ライフストーリー

公開日 2015.6.26

Story

「すべては、26,7歳のときに決まったんです」

山形県 / 百姓 菅野 芳秀さん

その経験を弾みとした菅野は、「レインボープランを回すことで利益を生み出す仕組みをどう作っていくか」との揺るがぬ前提を胸に、同プランへの実現へと向けた構想を練っていったのである。
「レインボープランに可能性が生まれたのは、「理」と「利」の調和に挑んだ結果でしょう。着想から実現まで、要すること約10年。なかなか思うようにはいかなかったけれど、その前提を疑ったことは一度もなかったし、今でも間違いないと思っています」

その経験は、過去への反省にもつながった。
「減反反対に伴って生じた問題の根源は、金銭の多寡じゃなかった。農民たちが3000円くらい目をつぶってくれるだろうというある種の甘えが自分にあったのです。彼らにしてみれば、己が正しいと周囲の意見や立場を顧みることなく突き進んでいく菅野芳秀のありように同調できなかったということなんだろうなと、今になってみれば思うんです。

ともあれ、そういうことを身をもって学び、自信を獲得していく過程で、私自身も社会に対してよりポジティブで穏やかな目を向けられるようになっていったんじゃないかな。同時に「(菅野は)反対派の活動家という顔だけじゃない」という評価が周囲に広がっていくのを肌で感じていましたしね」
77年より、村の子供達を集めて開いていた「夜学校」を11年間休まず続けたという“功績”もその評価につながった。

夜学校とは、菅野の自主企画である。毎週土曜日の夜、地区の公民館にて1時間強。前半30分を子供たち同士で勉強を教え合う時間としたのは、縦の関係性が弱いと感じたからである。後半30分は菅野が詩を朗読したり、色んな遊びをする時間に使った。村に眠る伝承をテーマとした紙芝居を彼らと共同制作したことも何度かある。「今に至るまでこの地域に様々な足跡があったこと、大人になって村を出ていったりしても、自分が育った地域はあたたかい地域だったということに気づいてもらいたかった」からだ。

のちに、菅野が「百姓として生きる自身への肯定」をはっきりと自覚した機会がある。それはレインボープランの実現へと駒を進めているさなかに、とある農業団体の機関紙に寄稿した時のこと。「みんなでなるべぇ柿の種」というタイトルの原稿は特集記事として組まれ、ある日の紙面の2、3面を独占した。

「11月下旬。今にも落ちそうな柿の実に「おまえの今の気持ちは?」と尋ねてみると、柿の実は応えるだろう。「もう人生は終わりだ。この先に希望が感じられず不安だ…」と。

今度は実の中の種に同じ質問をすると、種はこのように応えるだろう。「土に戻り、土の中に身を置き、さぁ芽吹くぞ…」と。

晩秋の風景の中に共存する、絶望を語る実と、希望を語る種。どちらの立場から柿を論じても、真実であることに変わりはありません。つまり、どちらの立場からも社会や時代を論じることができるのです。

もっと大きくみれば、熟れすぎた柿の実としての幕末と、種としての田舎侍たちがいる。きっと彼らは単に希望を語るだけではなく、芽吹く方向性もちゃんと決めていた。きっと世界に範を求めて、着々と近代日本の準備を重ねていた。だからこそ、明治維新という大事業のあと、あれほどスムーズに出発させられたのでしょう」

いわゆる弁証法によって生み出されたその論理は、かねてより頭の中にあった。菅野にとって「ずっとそのようにあろうとしてきた、いわば原点」でもある。ただし、それを「柿の種」というわかりやすい喩えに落とし込めたのは95年頃のこと。以来叫び倒してきた故か、「柿の種」は菅野の代名詞のようになっている。
「ポイントは希望を具現化させるための道は何かということ。時代の転換期にある今、おれたちはどうそこに向き合うのか、農業であり社会にどう関わって生きていくのか。一言で言えば、「批判と反対から、対案と建設へ」という視点や方向性を示したのです」

