ライフストーリー

公開日 2016.8.2

Story

「ただ靴を売りたくてこの会社に来たわけじゃないんです」

シューズミニッシュ 東京営業所 所長(取締役) 松田 良博さん

新たな学びを得て

「私はプレイヤーとしては一流かもしれないけれど、コーチング、トレーナー、アドバイザーとしてはまだまだ三流レベル。自分でやってみせることはできるけれど、人に知識や技術を上手に移転することは、今後も勉強を積み重ねていく必要性を強く感じています」

松田に新たな視点や発想をもたらしたのは、ファシリテーターという存在だった。高本から薦められて、月に2回、チームビルディングを学ぶため、組織開発ファシリテーター・長尾彰が主宰する「東京ファシリテーション部(下北沢)」に参加するようになったのは2015年5月のこと。2016年7月現在、45回の開催回数を数える「日本で数少ない貴重な部活動」だ。
「司会者、議事進行役、MC、コーチ、アドバイザー、コンサル、アシスタント、案内人、監督、指導者、伴走者……。その時々に応じていろんな顔を使い分ける存在。よくよく見てみると、完全な中立ではないけど、中立であろうという姿勢で、参加者の話を引き出しつつ、対話をうながして、参加者みんなが納得して動いて行くための場や環境を作っていく役割。それがファシリテーターだと理解して、すごいなと思ったんです。

おそらく社会構成主義をもとに考案されたのであろう、『オープンダイアローグとは何か(斎藤環 著+訳)』に、次のように解説されていました。

『オープンダイアローグでは、たとえ意見が対立しても、あらゆる声の存在が許容されます。意見の集約や善悪二元論的な価値判断よりも、傾聴とやりとりが推奨されます。すべてのメンバーには、同意しない自由があります。それでも、安心できる雰囲気のなかで、異なる視点を交換し続けていると、しだいにポジティブな変化が起きてくるのです。

それゆえオープンダイアローグのゴールは、全員が合意に達することではありません。それぞれの異なった理解を、うまくつなぎ合わせ、共有することです。合意や結論は、この過程から一種の“副産物”のようにしてもたらされるのです』

よくも悪くも自分ができちゃうからでしょうね。以前の私は、相手の納得度を考慮せず「このようにしたらいい」と自分のやり方を押しつけていましたから。ファシリテーションを学びはじめたことで、本人が納得しているかどうかに物事の継続性は大きく左右されるということが、この歳になってようやくわかってきたんです」

松田は、高本からよく「委ねましょう」「みんなが失敗するチャンスを奪ったらダメですよ」「失敗するとわかっていても、カバーできるなら見守ってみましょう」と注意されるという。
「新規取引の際、私が事前に取引条件を整えて契約を済ませておいて、一緒に働いているスタッフに委ねて本格的な商談に臨んでもらったり、販売実績を積み重ねられる状況で担当を任せたり。まわりが気持ちよく仕事に取り組めて、会社全体の事業が好回転しやすい環境をつくることを、高本は私に求めているように思います。グッと我慢することが私たちの仕事ですね」

現場の最前線に居座り続けてはいけない。後輩たちに任せていかなきゃいけない―—。そうとはわかっていても、ムクムクと頭をもたげてくる衝動めいた思いにまかせて、つい手や口が出てしまうもの。高本から「ちょっとここは我慢しましょう」と制止されて自省するのだが、最短距離でゴールに向かって驀進するような「出たきり雀」時代を思えば、大きな変化である。
「現場好きな私にとっては、正直、すごく名残惜しいのです(笑)」

 

源流に向かって

バブリーな時代に大学生活を送った松田は、証券会社や商社、金融機関を志望する大学の友人たちを尻目に、ほぼ製薬業界に限定して就職活動を行っている。大手から中堅まで受けた約20社のうち、最終面接にまで辿り着いた会社からはすべて内定を獲得。「ほぼ」というのは、日本中央競馬会という唯一の例外が存在したからである。

松田が日本の製薬会社最大手・T薬品の内定を辞退したのには理由がある。

大学4年の5月、T薬品の内定者全員が集められた神楽坂の高級料亭で、松田は自分しか明大生の内定者がいないことを知る。他の私大に枠を広げても、慶應大、早稲田大以外の学生は見当たらないのである。早稲田大OBの現役MRから、「東大や一橋大など国立大の理系出身者や薬科大学出身者が圧倒的に有利。文系出身者というだけでチャンスがなかなか与えられない」と聞いたことも選択を後押しした。
「学閥や派閥が嫌い。裏を返せば、実力で勝負できる世界を求めていたんです」

