ライフストーリー

公開日 2015.6.26

Story

「すべては、26,7歳のときに決まったんです」

山形県 / 百姓 菅野 芳秀さん

といっても、夜学校に通う子どもたちを送迎する保護者が感謝の意を示してくれたり、地域の老人が考えを支持してくれたりと、まったくの孤立無援だったわけでもない。菅野芳秀という人間を幼い頃から知っているだけに、得体の知れないものがごとく遠ざけたりしない村社会の良さを感じることもあった。けれども、日本や農業の未来を憂える身なのだ。足場を固めて、いざ高き空へと伸びていかんとする杭が、正体の見えない巨大なトンカチのような存在に押し込められてしまうことに菅野は恐怖を覚えていたのである。

しかし、20年後には一転、レインボープランのリーダーに押し上げられ、市長に全職員の前で「(プランに関する)すべてのことは菅野に訊け。責任はおれがとる」と言わしめる存在へ。そんな菅野について、親しい百姓の友人は以前こう評した。
「レインボープランにしても、置賜自給圏の世界観にしても、ぽっと出の案じゃない。生き方を貫く中でおまえが常に願ってきたこと、そして夜学校や紙芝居のように行動に表してきたこと。そんな日常の積み重ねの中から発案され、説明する言葉が力を宿しながら紡ぎ出されている。つまり、おまえの日常的総合力が-200m(の海底にいるような状態)から浮き上がらせたのだ」

かつて夜学校を見学し、紙芝居に感動した男の言葉は菅野の中にストンと落ちてきた。

そもそも「生き方」として百姓を選んだ菅野にとって、百姓として生きる日常もまた「生き方」という本流に沿って流れ、積み重ねられていくものだった。
「お金は貯まっていなければ、何らかの社会的地位を確立したわけでもまったくない。ただ、一人の百姓として、自分らしい人生をすり減らさずに、遠慮せずに生きてこられた。だから、百姓の道を選んで良かったと思うんです」

菅野の中のどこかには、いつも“神様”がいた。自分に誇りを持てない行いをしてしまったり、神様に対して申し開きのできないことをしてしまったりすれば、途端にパワーを失ってしまうだろう。つまり、自身が理想とする「生き方」に違うことを始めたら終わりだという意識は菅野を戒めつづけてきた。

いつぞや、菅野は父から「戦時中だったら、おまえは特攻で突っ込む方だな」と言われたことがあるが、自身にもその自覚はあった。

時は1971年2月。大学3年・21歳の菅野は、三里塚で人生の岐路に立っていた。

初めて訪れたときから数ヶ月が過ぎた70年の12月頃より、菅野らは三里塚に常駐し、機動隊の突入を防ぐための砦造りをするようになっていた。早々に地元民からは「一緒にやろう」と声をかけられていた菅野たち。彼らに信頼されていると思えば、どこか嬉しくもあり、作業にも力が入った。

そしてその日がやってきた。地元民から「行政代執行により、明日の朝5時に機動隊がやって来る」という連絡を受けた菅野は、「三大学共闘」のメンバーを集め、こう呼びかけた。
「明日、機動隊がやって来れば、逮捕、起訴されることは免れない。そうなれば、10年は裁判を続けることになるだろう。あなたたちは将来ある身。後の人生に大きな影響を与えることは避けられない。皆、それぞれ事情があることはわかる。ここで帰っても誰も何も言わないから、帰りたい人は出て行ってくれ」

結果、出て行ったのは3、4人。菅野を含めた残りの50人ほどは現場に残ったのである。

2月28日早朝。北総台地の冬は冷え込みが厳しい上に、冷たい風の通り道にもなっている。立木を切らせまいと前線で張っていた菅野らに、機動隊は放水車で「ついさっきまで冷蔵庫で冷やしていたような氷水」を容赦なく浴びせかけた。ずぶ濡れになり、あまりの寒さに身を震わせながらも踏ん張り、抵抗を続けていた菅野たちだったが、相手が相手である。公務執行妨害罪に凶器準備集合罪。最後にはあえなく手が後ろに回った。なお、3月6日まで続いた第一次行政代執行は、逮捕者461名、負傷者1427名を出して収束している。

そもそも、起訴されて重罪に問われるという逃れられない闘いを運命づけられていることはわかっていた。空港建設予定地はすり鉢状になっていたため、上空からの監視が行き届いている。つまり、すべての証拠写真が揃っていて、弁解の余地は残されていないのだ。それ故、学生運動にて党派やセクトを結成する、いわゆるプロの政治集団は手をつけない場所だった。

弱冠21歳。就職を含めた将来を案ずれば、しり込みする気持ちもよぎらないわけはない。だが、リーダーである自分が率先していなくなるわけにはいかないとすぐに蓋をする。江戸幕府を倒すべく立ち上がった幕末の志士たちに我が身を重ね、気持ちを奮い立たせたりもした。つまるところ、菅野を三里塚に留まらせたのは、世の中を知らない青年の正義感と、誇りを持てなくなったら終わりだという恐怖感だった。

正しいのは自分(たち)で、国が間違っているという考えは終始一貫してあった。空港建設に反対しているわけでは決してなかった。空港を造るに際し、国が農民たちに何の説明もせず、強引に推し進めていくやり方に菅野は異を唱えていたのだ。

どうやらここには民主主義がないことに加え、百姓が侮られているようだ。それは農学部の学生として許せない――。その考えが正しいと行き当たった菅野にとって、正しいと信じる方へと歩んでいけない自分を見出すことの切なさや悔しさに勝るものは何一つなかったのだ。
「あの日、荷物をまとめて立ち去っていたら、きっとおれはおれ自身を生きられなかった。きっと逃げたという過去を払拭できないまま、常に自分への誇りを失った生き方をしてた。だからたぶん、試されたんでしょうね。今となっては、志だけで生きていたあの日々は、きらびやかで愛おしい思い出になっていますから」

回り道の末、沖縄で出逢い、生き方を定めたのはその4年半後。地元民の言葉をきっかけに「地域のタスキ渡し」と「楽しみの先送り」という二本の柱が菅野の中にすっくと立ち上がる。以来40年。二本の柱は、揺らぐことなき大黒柱として菅野を強力に支え続けてきた。

菅野はこれまで、レインボープラン推進協議会のみならず、置賜百姓交流会、TPPに反対する人々の運動などいくつかの組織でリーダーを務めてきた。
「おれがリーダーになるんだと思ってやってきたわけじゃないし、何らかの対価を求めたこともない。でも、二つの世界に気づいたおれがやらなきゃ誰がやるんだとは思ってたし、おれが辞めたら“芽”が死んじゃうという自覚も持っていた。そういう意味では、二つの柱を核心として、自分が果たすべき役割を考え始めた26,7歳の時から無意識のうちに“リーダー”だったのかもしれません。

思えば、百姓になって早々に始めた減反反対運動、置賜百姓交流会、空中散布反対、レインボープラン、TPP反対、そして置賜自給圏構想と、あれもこれも原点はそこ。すべては26,7歳の時に決まったんです」

 

 

【参考・引用文献】
・『ODA調査情報』「置賜通信」
・『朝日新聞 全国版』 (2000.5.22・23 ともに夕刊)「21世紀 旗手」
・菅野芳秀(2000)「山形県長井市のレインボープラン」『循環型社会と農業』pp.37-60 農林統計協会
・菅野芳秀(2002)『土はいのちのみなもと 生ゴミは よみがえる』講談社
・菅野芳秀(2010)『玉子と土といのちと』創森社
・竹内好 訳(1991)『魯迅文集 1』『魯迅文集 3』