should(すべき)から want(やりたい) へ
いくら闘いが好きとはいえ、目の前のつらい現実に追い詰められた精神は、高本に時折、夢想という逃げ場を求めさせた。
毎日のように学校の授業をさぼり、ラグビー部の連中と喫茶店に入りびたったり、タバコを吸ったりしていたけれど、悪さはしなかった高校時代。ラグビー部の活動だけはさぼらず、いたずらしたり、腹を抱えて笑ったりしながら、仲間とともに時間を過ごす楽しさ、おもしろさを存分に味わえた3年間。あれはもう二度と味わうことのできないはかない夢やったんか、あの頃に戻りたい……。
そんな高本の心に転機が訪れる。社会に出たとたん、急に人生がおもしろくなくなるのはおかしい。「楽しかったのは子どもだったから、利益とか考えなくてよかったから」「仕事は我慢するもの。それが社会」という固定観念が染みついているからじゃないか。社会で生きていくために鎧を着るのが馬鹿らしい……。現状への違和感を解き明かそうとするにつれ、現実をつらくしている原因は自分にあるんじゃないか、との思いが迫りくる日常のはざまを縫って、断続的に膨らんできたのである。
やがて高本は思い至る。我慢して靴を作っているのなら辞めたほうがいい。自由におもしろいことをやるほうが絶対に周りの人が幸せになる――。高本は「10代の頃の自分に戻りたい。当時の感覚を再現したい」という根源的な思いの存在に気づいていた。「should → want」への重心移動をはじめたきっかけだった。
元来「自分が好きで人も好き、関わっている人がみんなおもしろがれる場所を作りたい」タイプである。踊る大捜査線のなかの「正しいことがしたかったら偉くなれ」というセリフも道標となった。それらが結集した「まずは闘って場所を作ろう、広げよう」との思いもまた、高本を闘いへと駆り立てていった。
「なまじ器用なんでしょう。押し付けられたことには反発していたとはいえ、ふだんは丁寧すぎるくらい人に気を遣ったり、礼儀をきちんとしたりと、世間に順応させようとしすぎていた。東京ビックサイトへの出展を境に、「熱い人」というイメージが定着した背景には、吹っ切れたものがあったんでしょうね」
2010年。父から会社を引き継ぎ、社長になると、「should → want」への重心移動はますます加速していく。当時、高本は35歳。唐突に目的のない1泊2日の社員合宿を企画したり、社内ニュースを取り上げた壁新聞を発行したりなど、周りの目を気にせずやりたいことに費やす時間をじょじょに増やしていった。
高校時代のラグビー部の主将がミニッシュに合流したのは2013年のことだ。腹をくくってリーダーという責任を負う立場を経験してはじめて、高本は「18歳でこれほどしんどいことをしていた」彼のすごさを感じていた。「一緒に仕事をしたかった」彼への感謝の気持ちをブログに綴ったところ、それを読んだ本人から「(給料が下がってもいいから)雇ってほしい」との申し出があった。ブログを通して伝わった、楽しそうに仕事をしている様子が妻子を持つ男の心を動かしたのである。
『「(目的や目標を自分で決めなあかんのは)しんどいけど、楽しい。前職ではできへんかったことをさせてもらえる」って言うてくれてます。実際、すごく生き生きしてますから」
時はじわじわと人を変えてゆく。車で通勤中、ふと、会社に行くのが楽しいあまりに頰を緩ませている自分に気づいたのは2年ほど前(2014年頃)のこと。まさしくそれは、軽やかな気持ちで自転車をこぎながら登校していた高校時代の感覚だったのである。
「高校時代、毎日が楽しかったのは、宿題や受験勉強など、should を一切やらなかったからでしょうね。親の仕事を継げたら楽やなぁという感覚しかなかった当時は社会不適合者だったと思うようになったのは最近のことなんです(笑)」
仲間を得て
2010年頃から毎日の食事から休日の行動、決算報告書、役員報酬まで全社員に開示するというガラス張り経営を行っているのも、高本の方針のひとつである。その方針を敷くと決めた折、知り合いの経営者から「一度見せたら戻ってこられへん。いいときも悪いときも隠されへんで」とそろって忠告されるも、高本は意を翻さなかった。
「ふだんは会社にいない社長の奥さんや家族が取締役に名を連ねていて、決算書もスタッフに見せることがない。社員に「がんばれ」と言っている人ほどそんな感じで、それがめっちゃ嫌やったんです。だから、会社に身内を入れることだけは絶対にせぇへんという宣言はしていました。
自身の経験から思ったのは、みんな「経営者がえらい」と完璧に洗脳されているんやなってこと。情報が隠されているから上の人間は難しいことをたくさん知っている。そんな思いこみがあるから、腰が引けてしまってみずから可能性の芽を摘んでしまう。それってフェアじゃないですよね」
みんなと対等でありたい。ピラミッドの関係性は望んでいない。高本はスタッフにもそう宣言している。
「いや、(20代、30代の社員の子らにしてみれば)自身が歳上で創業者という立場である以上、対等になれるわけはないんです。でも、会社内で人に気を遣って生きるのとかってどうなのかなと。人に上と下があるのは気持ちわるい。ぼく自身、偉そうなことを言われるたびに楯突いていた人間でもありますしね(笑)。
