ライフストーリー

公開日 2015.6.26

Story

「すべては、26,7歳のときに決まったんです」

山形県 / 百姓 菅野 芳秀さん

Profile

1949年生。山形県長井市出身、在住。大学卒業後、労働運動への参加などを経て、76年帰郷。父の後を継ぎ、百姓となる。水田の単作経営を経て、83年より、自然卵養鶏を軸に、2haの水田、20aの自家用の野菜畑との有畜複合経営を開始。88年より有志2名と共に旗揚げに取り組んだ「台所と農業をつなぐながい計画」(レインボープラン)※ は、97年より始動。05年には、同プラン推進協議会会長に就任。現在は、AFEC–アジア農民交流センター・代表、TPPに反対する人々の運動・共同代表、一般社団法人置賜自給圏推進機構・常務理事、山形県国民教育研究所・所長などを務めている。著書に『土はいのちのみなもと 生ゴミは よみがえる』(2002)、『玉子と土といのちと』(2010)。菅野農園の主な仕事は05年に就農した息子が担っている。

※ 約24,000字

※ レインボープラン:地域住民の家庭で出る生ごみを分別回収して作った堆肥を地元農家に還元し、その堆肥によって栽培された農産物を、再び地元消費者に届けるという地域内循環システム。97年2月より、計画の中核を担う「コンポストセンター(堆肥工場)」が稼働。同年、同プラン協議会が設立される。菅野曰く、「かつて、どの農家にも屋敷の一角につくる堆肥塚を中心に回っていた、台所→堆肥塚→田畑→台所という循環の輪を、長井市という一つの自治体レベルで復活させようという試み」である。

 

基礎となった二つの柱

「沖縄でやっと、生き方に出逢えたんです。その時、百姓をやろう、人生をやり直そうと素直に思えたのです」

1976年春。そんな思いと沖縄で見つけた「楽しみの先送り」「地域のタスキ渡し」という二つのテーマに基づく使命感を胸に、26歳の菅野は生まれ育った長井市へとUターン。父の後を継ぎ、百姓となった。

二つの言葉は共に、菅野の造語である。帰郷してから15年ほど後、菅野はある媒体でこのように綴っている。
「私の家のすぐ裏には雄大な朝日連峰が横たわる。朝日連峰の山々は、比較的急な斜面なので保水力にとぼしく、雨が降ると洪水となり、日照りが続くと干ばつとなる。昔から治水事業は、裾野に広がる村々にとって最優先の事業であった。

村には、かつて9つの堤があった。雨の日は水を蓄え、日照りの日には水を流す。いくつかは壊されて見る影もないが、残されている堰の中の一つは、今も水を湛えている。直径200m、深さ4~5m。造られたのはいずれも江戸の初期。

村の歴史家によれば、工事は村の自主事業として、すべて村びとたちの力で完成させたのだという。

おそらく当時、家族が一年食べるための労働、年貢のための労働だけで精一杯であったはずだから、堤のための労働は冬期、雪の中の仕事となったのであろうが、堤のあとには、その水を田畑に引くための堰開削の工事が続く。トラックもパワーシャベルもない。体力と意志に支えられた土木工事。いったい、どんな話し合いの経過の中で村びとの合意がかたちづくられていったのだろうか。

その規模からいって、世代を超える事業となっただろうから村びとたちは、恩恵を自分たちが受け取れるとは、まったく考えなかったにちがいない。次の世代が、あるいは次の世代を生きる孫を考えた事業として取り組み、汗を流してきたのだと思える。

「自分たちにつづく世代が少しでも安んじて暮らしていけるために…」と率先して苦労を引き受けて、「楽しみの先送り」をしてきた。

このように考えて改めて周囲を見渡してみると、裏山からトンネルを掘り、水を引こうとして造った堰、裾野に広がる杉林、そして一面に広がる水田などとさまざまな先人の足跡に出会うことができる。

