雑念があることが人間たるゆえんではないか、と最近とみに思う。雑念を振り払うために、人はさまざまな理由づけをしながら生きている。私はこの仕事をやるために生まれてきたんだとか、神は乗り越えられる試練しか与えないとか。自分の生き方をより確かなものにするために理由づけしている、とも言える。いずれにしても、たいていの場合、物語はそこから生まれる。
世の中には、15歳で職人の道に入り、その道一筋でがんばっている人もいれば、30歳になってもフラフラしている人もいる。本来、優劣はないはずなのに、前者の方が優れているように錯覚するのは、常識や価値観に縛られているからだろう。
人には「理由をあまり求めなくても生きていける」タイプと「理由を求めずには生きていけない」タイプがいる。実際はこんなふうに明確に二分化できるわけでもなく、その度合いに差はあるが、確かなのは後者の方が人生における迷いや惑いは大きくなるということだ。
究極の前者は、働きアリ(をはじめとした動物全般)だろう。女王アリのために餌をせっせと巣に持ち運ぶ理由を(たぶん)考えていないし、仮に彼らが言葉を持っていたとしても「それが仕事だから」という答えしか返ってこないと思う。いや、仕事だとか労働だとか役割だとか使命といった概念すら彼らの頭にはなく、「生きるとはそういうものだから」という一言で片付けられそうだ。おそらく彼らの中に、迷いや惑いは存在しない。
「料理なんて、目をつぶって10年続けたら誰でもできる」現在、シェフとして自分の店を構えているは、修行時代にその言葉を支えにしていたという。もちろんこの場合の「目をつぶって」とは比喩表現だ。「自分には向いていないかもしれないとか、もっと上手な人はたくさんいるのに、といったよけいなことを考えずに、目の前のことに没頭しろ。そこにしか真意はない」というメッセージである(とその人は解釈していた)。
僕自身にも、よく似た記憶がある。まだライターらしいことは何ひとつできていない時分、人生の先輩から「とにかく10年続けなさい」という言葉をいただいた。アフリカ旅行を専門に扱う旅行代理店の創業者で、30年ほど事業を続けてきた方だった。終始、物腰は柔らかかったが、ニッチな分野で生き残ってきたからなのか、自身の経験をもとに導き出された言葉だからなのか、不思議な説得力があって、ずっと頭の片隅に残っている。
よくよく考えれば、10年という数字に明確な根拠はないし、10年が経ったある日突然、自分を取り巻く世界に変化が起こったわけでもないだろう。不確かで茫洋とした未来に向かっていく過程で、ひとつだけ確かなもの(「10年」という区切り)を定めることで、ざわつく心を鎮められる、その一点に尽きるような気もする。
生きるために理由が必要ならば、理由をかき集めるなり、創り出すなりすればいい。たぶんその過程がいつの日か、誰かにとっての理由になる。
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