25歳のときに読んだ本の一節にえらく感銘を受けた記憶があるんです。「情報はすべて開示してしまえばいい。隠すことにほとんど意味はない。情報を開示して活性化させる方がいい」というものでした」
TVショッピングに出演する高田明(元・ジャパネット高田社長)の姿に目が止まるようになったのは20代後半のことだ。『「何も隠してません、駆け引きもしてません」と言っているかのごとく、手の平を見せて話す感じがとても好きだったんです』
場づくりに徹しようとする高本にとって、高田明は父と同様、ロールモデルでもある。
「ワンマンで年商1,500億を超える会社に成長させながらも、事業承継するときには「自分がいたら残されたスタッフが仕事をやりにくくなる。だから会長職にもつかない」と宣言してさっと身を引く。そんなかっこいい引き際を見せはった高田さんの姿に憧れを抱いたんです」
過去3度ほどの面識を持つ高田の小規模な引退パーティーに招待されたこともその思いに拍車をかけた。
「主役でありながら誰よりも気を回す姿勢に惹かれたんです。そう本人に伝えたところ、頭を掻きながら「ぼくはどうしてもやっちゃうんだよ」との返答がありました。自身の悩みのちっぽけさを打ち明けると、「高本さん、まだ40歳でしょ。ぼく40歳のとき、もっとダメだったよ。高本さんならもっといけるよ」と言ってくれはったんです」
地域の将来を見据えれば、60代、70代の職人さんが主力である製造部門は必ずや破綻する。そうなる前に地域内で一貫してモノづくりができる工場を作ろう――。そういった声が社員からあがったのは2013年頃のことだ。
「自分らで決めたことは強いですから。あとは見守ろうというところです。ぼく自身、ずっとその構想は温めていたから、よく我慢したなと思うんです(笑)。最近では、入ったばかりの子とかから「あの人なんの仕事してんねやろ?」と思われる存在になりつつあるんですよね」
2016年1月。高本が定めた自身のテーマは「やらない1年、伝えない1年」だ。
「会社が安定期に入っている今は踊り場に出ているところ。そのチャンスを生かして、若い子らがおもしろいチャレンジをできる場づくり、チーム(組織)のボトムアップに力を注いでいくつもりです。でも本能的になんでもやってしまう、伝えてしまうタイプの自分にはなかなか難しい。いまは見守る練習に取り組んでいるところですね」
ミニッシュは大きな変化を遂げている。社員が自主的に、今日何が起きたか、どう思ったか、これからどうするかを毎日、日報に書きつづるという文化が築かれたのはいつだったか。かつて「社長に従います」と言っていた社員が、みずから「やりたいことをやる」と宣言するようになるなど、杖を手渡さないようになってからの彼らの成長っぷりに高本は目を見張る。20代の社員から「社長、甘いですよ」と指摘されることもあるという。
「うれしかったり、かわいかったり、悔しかったり。ときには嫉妬も感じたりしながら楽しい時間を過ごせているここ数年。月並みやけど、もっとも大事なのは人であり、人が成長すれば、否が応でも組織は潤うことを実感してるんです」
空高くに見はるかすは「ミニッシュをアディダスやナイキに肉薄するようなブランドにする」という仲間と共有している目標だ。ひるがえって思い返すは、25歳からの10数年「ひとりで闘っていた」かつての自分の姿である。
「インターネットや携帯電話のことにはまるっきり疎く、時代の流れにキャッチアップできていない両親には相談できない。かといって好きでもない業界の先輩には相談したくない――。つらさを見せないよう気丈には振る舞っていたけど、心の片隅にはいつも、相談相手や泣き言を言える仲間がほしいと願う、ひとりぼっちの自分がいましたから」
30歳を過ぎた頃、リゲッタがヒットし、売り上げがうなぎのぼりに上がっていくとともに仲間の数は増えていた。
「でも彼らはまだ相談できるほどいろんなことがわかっていない。ぼく自身、靴作りとはなにか、答えを出せていないから彼らを明確に導くことできない。それでもみんなをおなじ方向に向かせるために、賢者の演出をして、物をわかっている風なことも言わなければならない――。そんな思いを胸にひとりで闘っていた当時の自分がかわいそうやと思うこともあります。だから今、ひとりで考える時間と仲間と話し合う時間をもつ若い子らがうらやましいのと同時にかくあるべきとも思うんです。
闘いに打ち勝つのはかっこいい反面、我慢や無理をしている自分がいたことも事実です。なまじ「苦労に耐えていた自分」を美化することもできますから。やっぱりshould が中心にあっては長続きしない。「辛くなければ成功しない」という考え方は違いますよね。
40歳近くになって、ぼくはようやく仲間と一緒に仕事をするすばらしさに気づきました。だから、べつに靴じゃなくてもよかったんじゃないか、と思うこともあるんです。いまは結果よりもプロセスとしか考えていません。
そうはいっても、プレイヤーとして大好きな闘いができないのが、牙をもがれたようでさびしくて物足りない(笑)。頭の中に山ほど溜まっている新しい靴のデザインアイディアを形にしたい気持ちも堪えるのが大変です。でもそれも成長するのに必要な過程なのかな、とは思っています」