いったいどのくらいの「楽しみの先送り」が繰り返されてきたのだろうか。私は、よく駅伝競走のタスキ渡しになぞらえて考える。駅伝のランナーがタスキを引きつぎ、また渡すように、世代から世代に「地域」を引きつぎ、渡してきた。受け取ったものは、その中で生き、次世代のために、できれば少しのゆとりをつくろうとし、けっして汚すことなく消えていく。地域を流れる川も堰も、もちろん水田や畑、あるいは土そのものも、林や森も、それらを包む地域全体も、過去数百代から届けられた「楽しみの先送り」としての先人の暮らしと労苦の総和であった。

(中略)

「楽しみの先おくり」と「地域のタスキ渡し」、このような目を持って見たとき、同じ風景が、もっと体温のともなったものとして感じられるようになった。私は、この私たちの「地域」が好きになった。

私は自覚できるようになった。私や私たちの肩に、しっかりと「タスキ」がかけられているということを」

 

「芳秀飴農業」を目指して

百姓を始めるに際し、菅野がまず目指したのは「普通の百姓」になることだった。

山形県長井市では、冬場、人の背丈ほどの高さの雪が積もる。したがって、地元の農民たちの多くは、農業収入を得られない冬期、出稼ぎや土方仕事で生活を成り立たせていた。菅野もその通例にならい、土方仕事を始める。目的はお金を貯めること、肉体労働のコツを覚えることなど。事実、同じ作業場で働く人々はほとんどが農民だった。

収入の要であり、自身の生き方の要にもなった自然養鶏を始めたのは83年、百姓生活7年目のことである。自然養鶏を始めると同時に、土方仕事には区切りをつけた。

その前年には、自分の農業を形作るアウトラインがある程度出来ていた。「理屈で方向性を定めて自分が納得しない限り、動けない質」と自覚する菅野は、目指す農業の方向性を定めるにあたり、「二つの大切、四つの基準」という理念を作っていた。

前者の中身は、人生の中で最も大切なこととしての【① 楽しく暮らすこと ② (精神的に)豊かに暮らすこと】。

それを実現するための「四つの基準」は、【① 食の安全と環境を大切にする(なるべく農薬等を使わない) ② 暮らしの自給を追求する ③ きれいな景観をつくる(生産効率を優先して、風景を台無しにしない) ④ 家族みんなが楽しく関われるよう努める】だった。

理念と同時に、農業に向かう“姿勢”も固まりつつあった。
「「金太郎飴」のような個性のない農業ではない。大型化に対して小規模を、単作化に対して複合化を、画一化に対して農民固有の個性、主体性、創造性をなによりも大切にする、そんな農業だ。さらに農業は、暮らしや景観を自由にデザインできる。だから、つくりだすものの世界観によってさまざまな農業、さまざまな暮らし、さまざまな世界が生まれるはずだ。どこから見てもわたしの顔が出てくるという生き方や世界観が投影された農業。だからそれは「芳秀飴農業」だ。当然のことながら、冬でも農作業ができることが前提となる」『玉子と土といのちと』より

82年は、偶然にも雪が少ない年だったため、土方仕事は例年よりも早い2月半ばに終わった。百姓仕事に取りかかる3月末まで時間ができた菅野は、農協から借りた『現代農業』を読んだり、置賜地方(三市五町)をくまなく回ったりして、工夫を凝らして生きている人々の冬の暮らしぶりを学んだ。

その時に出合ったのが、『現代農業』で連載中の「自然養鶏」という記事だった。
「これだ、この世界だ。ここにはわたしが思い描いてきた世界がある。

さっそく、執筆者の著書(中島正)の「自然卵養鶏法」を買い求めて、一気に読んだ。これは単純な技術書ではない。市場経済のなかで歪められてきた農業、養鶏、それに文化、人間社会。そのあり方への根本的な批判と、その批判に裏づけられた著者本人の養鶏実践書なのだ。説得力がある。こんな人がいたんだ。この本を読みすすむうちに、まだアウトラインでしかなかったわたしの構想がどんどん具体的になっていった。ページをめくるごとに視界が開けていく。興奮しながら読んでいった」『玉子と土といのちと』より

