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2020.3.4

否定されているんじゃない。意志の強さを試されているんだ

今の時代にはありえないと思うが、都会しか知らずに育てば、「川は濁っている」ものと思い込み、山奥しか知らずに育てば、「川は澄んでいる」という前提が生まれる。同様のことは他でも言えて、旅行した外国で何事もなければ、「治安のいい国」だという印象を受ける一方、その国で事件を見聞きすれば、「治安の悪い国」という烙印を押しても不思議ではない。

大人がよく「いろんなことを経験した方がいい」とか「本を読んだ方がいい」、「旅をした方がいい」と言うのは、自分の知っている世界は全世界の一部でしかないことを確認するためにそれらの手段が適しているからだろう。

別の言い方をすれば、「自分の知っている世界がすべてじゃない」とくり返し実感し、他人の意見に左右されにくいしなやかな自分を作り上げるためのトレーニングとして、さまざまな経験や読書、旅は有効だということだ。「男は〇〇」「日本は◯◯」などと、何かと何かをイコールで結びつける習慣は人生を窮屈にする。

人生において、自分の意見や考え方を押しつけてくる(個人の受け取り方にもよるが)人は、一定数、出現する。これまで僕が見聞きしてきただけでも、新しいことを始めた人はみな(と言ってもいいほど)「無理だから辞めておけ」と言われた経験を持つ。ちなみに、「“善意ある忠告”に耳を貸さないことから大人は始まる」と言う人(都築響一)もいる。

人間、誰の目にも明らかな成果を出せていないときは、自分に自信を持てず、不安になりやすいものである。どんなときもよけいなことを考えずに、今を生きるのがベストだろうが、それほど難しいことはない。

そんな折、正解は一つしかないと言わんばかりの断定的な物言いで否定されると、多少なりとも足下が揺らいでしまう。それがいい結果を生むこともあるが、ともすれば、自分が大事にしてきた何かを断念することにもつながりかねない。どんなに人生経験が豊富な人でも、どんなに影響力が強い人でも、「すべての人にとっての正解」は出せないはずなのに。

ただし、見方を変えれば、これほどよい鍛錬もない。ラグビーで他の選手のタックルを受け止めることがトレーニングになるように、他人の意見や考え方に揺らいだり、惑わされたりするからこそ、足腰は鍛えられるのだ。

(その指摘に従った方がいい場合もあるが)、否定されているのではなく、自分の意志の強さを試されている。そう考えることで、「根拠のない自信」は「根拠のある自信」に近づけられる。