Profile
※ 約5,000字
ひとりからチームへ
かねてより温めてきた目標は、しばらくの間、持ち越しになりそうだった。
21歳の春。服飾関係の専門学校に通う向は、服のパタンナー職に絞って就活をおこなっていた。しかし、書類選考や面接をクリアして実技試験までは進むものの、採用にまで至った会社はゼロ。学生でいられる期間もあとわずかと迫り、向は焦りを感じはじめていた。
自営業を営む父からは「事務職でも何でもいいから働け。お金は絶対に稼がなあかん。フリーターはかろうじて許せるけど、できれば正社員として働きなさい」と言われた。進路などについてはめったに口を挟まなかったが、こと仕事に関しては厳しい人だった。
パタンナーにはなれずとも、ものづくりの仕事にはこだわりたい――。父の言葉を頭の片隅に置きながら、就職口を探していたときに見つけたのがミニッシュだった。入社が決まったのは2010年3月中旬頃。「もし卒業後の就活だったなら、こだわりを捨てていたかもしれない」と向は当時を振り返る。
かくしてミニッシュに入社、企画部に配属された向は、3ヶ月の間、ひたすら靴の生地や型紙を切る練習、いわゆる基礎固めに時間を費やすこととなる。
作りが服と似ているところもあれば、まったく違うところもある。新しい発見と出会える靴づくりは楽しかったが、会社に貢献できている気はしなかった。これでお金をもらってええんかな、という後ろめたいような気持ちが社会人一年生の向をたえず苛んでいた。
入社前は仕事と専門学校(夜間コース)との両立を考えていた向だが、そのビジョンは早々に立ち消えとなる。日々の業務に追われるなかでそんな余裕はないことに気づいたからである。だからといって、後ろ髪を引かれることもなし。ほどなくして服づくりは、趣味の域で楽しむものへと変わっていた。
それから6年。向のなかで服のパタンナーへの想いは再燃する気配もないまま、靴づくりに没頭する日々が続いている。
「何としてでもパタンナーになりたい、というような強い気持ちはなかったんでしょうね。今にしてみれば、ものを作ることがしたかったんだと思います」
ものづくりに目覚めたのは、幼稚園の頃だった。先生に教わったことがきっかけだったのか、自分の指に毛糸をひっかけて編んでいく手編みのマフラーを作った記憶は残っている。危ないという理由で親に禁止されている針をこっそり使いながら、ポケットティッシュを入れるハンカチを作ったのは小学校低学年頃のこと。おぼろげな記憶だが、折り紙やお菓子の空箱で作る小物入れなど、なにかを作る作業に向かうのが常だった。
中学生になるとリメイクをした服を自分で着たり、高校生になるとヘアアクセサリーを自作したり。10数年来、心がおもむくままにものづくりを続けてきた向は、姉から紹介されたパタンナーという職業を志し、服飾関係の専門学校に進学する。
「ものを設計しているときや作っている工程が好きなのかもしれない」そう自己分析する向にとって、ミニッシュでの仕事は楽しかった。靴が出来上がっていく過程にたずさわれて、完成品が見られるだけで満足だった。
もとより、ひとりで物事に取り組むことがふつうだった向にとって、人に仕事を教えたり、振ったりすることは苦手だった。というより、どうやればいいのか見当もつかなかったというほうが正確かもしれない。
ケーキ屋でレジ接客のアルバイトをしていた専門学生時代、先輩の仕事ぶりを見て覚えようと後ろをついてくる後輩スタッフの行動がまるで理解できなかった。
デザイナーやパタンナーで5人くらいのチームを組んで7点ほどの服を制作し、ひとつのブランドを作り上げていく。そんな課題が与えられた専門学校の卒業制作でも、向はチームプレーに対する苦手意識を感じていた。
ミニッシュでもその傾向は表れていた。とはいえ、会社という組織の中で、ひとりで仕事を抱えこむには限界がある。ただでさえ仕事量が多いなか、自身が作る製品の仕上がり具合は悪く、技量面での不足を補うべくしゃかりきになっていたことも重なっただろう。断続的だが、会社に泊まって徹夜で仕事をした時期もあれば、終電で帰宅、始発で出社というサイクルが続いた時期も1年近くある。自分がやらなあかん、自分がやらなあかん……。せき立てられるような思いで埋め尽くされた向の胸裡に、チームで仕事を進めるという発想は芽生えようがなかった。