そもそも製薬業界を目指す直接的なきっかけとなったのは、就職活動をしていたさなかに、大好きだった祖父と祖母を立て続けにガンで亡くしたこと。その際、医療現場ではたらく医師や看護師の姿に触れたことが、人生の進路を明確にしたのである。

一度は医師になるために医学部に入り直そうかとも考えたが、特別奨学金をもらいながらギリギリの生活を送る身には非現実的だと断念。文系出身者でも関われる医療業界の仕事として目に留まったのがMRだった。
「今にしてみれば、本当に必要とされている薬を広めることで救われる人もいる、というように間接的に誰かのためになっている実感を得られそうな仕事を選んでいたのかなと。時代も時代でしたし、もしお金儲けだけを追い求めていたのなら、証券会社や銀行を受けていたはず。ただ社会人になってみて思ったのは、理想と現実は違うということ。そんな単純なものではなかったですよね」

30歳のときにヘッドハントされて転職したアメリカ系製薬会社(マリンクロット)で、CT検査、心臓カテーテル検査などで使用する非イオン系造影剤を扱った松田は、32歳のときにスイス系製薬会社(ノバルティス)に転職。臓器移植や骨髄移植に欠かせない免疫抑制剤・シクロスポリンや、慢性骨髄性白血病(CML)治療薬として用いられる抗癌剤・イマチニブを扱うようになる。

臓器移植の現場で使用する免疫抑制剤を例にとれば、副作用も多く、投与量や血中濃度コントロールなど取り扱いが難しいため、医師の処方については高度な技術が求められた。そこで松田が担っていた、最新情報や参考文献をもとに医師や薬剤師にコンサルティングをする「スペシャルMR」という仕事は、医師や薬剤師、ときには患者から直接感謝してもらえるという点でやりがいに溢れていた。
「個々の患者さんにあわせた薬の使い方など、情報を提供して役に立ち、医師から信頼されること、そして医師の期待を超えるものを提供することが自分の喜びや満足感につながったんです。その薬がなければ生きていけない人に処方されるのだから、学生の時に理想としたMRの仕事にやっと近づけた感覚はありましたね」

松田がMRとしてキャリアを重ねるごとに「より難しい方、より必要とされる方」へと向かっていった源流には、亡くなった祖父母にまつわる記憶が息づいていた。
「今でもそうですが、最終的にみんなが喜んだり、幸せになったりするために動くのは、自分のなかにある正義感が突き動かされるからか、さほど苦にならない。高本から誘われてミニッシュに入社したのも、必死になって、がんばっている彼を見てなんとかしてあげたいという気持ちが発端でしたから」

 

高本泰朗と出会って

ミニッシュ代表取締役・高本泰朗との出会いは2007年2月にさかのぼる。

当時、百貨店内薬局・調剤薬局の経営、大手通販会社への卸売を手がけるコスゲの通販開発部に所属していた松田は、美容と健康に関する商材からキャラクターグッズまで、ありとあらゆる商品を大手通販会社に供給する役割を担っていた。その日、松田が東京ビッグサイトで開催されていたインターナショナルギフトショーに足を運んだのは、めぼしい商品を探すためだった。

全国津々浦々から数多の企業が集う大規模スペースの一角に、背水の陣で臨むひとりの男がいた。当時、シューズミニッシュの専務だった高本泰朗である。

高本にとっては2度目の出展だった。コピー商品が跋扈する靴業界への憎悪をつのらせ、未来に絶望し、仕事を放り出したこともある「人生最悪の時期」。そこから抜け出す手がかりを得たのが、その前年、大枚をはたいて出展したギフトショーだったのである。

とはいえ、松田にはそんな事情など知る由もない。だが、会場に展示されていたリゲッタ・アクアサボを履いてみたとき、その履き心地のよさには感じるものがあった。クロックスを模したような見た目だが、インソールのアーチサポート機能など、単なる模造品にはとどまらず、ひと工夫、ふた工夫が施されていることは語られずとも伝わってきた。そこでの名刺交換を境に、ふたりの付き合いは始まった。

