ベトナムを訪れたときには、ホーチミン市内でもっとも危険と目されていた地域に、ひとり自転車タクシーで乗り込んで行った。中国人が多く、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の拠点であるそこは、同行するジャーナリストがベトナム政府に取材を申請するも断られた場所だった。
“危険”な状況でたちどころに湧き出してくる好奇心を前に、ためらいや不安の出る幕はない。のちに不安も打ち寄せてくるが、痛い目を見たことがないこともあり、胸裡はいつも好奇心の独壇場だ。
90年代前半、水野は「危険地域」として悪名高かったニューヨークのハーレムを訪れている。車椅子生活者の在日韓国人が、知人である日系3世のアメリカ人女性の自宅をたずねる旅行に、付き添いとして同行したのだ。
出発前、ニューヨークのホームレス問題に関わるなど、事情通の知人たちからはあまねく「行ったらあかん」「タクシーでも行ったらあかん」との忠告を受けていた。が、彼らの心配をよそに、水野は車椅子を押しながら平然とハーレムを歩いてきたのである。道中、身の危険を感じたことはない。黒人から道を尋ねられることも何度かあった。
おれらは外国人と思われてないんや、とけ込めている証拠なのかもしれへん――。そう思える機会に出くわすたび、水野の胸は誇らしさと嬉しさがない交ぜとなった心地よさに満たされていた。帰国後、その旨を報告し、周囲がそろって驚く様子を見たときも、どこか誇らしい気持ちになったものである。
水野の“場慣れ感”は場所を問わずに表れる。
ピースボートの旅のさなか、タイのバンコクに宿泊したときのことだ。ひとりで町歩きをしようとホテル前でタクシーを停めた水野に、船に同乗していた二人連れの若い女性から「一緒に乗せてください」と声がかかった。気安く応じた水野。車内にて片言の英語ながら運転手とスムーズに交渉する姿は、どうやら彼女たちの目に「何度も来て慣れている」と映ったらしい。水野が「初めて来た」と明かすと、二人は驚きの色に染まった声をあげた。
子供時分から街歩きは好きだった。東京にいた頃は、しょっちゅう、自宅からほど近い新宿・池袋エリアをうろついていた。中学生の頃、歌舞伎町で遊んでいたときにも、どういうわけか一度も補導されたことはない。
「違和感がなかったのか、地元の子と思われたのか……。(笑)いずれにせよ、街歩きには慣れているということなんやと思います」
気づいた釜ヶ崎のすごさ
ハーレム滞在中には、夜の帳がおりた暗い道で黒人からタバコを催促されたりもした。「吸わないので持っていない」と率直に対応したが、トラブルに発展することはなかった。東南アジアなどでも現地の人が食べているものを食べたり、生水を飲んだりするが、腹を下したことはない。これまで他人の目には危ないと映る行為を繰り返してきた水野だが、トラブルとは無縁、怖い目に遭ったことも一切ないのである。
「この街で過ごしているなかで、ややこしい人たちとの付き合い方を日々学んでいるんだと思います」
事実、釜ヶ崎で暮らしているなかで、住人からタバコを催促されたことは数知れない。ビクついたり、騒いだりといった反応が相手の怒りに火をつける場面を幾度となく目にしてきた。持っていない時には正直に「ない」と言うほかないことを水野は身をもって知っているのだ。好奇心のひとり舞台に水を差す雑念を追い払ってくれているのは、経験に裏打ちされた自信である。
全国的に有名な地域である釜ヶ崎には、訪問者も少なくない。水野は10年ほどの間、釜ヶ崎の街歩きリーダーとして、訪問者に街を案内している。
ガイド中、身構えたり、身体がこわばっていたりする“よそ者”の態度に敏感に反応した労働者から「こらっ!ジロジロ見るな!ここは動物園ちゃうぞ!」という声が上がり、張り詰めた空気に場が包まれたりする。そんな場面にも毎度のように立ち会ってきた。
「だいたいどういう人が襲われるかわかっているんです。この街の住人とは違う格好をしているとか、お金を持っていそうとか、上から目線で見ているとか。視線や雰囲気でわかることです。彼らは世間から差別されてきたからか、相手の視線や態度の背後にある差別意識を敏感に嗅ぎ取ってるんやと思います。ただ、さびしいことに近頃は、労働者の人たちも訪問者が来ることに慣れてきたからか、そういうこともめっきりなくなったんです」
参加者を街に案内するにあたり、水野は導入としていつも「怖い人がいっぱいいますから、気をつけてください」という注意を投げかけている。釜ヶ崎住民の支援に携わる人間などから「怖いと言うと差別を助長する」という声も出るが、水野はそのスタンスを変えない。
