザーが起業し、四苦八苦しながら事業を軌道に乗せようとする過程が描かれた作品である。

フィクションという体で撮られたドキュメンタリーのような作品なので、いわゆる感動モノが苦手な人にはぜひおすすめしたい。(この作品の制作を指揮したケン・ローチ監督の作品がおすすめ)大げさな音楽や過剰な演出はないのに見入ってしまうほど、引力があることに感動する。胸に迫るとか胸が詰まるという表現では追いつかない、強烈な作品だった。

ベトナムの純粋無垢なストリートチルドレンとは違い、ロンドンで移民労働者を対象とした人材派遣業を始めた主人公は分別がつく大人である。しかし、約束された未来などひとつもない汲々とした日々のなかで、ひとり息子との幸せな暮らしを手に入れるため、超えてはならない一線を超えてしまう。そんな彼女を“悪者”だと責められる人はいるだろうか。

今日を生き延びるためにままならない現実と格闘し続けている人間に、倫理観や道徳観を問うのはナンセンスだ。そう思わされるのも、彼女らを翻弄する市場メカニズムが生んだ社会の歪みまで、映画の中でしっかりと描かれているからだろう。持つ者と持たざる者を隔てる格差が広がっていくばかりの社会構造には、絶望感すら抱かされる。その意味で彼女は、“犠牲者”でもあるのだ。

何かを得るためには、何かを失う。目的を達成するためには、手段を選んでいられないこともある。人は自由を手に入れる代わりに、自分の身は自分で守り、自分のケツは自分で拭かなければならない……。こうした「現実を濃縮したような現実」が描き出されているところに、この映画の魅力が詰まっている。

しかしまぁ「この自由な世界で」というタイトルからは想像しがたいほど、ひとかけらの甘さもない物語だ。虚構の世界なのだからもう少し救いがあってほしい、というこちらの願望はついぞ叶えられることはなかった。きっとそれは「より安い資源や労働力を得ようとする経済システムは、家族や社会、ひいては地球を壊していく」と危惧するケン・ローチ監督の“怒り”のメッセージなのだろう。(この作品を好きになった方には、現在公開中の『家族を想うとき』もおすすめ)

われわれは、市場原理とは切っても切り離せない経済システムから逃れることはできない。ならば、その現実にどう処すればよいのか。簡単に答えを出すことのできない問いを突きつける本作には、観た人の心を捉えて放さない何かがある。

成功体験が子ども変えた」スラム楽団率いる日本人 より引用ケン・ローチ『この自由な世界で』