ほどなくして菅野の中で芽生えた「自然養鶏で出来た卵を地域社会で売ろう」との展望は、「地域社会農業」へと広がってゆく。
「大都会にはいい食べ物がどんどん提供されているから、一番いい食べ物は大都会にある。最も金を儲けられるのも大都会で、最も楽しい遊びも大都会にある。とにかくすべての面で大都会の方が勝っていて、田舎はその植民地でしかない。田舎に漂うそんな空気が嫌だったんです。

だから、いい卵を地域内で循環させるという仕組みを作ることでそれに抗い、“豊かな田舎”の実現に向けて、農民として一翼を担おう……と少し気負っていたのです」

その構想はやがて「循環型地域社会」の実現に向けたレインボープランへと飛躍を遂げてゆく。表現する形は変われど、根底にある思いは同じだった。
「田舎は都会化レースのどん尻を歩んでいる存在じゃなくて、田舎は田舎でいて横綱であると。つまり「都会は西の横綱、田舎は東の横綱」のような関係が理想だと。だから、田舎は田舎のなかで堂々たる横綱になればいい。日本一の田舎になればいい。そのための手段として、生命循環系の地域づくりが重要だと思ったのです。同時にそれは、百姓としての自身を肯定していくために必要な過程だったのです」

 

挑んだ“闘い”

菅野の百姓人生は“援護射撃なき闘い”とともに幕を開けた。77年、第二次減反が始まると、菅野は人口約3万人の長井市にいる農民の中でたった一人、減反を拒んだ。

政策発令に伴い、地域の公民館にて集落の農民たちへの説明会が催された。
「個人の利益のために拒否するのではなく、村や日本の農業のためにやりますので、是非みなさん見守ってください」

菅野がそう呼びかけると、会場は万雷の拍手に包まれた。これで農民たちと一緒に生きていける――。ない交ぜとなった安堵と喜びに、百姓一年生の菅野の心は満たされていた。

だが、半年後、菅野は厳しい現実に直面する。

発端は、長井市が独自の方針を打ち出したことだった。「仮に、集落ごとに規定された転作面積をクリアしたとしても、集落内に一人でも反対者がいたら、その集落の各農家には市の補助金として支給予定の3,000円(減反面積10aあたり) ※を出さない」というものである。 ※ 当時の大卒初任給は9万円程度
「たった3,000円の利益で農民をして農民を抑え込むという非常に農民を侮辱する政策であり、個人の思想を裁くような政策だと。ゆゆしき事態だと思ったんです」

反対の立場を貫く菅野は、市の追加政策発令後に行われた集落総会でも同じ意見を表明する。だが、あにはからんや。話を終えた菅野を待っていたのは静寂だった。政策発令を境に、農民たちの態度は一変したのである。

その後は、農協の役員や実行委員組合長など要職に就く人たちが、入れ替わり立ち替わり菅野の下を訪れるようになった。彼らは一様に「減反しろ」「金が下りねぇぞ」「おまえ、その損失をどうするんだ」という説得の文句を携えていた。さりとて、彼らも行政から与えられた“お役目”に従ったまで。率先して減反に反対する青年が何を求めているかもわかるだけに、内心は複雑であることは容易に見てとれた。
「遡れば、かつて農民を戦争に動員させるために作った「五人組」という制度も、「農民をして農民を叩く」という構造は一緒。農村の人間関係を活用して、減反拒否の立場をとる私を叩かせるよう仕向けてきたのです」

“憤った”27歳の菅野は、市役所の農林課へと一人で乗り込み、定年間近の農林課長に向かってこう切り出した。