気づかぬうちに溜まりに溜まっていたものがはけ口を求めていたのだろう。入社3年目頃のある日、仕事をしているさなか、突然、涙が溢れ出してきた。限界の訪れを告げる身体のシグナルは、どんな言葉よりも正直だった。
高本に促されていったん帰宅した向はその日、鎮まらない心を持て余しながら町を徘徊している。「この仕事は自分に向いていないから辞めたい」という旨のメールを高本に送ったのはその道すがらである。深く考えて出した結論ではない。心に浮かんだ泡のような言葉を風まかせに放り投げただけだった。
一方、「向は小さい身体にものすごいエンジンを積んでいる感じ。入社時から尋常じゃないがんばりやだった」という高本は、向がそれほどまでに追い詰められていることに気づけなかった自分を責めていた。「あの子を引き止められへんかったら、俺は社長を辞める」そう妻に宣言した高本は、思いの丈を綴った長文メールを向に送っている。
翌日。冷静さを取り戻したこともあり、辞職を思いとどまった向の姿に、高本は胸を撫でおろしていた。向は当時を振り返る。
「数段階先にある着地点が見えている状態で仕事をしているのは自分だけ。手が足りなくなったときだけほかのスタッフに目の前の作業をお願いする、いわばお手伝いのような感じで接してしまっていたのかなと思うんです。おそらくは、まわりを信頼しきれていなかったのかなと。遅かれ早かれ、一度は通過しなきゃいけないところだったんだと思います」
その一件をさかいに、向の考え方は少しずつ変わっていく。仕事はひとりでやるものではなく、チームでやるもの。折しも「本を1年間1ヶ月あたり2冊読み続けて感想文を書けばベースアップ」という社内企画が進められていた時期だった。マネジメントや自己投資に関する自己啓発本やビジネス書を積極的に読むようになったことも向の成長を後押しした。
「自分が大きく変わったきっかけやと思います。でもたくさん読んだわりには、内容を全然思い出せない(笑)」という向だが、まわりの成長や自主的に取り組む姿勢に気づくようになったりと、たしかに変化は訪れていた。
それから約4年。会社の成長とともに、入社当初は3名だった企画部メンバーは8名に増加。プロジェクトの着地点をみなで共有し、時折、進捗確認をしながらチームで仕事を進める今がある。
そんな向が「おまえはそんなに急がなくていいものでも、やらなあかんと思ってやってしまう性格や」と父から指摘されたのは2,3年前のことだ。
「一緒に住んでいるけど、共働きで昼間は家を出ているから、父はその“事件”のことは知らないはず。わたし自身、まったく自覚はなかったし、何を見てそう思ったかはわからないけれど、納得するところはあったんです。振り返れば、そこまでやらんでよかったんちゃうかな、と思うことはありますから」
無意識のうちに自分で自分を追い込んでいくようなところは専門学校時代からあった。だが、卒業制作の時期には女どうしで「きょう風呂入った?」という会話が交わされるような環境に要請されたところもあったのだろうか。向が自身の内側から湧き出す強迫観念めいた思いに気づくことはなかった。
「正月の三ヶ日くらいしか休みがないような働き方をしている両親の姿がわたしの中に植え付けられているのかもしれませんね。大人になれば働くのは当たり前、なぜ働くのかという疑問を持ったことはないですから」
立ち仕事をしている両親が「腰が痛い」とこぼしているのは聞いたことはあるが、仕事に関する愚痴や不満は聞いた覚えがない。態度やふるまいから感じたこともない。いつだったか、「毎日働いてしんどくないん?」と尋ねたときには、「家族のためにやっていることやから全然しんどくない」という答えが父から返ってきた。
「どうしてか、仕事はしんどいものと思っている節はあったから、入社当初、こんなんでお金をもらっていいんかなという感覚を持ったんでしょうね。いまは休むときは休んでいいと思うようになったりと、仕事に対する考え方はゆるやかになったように感じています」