記事ではそんな内容を前置きとして、菅野が考える「プランを実現させるために必要な7つの条件」へと話題は移っていく。そして、「その7つの条件を重ねた向こう側に見える社会こそ、私たちが作り上げなきゃならない社会である。生ゴミを活用することで、その社会の実現を可能にしてくれるのだ」と締めくくられている。
「活字を通して自分の世界を客観的に眺める機会となったわけですが、記事を読み終えた時思ったんです。淡々とこんなことを語るこの男はそんじゃそこらの男じゃない、すごいなと。こいつがおれじゃなくて、北海道にいる奴だったとしても、沖縄にいる奴だったとしても、おれは会いに行くだろうと。(笑)我ながら馬鹿じゃないかと思いましたけど、よっぽど自惚れているんでしょう。自惚れといえば自惚れ。独りよがりといえば独りよがりですけどね。

まぁ、22歳の時、自らの意思で百姓になった息子は「おれは親父みたいにはなりたくない」と言いますけども。(笑)実際、彼が幼い頃は、やれ置賜交流会だ、やれレインボープランだと騒ぎまわっていた頃でしたから」

レインボープランは5、6億規模の事業である。堆肥センターの工費は、国が2億5,000万、県が5,000万、長井市も3億近く出している。市長が「わからないことはすべて菅野に訊け。責任はおれがとるから」と言えば、農協、商工会議所、清掃業者、消費者などの団体の代表や町のキーパーソンなど20名ほどを集めて作った推進協議会では代表として切り盛りする立場にあった。

そんな状況では、自身の田んぼに稗が生い茂って収量が減ろうが、畦畔が雑草で覆われ周囲の顰蹙を買おうが、たいした問題ではない。家族のことが後回しになるのも致し方なかった。
「市長も清水の舞台から飛び降りるつもりでゴーサインを出したんじゃないでしょうか。私も冗談で「失敗したら、子々孫々が恥をかくことなる。そうなると夜逃げしなきゃいけない」とよく口にしていましたから。(笑)要するに、それくらいの覚悟を持って臨んでいたということなんです」

のちにレインボープランは例示的モデルとして日本の自治体のみならず、タイにも波及。かつて打ち込まれた「出ざるを得なくて出ていったまで」の杭は、抜きん出た存在として市民権を得ていった。

しかし、菅野にとってはそれもひとつの過程である。というのも、菅野の本丸はかねてより胸に宿してきた「農業が時代の扉を開いていく。地域が日本や世界を変えていく」という志の実現なのだ。決して一人勝ちを狙わず、常に社会的に問題の解決を図ろうとしてきたのもその一環。日本やアジアにメーセージを飛ばすべく、二冊の自著を代表とした執筆活動や講演活動を行ってきたのもその一環。2014年8月に「置賜自給圏推進機構 ※」を立ち上げたのもその一環なのだ。もちろん、きちんとした作物を作ることは前提である。
「その中に喜びやおもしろさを感じていたのです。だから、ただ生産者として作物を作って売るだけなら、ここまでやってこれなかったかもしれませんね」

※ 置賜地域を一つの「自給圏」と捉え、圏外への依存度を減らし、圏内にある豊富に存在する地域資源を利用、代替していくことによって地域に産業を興し、雇用を生み、富の流出を防ぐ――。そういった経済の好循環を生み出すために設立された団体である。(一般社団法人 置賜自給圏機構ホームページより筆者要約)

 

逃避から対峙へ

菅野は「これまで最高の人生を歩いてきた」との思いを胸に今を謳歌している。右足を引きずって歩いているのは腰を壊してしまったが故。菅野の身長は191cm。日本人の平均身長に合わせて作られた諸々の農業機械を中腰で扱わざるを得ないという長年の無理がたたったのだ。しかし、「名誉の負傷(笑)」と語るのは当の本人だ。また、最近行った腰の手術後は肉体労働を避けているためか、贅肉もついてきた。「志と体型の格差解消」と称したダイエットが最近のテーマらしい。
「ただ、そう思えるようになったのは、やっぱりいくつかの関門をくぐってきたから。ある意味枕を濡らすような体験を何度も繰り返す中から色んなことを学び、その過程で培ってきた自分への誇りがあるからなのです」

20代後半の菅野がまっしぐらに「減反拒否」の道を突き進んだ背景には、「百姓として人生をやり直そう」との気負いに満ちた胸の裡があった。
「というのも、小さい頃からずっと百姓が嫌いでしたから。田舎で百姓として生きる人生を否定している自分がいましたから――」

菅野は1949年生まれの団塊世代。代々百姓を営む菅野家の分家における3代目長男である。「長男はいずれ百姓として家を継ぐ」という地域の不文律に、父が確かめるように繰り返す「百姓しろな」との言葉も加わって、百姓という将来像は疑う必要のない“常識”として菅野の子供心に植えつけられていった。父の言葉に頷くたび、必ず頭を撫でてくれた父の手が心地よかったというのもあり、少なくともそれに反発を覚えたことはなかった。

