ライフストーリー

公開日 2015.6.26

Story

「すべては、26,7歳のときに決まったんです」

山形県 / 百姓 菅野 芳秀さん

「完全達成できた自治体には交付金を出すという仕掛けで国から追い立てられているわけですよね。でも、あなたたちだって、ほんとは百姓に不利益を与えるような減反政策なんてしたくないでしょう。

そもそも農林課なら、市の地域農業をどういう風に発展させていくのかずっと考えてきて、とっくに議論していることだと思います。だから、これからの地域政策と減反をどうすり合わせていくのかをおれに話してください。それで納得できれば、減反します」

しばらくの沈黙の後、「ありません」と告げた課長に、菅野は「それなのにおれたちに減反を強制するのか!あなた方の責任はどこにあるんだ!」と“声を荒げて”詰め寄った。

菅野にはかつて学生運動で培った「交渉術」があった。怒りを表出させる一方で、内心は冷静だった。
「相手は何も考えていない農林課長。答えられないことはわかっていました。あらかじめ、20代半ばの若造に対して、相手が高圧的に出てくることははっきりしていたので、きちんと向き合ったのです」

課内は水を打ったように静まり返っていた。周りでは、10数人の職員が机に向かいながらも背中でじっと聞き耳を立てているのが伝わってきた。

時間にして15分程度。やりとりに終止符を打ったのは、課長だった。「わかった。内部で検討した上で回答するから、今日のところはまず帰ってくれ」そう告げる課長の手は震えていた。

菅野の「直談判」は反響を呼んだ。

「菅野が農林課長に楯突いた」との噂は市役所の職員から農協の役員、そして村人へとまたたく間に波及していった。
「以降、共産党系から自民党系まで、代わる代わるやってきた市会議員など地域のリーダーから、何度諭されたことでしょうか。「おまえはまだ若いんだから。これから先、色んな人から引き立ててもらわなくちゃいけないのに、今回のようなことをしていてはそういうことをしてくれる人がいなくなっちゃうぞ」というように。

そもそも、村社会というのはある種の平等性を保とうとする、いわば出る杭は打つみたいなところが基底にあります。

友人の山下惣一(農民、作家)は「出過ぎた杭は打たれない」とよく言っていましたが、私が同時に思っていたのは「出なきゃ土の中で腐っちゃう」ということ。だからといって、大義もなく「出すぎる杭」となってもダメ。「出るべくして出ていく杭」でなければならないと思っていました」

菅野にとって、減反拒否や直談判は「出るべくして出ていった」までだった。
「食糧管理法が制定された戦時中以来、農民は自由に米を売れず、売り先は国に限られていたわけです。国が買い取ってくれないとなると、闇米として流通させるしかない。でも、見つかると法律違反でしょっぴかれてしまった。減反政策も仕組みは同じ。国の姿勢としては、減反に従ったらご褒美としてお金をあげるけれど、拒むならお金はあげないし、米も買わないよと。

要するに、農民にとってのここ2,30年は、(国から)アメをもらって縛られて、またアメをもらって縛られ、最後には足を切られる、みたいな感じだったわけです。いずれにしても確かなのは、減反政策は農民の心をいたく傷つけてゆくものだったということ。実際、それを機に農家を辞めていった人は全国にたくさんいたんじゃないかな。

でも、視点を広げれば、諸外国との貿易摩擦の中で、日本は苦肉の策として、自国の農業を縮小しようとしたわけです。これでは国の自立が損なわれる。だから、私は抗議した。日本と農業、農民の利益を考えて行動したはずなのに、なぜ農民たちは後ろから石を投げてくるのかと。27,8歳の身空にはずいぶん辛いことでしたよね」

当時の市長が「菅野を象徴的につぶせ」と職員に指示していたとは、のちに聞いた。高血圧により二度入院したこともある。まだ仲間を持たず孤軍奮闘していた菅野を支えたのは、繰り返し読んでいた『魯迅全集』の一節だった。
「清の時代、何度戦っても負けてしまう欧米列強に包囲され、瀕死状態となっていた中国が舞台。その逆境を跳ね返そうと立ち上がっても、多大な犠牲を被ることははっきりしているという状況を、魯迅は以下のように喩えるのです。