「自社のリゲッタでメジャーデビューしたい」という高本の口癖めいた言葉を耳にしながら、松田は高本を押し上げるかのように大手通販会社のバイヤーへの攻勢をしかけていく。

カタログ通販大手の千趣会とはじめての商談に臨んだとき、高本が持参した自作のダミーカタログを見た松田の中でなにかが弾けていた。見開き1ページのカラー紙面に配置された、実際に靴を履いている様子を撮影した写真、女性モデル(高本の妻)にポーズを撮らせた写真……。コンセプトをそのままカタログ誌面に投入できるほど完成度の高いダミーカタログは、作り手の本気度を物語っていた。

「やっと掴んだチャンスを絶対にものにするという高本の執念が、商談の機会をセットした私にもビシビシ伝わってきたんです。

あとで千趣会のAバイヤーから聞いたところでは、私と高本の熱を込めすぎたプレゼンに圧倒されて質問もできなかったらしくって(笑)いま冷静に振り返ると、気合が入りすぎて空回りしていたかもしれません」

その商談後、発行部数の多いメイン媒体でリゲッタが初採用されたことを機に、ミニッシュは上昇気流に乗ってゆく。
「松田さんは、出会って以来、ぼくのブースターというかニトロになってくれた存在。ものを売るということに関してふたりの相性が良すぎた」と話すのは高本だが、翌年、千趣会のカタログに掲載されたリゲッタはヒットし、その勢いは同じくカタログ通販大手のディノスやニッセンにも波及。リピート購入を増やし、口コミで評判となったリゲッタは、カタログ通販の世界で知名度を上げていったのである。ふたりがカタログ通販部門を主戦場にして、リゲッタを本格的に販売をはじめた年のミニッシュの年商は4億5千万円(2009年)になっていた。

松田が属するコスゲにとっても、ミニッシュは売上構成の約50%を占める主要取引メーカーとなっていく。ただ、この上ない化学反応を起こすふたりのアタッカーは、製造インフラが十分に整っていないにもかかわらず、想定以上の注文が舞い込んでくるために、商品供給が追いつかなくなってしまう状況も生んでいた。

そんな時期も経ながら、ミニッシュは6億5千万円(2010年)、テレビ通販にも拡大した翌2011年は8億3千万円と順調に年商を上げていく。立場は違えど「戦友のような感覚」を持つ高本と酒を酌み交わしながら「やっとここまで来たね」と感傷にふけり涙を流してしまったのはこの頃だったか。

12億円(2012年)、16億円(2013年)とさらに勢いづくミニッシュの年商が20億を超えたのは2014年のことである。高本から誘われてミニッシュに入社した2012年秋以降、松田は東京営業所所長として奔走してきた。
「上から目線かもしれないけど、高本が成長していく姿を見てさらに応援したくなったんです。経営の勉強をするために、りそなマネジメントスクールに通ったり、ファシリテーションの勉強をはじめたり。おそらく大学で学んでいないぶんの知識や時間を取り戻すための努力を相当しているのでしょう。二次曲線を描いているかのようなここ5年くらいの彼の成長っぷりには目を見張るものがあります。

決算書やキャッシュフロー計算書など、経営に関するいろんな情報をガラス張りにしていることにはじまり、私が酒の席で口にした“こんなグループ会社経営が理想だな”という夢物語をすべて現実化させてきているわけだから、おのずと応援したくなりますよね。

さらには、育ってきた環境や闘ってきたステージは全然違うけれど、似たような苦しみや逆境にさらされてきた身として、共感できるものもある。そんな高本から「一緒にやろう」と誘われれば、断る理由なんて何ひとつなかった。当時、私は43歳。残りの人生を賭ける場所としてミニッシュを選んだんです」

RegettaCanoe 代表取締役の日吉は言う。「松田さんはとにかく高本のことが大好きなのが伝わってくる。真っ直ぐな性格が時として裏目に出ることもあるけど、定まった目的を何がなんでも達成しようと実現にまで漕ぎつける力はすごいと感じます」

 

冒険できる場所へ

製薬会社に勤めるいちサラリーマンだった松田の世界を大きく広げたのは、会社経営者や弁護士、タレントにフリーアナウンサーなど、ワインという趣味の世界を通じて出会ったワンランク上の日常を送る人たちだった。