だが、成長し徐々に世の中がわかり、社会が理不尽なものだと感じるようになっていくにつれ、気持ちに変化が生じてゆく。

中学生の頃のことである。

近所には警官の父を持つ同級生が暮らしていた。彼の家は村でいち早くテレビを買い、週に2日ある休日には親子でバトミントンを楽しんでいた。母親が口紅を塗れば、彼は誕生日祝いに発売して間もないテープレコーダーを買ってもらい、バイタリス(整髪料)で髪を整えている。極めつきは夕食として出されていた刺身だった。「あの時、生まれて初めて刺身を目にしたかもしれない」と菅野は当時を振り返る。

ひるがえって、自身は電化製品はおろか、現在の貨幣価値ではおよそ700円に相当する参考書1冊すら買ってもらえないのだ。両親は泥虫のように働いているうえに貧乏に端を発した喧嘩ばかり。いつもつぎはぎのズボンを履いた丸坊主の菅野にとって、バイタリスは贅沢品を超越した無用の長物だった。
「雲泥の差がありました。そこで将来を思い描いてみると、百姓になるということは、今目の前にある両親の暮らしをそのままなぞっていくだけ……。だったら、とてもじゃないけどおれは嫌だと思ったのです」

と同時に、「農業高校から百姓へ」という定石通りの道を歩むことへの反発は膨らんでくる。そこへもってきて、父からの「農業高校に行け」との言いつけは菅野の反発心を助長する。結局、「この先農業はどうなるかわからないから普通高校に行きなさい」との母の一言が助け舟となり、菅野は地元の進学校である長井高校へと進学した。

とはいえ、消去法で選んだ道である上、その先には行き止まりが待っている。家の経済状況を考えると、とてもじゃないが大学になんて行けないのだ。いずれ百姓になる身に、微分積分や英語の構文など何の役に立つのか。半ば自暴自棄になる胸の裡からは、勉強への意欲など湧き出てこようはずもない。閉ざされた将来への失望は、やがて人生そのものの諦めへとゆるやかにつながっていった。

そんなある日。菅野は朝日新聞奨学生制度の存在を知る。「在学中、毎日早朝と午後、新聞を配達すれば学費が無料になる。おまけに、夜露をしのぐ場所とご飯が与えられる」という内容に菅野はときめいた。
一生出ることができないと思っていた“檻”にも出口があったのだ。しかも、親に一切迷惑をかけることもない。これで農村から脱出できると思えば、朝3時半の起床など屁でもない――。心に希望の風が一挙に吹き込んだ。その日を境に気持ちを入れ替えた菅野は、遅まきながら受験勉強に取りかかる。タイムリミットが1年を切った、高校3年の春だった。

その1年はまともな小便をした記憶がない。便所や風呂に入っていようが、登下校中、自転車に乗りながらであろうが、単語帳をめくる日々。大学進学という唯一の出口に向かって、菅野は死に物狂いで勉強した。

努力の甲斐あってか、菅野は第一志望の明治大学農学部に合格。これまで一切使っていない脳はくたびれていないから、決して不可能じゃない――。根拠のあやしい自信を支えに、学年370人中300番あたりから猛ダッシュをしかけた菅野は、ごぼう抜きの末、いつしかトップ100圏内へと躍進。菅野の朗報に目を丸くした級友は一人や二人ではない。農学部への進学は、父との話し合いのもとで折り合った妥協点だった。

菅野は後年、当時の自身を振り返り、こう綴っている。
「私の家が農家であること、それ自体が恥ずかしかった。百姓という言葉が意味するすべてのものから逃げ出したかった。農村を離れることですべてが始まり、農村に帰することで、すべての可能性が閉ざされてしまうと思えた」

念願の大学進学を果たし上京した菅野だったが、胸中ではわだかまりが残っていた。

思えば、「長男は後継ぎなんだから、ここで百姓しろ」と子供の頃から繰り返し言われ続けてきた。その義務を果たすべきという思いは、都会に逃げ出そうとする自身の後ろ髪を引っぱりつづけるのだ。父のみならず、菅野自身の血の中にもまた「家業を継がねばならない」という“哲学”が染み込んでいた。

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