《かりにだね、鉄の部屋があるとするよ。窓はひとつもないし、こわすことも絶対にできんのだ。なかには熟睡している人間がおおぜいいる。まもなく窒息死してしまうだろう、だが昏睡状態で死へ移行するのだから、死の悲哀は感じないんだ。いま、大声を出して、まだ多少意識のある数人を起こしたとすると、この不幸な少数のものに、どうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも気の毒と思わんかね》

《しかし、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋をこわす希望が、絶対にないとは言えんじゃないか》魯迅「「吶喊」自序」より

そのエピソード以外にも、《「フェアプレイ」はまだ早い》として《「水に落ちた犬」は必ずしも打つべからざるものではなく、否、むしろ大いに打つべし》など、魯迅が残したたくさんのジンとくるフレーズが書かれていました。要するに、当時の知識人としてもがき苦しむ魯迅の姿が描かれていたのです。

あくまでも私の思い上がりですけど、彼に自身の境遇を重ね合わせられたおかげで、かなり辛さを紛らわせることができたんですよね」

身近に味方がいないと知るや、さほど間を置かずして、菅野は思いを一にする仲間を求めて“外”に活路を見出していた。「ポジティブに農業に関わりながら社会参加できる足場づくり」の始まりだった。

目を向けたのは、長井市を始めとした置賜地方。青年団活動が盛んだった当時、各自治体の青年団とつながりを持つ人物から情報を収集。目ぼしい相手がいるとわかると、ビラを片手に足を運んだ。

結果、減反に従うことを良しとしない20数名の青年が集結。78年、今日まで続く「置賜百姓交流会」が産声を上げた瞬間だった。以後、当交流会は減反反対を端緒に、有機農法の実践、ゴルフ場反対、ダム建設反対など組織だった運動を展開していく。
「その活動を通して、私の身近にはいなかった珠玉の人たちと出逢えました。彼らとはそれ以来ずっと色んなことを一緒にやってきました。だから、人生なんて、何が災いし、何が幸いするかもわからないものですよね」

仲間を募るに際して菅野が作成したビラのタイトルは「野良に働く兄弟たちへ」。「国が無理やり舵を向ける方向に、自分たちや日本の農業の希望の未来はない。せめておれたちだけでも反対しよう。反対したという足跡を残していこうじゃないか」と呼びかけた、いわば檄文だった。
「当時好んで読んでいた『三国志』や『水滸伝』に強く感化されていた、今読んでも恥ずかしくなるような“いかにも”な文章でした。(笑)でも、私にとっては紛れもなく「闘い」だったのです。決して好きでやっているわけじゃない。減反を承諾しながらにして、農業への次の夢を描くことはできない。たとえ傷ついても立ち向かう姿勢を示さないことには、生きていけないと思ってましたから」

直談判もその一環だった。27歳の青二才に市の方針を覆せるわけがないことくらい承知の上でおこなった、正面切っての体当たりだったのだ。
「当時よりも知恵をつけた今なら、やり過ごすという選択もできたと思います。でも、当時の私の中ではオセロゲームのように、物事には白か黒かしかなかった。ほんとはグレーが大事なんだけど、グレーがあることを許せなかった。というより、グレーでよしとする自分自身を許せなかったのです」

人間万事塞翁が馬。ややあって、結婚したばかりの妻のお腹に新たな命が宿ったという朗報が入る。だが、半年後。「子供のためなら頑張れる」との思いを杖に再起をかけていた菅野を直撃したのは、死産という現実だった。
「ガックリきました。もうダメかもしれないとも思いました。でも、その時、偶然出逢った河島英五の「生きてりゃいいさ」に救われたのです」

百姓人生開始早々、派手に出すぎた分だけ強く打ち込まれた杭となった菅野だったが、あくまでも「減反拒否」の姿勢は崩さなかった。
「どうにもならんという状況になったけれど、まだ皆から「おまえはおれたちの仲間じゃない」と言われるところまでには自分は追いやられていない。次に向けてまだ信用を作り出すチャンスは残されている。だから、立ち直れなくなるほどに深い傷を負う前に矛を収めようと思ったんです」

それから20年近く経ったときのことである。裏で「菅野をつぶせ」と指示した元市長は、菅野が作る自然卵のお得意様となっていた。週に2回、注文があった長井市内の全戸をまわり卵を配達する。それも菅野が目指す「地域社会農業」にとっては大事な仕事のひとつだった。