職場仲間とのお酒の席では愚痴をこぼし合うものと相場が決まっていたなか、ワインという趣味を楽しみながら生き生きと仕事をしている人たちとの会話は松田の好奇心を刺激してやまなかった。

彼らとの出会いもきっかけとなり、35歳のときにスイス系製薬会社をスピンアウトした松田は、薬袋広告会社メディアマスターを共同設立する。

だが、ほどなくして松田は見通しの甘さを痛感させられる。大学で経営学を学んだとはいえ、その後ろくに経営の勉強をしていなかったこともあり、1年で持ち株を投資家に譲り撤退を余儀なくされたのである。

その後は日銭を稼ぐため、先物取引のデイトレードに手を出したり、人材コンサルティング会社を設立したり。M医師のクリニックの立ち上げに参加して健診部長を務めたこともある。

そんな松田がコスゲに入社したのは38歳のとき。組織を「出たきり雀」となってからさまざまな場所を飛び歩いたあげく、3年ぶりに舞い戻ったのが住み慣れし組織の核弾頭という居場所だった。
「ワインを通じた出会いとか、いろんなことがきっかけで大きく逸れるスライスボールを打ってしまったんでしょう。その後、 起業するもうまくいかなかったりと池ポチャやバンカーを経ながら、結果的に隣のホールのグリーンに乗ったような感じですね(笑)。

私はよく特殊な経歴の持ち主として見られがちですが、実はシンプル。MRからファイナンシャルプランナーになって生命保険会社で活躍する人は多いけれど、きっかけさえあれば、私も同じような道に進んでいてもおかしくはなかった。営業というくくりで言うと、レクサスの販売員も保険のセールスレディも、本質的には何ら変わらないと思っています。まさか私がシューズメーカーの取締役になるとは思ってもみませんでしたけど(笑)」

ミニッシュで面接を担当していたときの松田は、応募者に対してよくこんなことを語っていた。
「会社が豊かになれば、いずれ自分たちにもリターンがある。ふつうの大きな会社、守られた会社にはない冒険がここではできます。夢を持ってこの会社に加わるかどうか、私たちの船に乗るかどうか、考えてほしい」

松田は言う。「私自身、業界最大手のT薬品ではなく外資系中堅のベーリンガーを選択したときにせよ、安定した環境にはチャンスはないと思ったんです。もし「おまえの本業は学問や」という父の言葉に従っていただけなら、親の庇護のもとで関西の国公立大学に進学していたなら、東京でアルバイトをすることもなく、そつなくこなす平凡な人生を送っていたかもしれませんから。

そうは言っても、楽な方がいい、楽な方がいいんですよ。ただ楽な方を選んでも、つまらないと感じちゃうんでしょうね。便利な道具や機械、システムがなくても、自分の頭を使って工夫すれば、可能性は無限大に広がるし、より大きな成果をつかめたりする。そして達成感もある。真におもしろいアイディアや発展性のある企画は、逆境や苦しみのなかに身を置いた人間でなければ出てこない気がしますしね。

事実、高本が生み出したリゲッタ、カヌー、ポルマーマといったブランドは、マーケティングのイメージ戦略でつくられたような砂上の楼閣じゃない。ただ見た目がかっこよくて、かわいいだけでもない。苦しみの中で突き詰めていった顧客ニーズが中心に据えられているから、ユーザーに長く愛されたり、熱烈なファンができたりする“本来のブランド”になっていると思うんです。

スタッフが各々で考えて革新を繰り返しながら、お互いの結束を保ちつつ強くなっていく。そんなホラクラシー構造の自主自立型組織を実現させようとしているのがミニッシュです。

これからミニッシュという会社は大きくなっていくだろうけど、その礎になる時代にみんなで楽しく働けるのは嬉しいこと。この会社のサクセスストーリーをたくさんの人に知ってほしいんです。

うちのスタッフの中には、もともと引きこもりだったり、ニートだったりした人たちもいます。今まで私が勤めた会社では、まちがいなく面接も叶わなかった人たちがここでは活躍している。そんなふうに泥臭くて、過去ではなく今を見る姿勢を持ったこの会社が大好き。長い間ものを売る仕事には関わってきたけど、ただ靴を売りたくて来たわけではないんですよね」

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