事が起こったのはその配達中だった。いつもとは違う身ぎれいな恰好をした元市長から、ふいに玄関先で呼び止められた。振り向くと、彼はおもむろに正座をし、扉の外に立つ菅野に向かって口を開いた。
「菅野さん、申し訳なかった。93年の米の大凶作で備蓄米も底をついた日本は、タイから米を輸入せざるを得なくなったでしょう。あの事件以来、第二次減反の頃に市長として私がとった態度――特に君に対しての態度――はよかったのかどうか、何度も何度も自身に問うていました。今もずっとしこりとなって残っています。

当時はわからなかったけれど、君が減反拒否されたのは農の大切さをたえず考えておられたからだということを、その後のあなたの言動から読み取ることができた。なのに私は、あなたを長井市のまちづくりに生かすことなく、つぶそうとした。そんな私の態度は、悔やんでも悔やみきれないものになっている。私が間違っていました」

元市長は正座をしたまま、額が床に触れんばかりに深々と頭を下げた。

彼の態度に、菅野は驚きを隠せなかった。自身は、息子ほど歳が離れた一介の農民である。ましてや、墓場まで持っていったところで、誰も傷つかないし、知りやしないのだ。にもかかわらず、彼はわざわざ呼び止めて、嘘偽りのない誠実さをもって打ち明けた。その場しのぎでの対応でないことは疑う余地がない。なんて器の大きな人なんだろう。到底おれには太刀打ちできない――。菅野の心は、驚きを上回る感動で打ち震えていた。後年、元市長の葬儀に、菅野は礼を尽くして参列。今も忘れられない日常の一コマである。

なお、91年にレインボープラン推進委員会が立ち上がったのは、前年にその市長が立ち上げた「いいまちデザイン研究所」の会議における菅野の提案がきっかけだった。「メンバーになってくれ」と菅野に声をかけたのも、元市長だったのである。

 

つかみとってきた自信

それはさておき、反問を繰り返した末、市の追加政策発令から1年が経たないうちに、菅野はひとまず白旗を揚げる形で減反に従った。悔い改めるような気持ちは一切芽生えることなく、自身の力不足ゆえ、力を蓄えて出直そうと思うまでだった。

しかし、減反拒否に関する一連の経験から菅野はある“教訓”を得ていた。
「人が動き、物事が前に進んでいくためには、「理」と「利」の調和が必要だと。利益を追い求めても地域や日本の農業は変わらないし、どれほど正しい理念を掲げても、それだけでは人々は去っていく。社会運動であればなおさらです。運動を持続させていくためには、理念の正しさ、そしてそれを支える利益という両輪が欠かせない、という当然のことに気がついたのです。だから、「理」だけを追い求めていた減反拒否運動は、遅かれ早かれ破綻する運命にはあったでしょうね」

減反を拒否した翌年の78年。菅野の前に、理論を実践する機会が到来した。ヘリコプターによる農薬の空中散布が始まったのだ。朝方、ヘリから放たれた農薬は上昇気流に乗り、田んぼのそばを歩いて登校する子供たちの鼻口へと吸い込まれていったのである。
「そこで是非を問う、つまり「子供らの健康を害する怖れがあるから空中散歩を止めるべきだ」と打って出るのは理念だけなのです。たしかに正論ではあります。でも、ヘリでの散布に頼るしかない高齢化した農民たちがいる。彼らとしては、「申し訳ない気持ちもなくはないが、消毒できないとなると米作りという生活の基盤がぐらつき、暮らし自体が脅かされてしまう」との言い分がある。そんな現実の前では、理念は説得力を持たないのです」

菅野は首都圏の生協などを回り、消毒の回数を減らして栽培した「減農薬米」をそれなりの価格で買ってもらう道筋を作った。

成果は如実に表れた。粒剤散布という新手が生まれたり、環境問題が取り沙汰されるようになったりという時代の流れも追い風となった。数年も経たないうちに、その道筋を通して売れた減農薬米は長井市全体で1万俵近くと急増。農協も農民も喜び、空中散布は止まった。「消毒しないことが利益になる」道を探った結果だった。

さらにそのしばらく後には、菅野の動きをきっかけとし、生協と農協との間で協同組合間提携が実現。以前の「生産者 → 農協 → 消費者」から「生産者 → 農協 → 生協 → 消費者」という道筋に多くの米が流れていった。