「暴力団とドンパチやっていた昔に比べれば知れているとはいえ、夜更けに暗いところを歩けば手を出す人は今もいる。ともかく、なめてかかったらえらい目に遭うことは確かです。にもかかわらず、怖くないと言えば嘘になるし、そういう人たちの存在を見えなくしてしまう。だからむしろ、隠さない方がいいんです」
かくいう水野も、かつては街案内に際して、「怖いという評判が立っているけど、怖いことはありませんよ」と語っていた。今とは真逆の働きかけ方である。変えたのは、安心しすぎるのか、高をくくってなめてかかる人や、話しかけられても無視する人、下手に馴れ馴れしくする人などが現れて、トラブルが生まれるケースが増えたからだ。
「なぜこの街に人が集まってきているのかを考えてほしいんです」
若い頃は釜ヶ崎の悲惨な面ばかりを社会に訴えていた。そうした訴えを社会を変える起爆剤にしたかったのだ。外の人から向けられるまなざしが、かわいそうに、ひどい……というように偏ったものになっていくのも然るべき流れだった。
だが、ある時期から、釜ヶ崎を見る目が変わった。「すごい街」として映るようになったのだ。
「引きこもりの人やゴミ屋敷で暮らしている人とうまく付き合う術を身につけてきた人たちもいるし、何よりそういう人らをこの街は排除せずに受け入れている。だから、ややこしい人たちと付き合っていく技術を磨ける場所としては、ある意味で日本一。うまくやれる人たちとばかり付き合っているとトラブルは少ない代わりに、人間関係は上達しない。そこは実地体験を積まない限り、身につかないところでしょうしね。
この街を出て行ってから、殺人事件を起こした人を何人か知っていますけど、彼らにとって他の街で暮らしていくことはここ以上に難しいはず。周りから「奇人変人」として白い目で見られたりするなかで、かえってストレスを溜める結果になるんじゃないかなと。もしこの街にいれば、罪を犯すまで至らなかったんじゃないか、と感じたりもする。マスコミは「殺人事件を起こした○○はかつてあいりん地区にいた。やはり、あいりん地区は危険な場所だ」みたく結びつけて書いたりしますけどね」
そうした環境で長らく生きてきた水野には持論がある。
「96年、釜ヶ崎からそう遠くない大阪府堺市で0-157が大流行りしたときも、ここでは患者は出ませんでした。もしかしたら隠しているのかもしれないけれど、みんな日頃から腐りかけのものを食べていて抵抗力や免疫力がついていることとは無関係ではないと思うんです。野宿している人なんかは、ゴミ箱から漁ったものを食べていても死なないわけですし。
人間関係も同じで、喧嘩もしたことがないような子が社会に出たら、ちょっときついことを言われただけで逃げてしまうのも当然かなと。人間は喧嘩をしながら人間関係の免疫力や抵抗力をつけて強くなっていくもの。だから、喧嘩もさせないような親のもとで純粋培養させられたら、子供が大変やなと思います。まぁ、親はよかれと思ってやっているのかもしれませんけど」
増えてきた悩み
水野はこれまで、在日外国人差別の撤廃・部落解放・女性解放などの社会運動に関わってきた。釜ヶ崎にいれば、被差別側にいる朝鮮人や中国人、部落民たちに対しても「おまえらだって差別してるやん」と言える。つまり、対等になれることが釜ヶ崎に住み着いた理由のひとつである。
「人を差別するというか、見下すのは嫌なんです。自分より下の人間を作って安心するという考え方は間違っていると思ってます。
ゴミ処理場とか原発の建設に際しての、「必要なのはわかるけど、自分の町には嫌」という態度が一番嫌いです。誰かが引き受けなきゃいけないとなると、結局は弱い方、弱い方へと押しやられていく。私も歳をとってきたし、あんまり理想論を語るつもりはないけど、「嫌なものは嫌」って主張しないと、力のない人にしわ寄せが来てしまいますから」
水野には忘れられない光景がある。母とともに東京に引っ越してきた中学3年のときのことだ。
住み込みで生活していた寺は、新宿区下落合、高所得層が暮らす住宅街の中にあった。学習院中学・高等学校が近いこともあり、近所に住んでいるのはそこに通う子どもばかり。学習院の学校の塀を乗り越えて侵入し、在校生とよく遊んだ。息子が学習院に通う大手出版社の社長の豪邸に遊びに行ったこともある。
かたや、水野は1歳のときに父を病気で亡くして以来、母とふたりで暮らしていた。二人の姉は施設に預けられ、末っ子長男の水野だけが母の手元で育てられたのだ。炊事婦として働く母親の住み込み先で同居したり、行商についていったりと、母の仕事にあわせて栃木、東京と住む所を変えていた。自立させようという思惑があったのだろう。中学の3年間は母に薦められた新聞配達のアルバイトで小遣いを稼いだ。高校進学をためらわざるを得ない経済事情だったが、奨学金をもらえたので行くことができた。
裕福な彼らと、貧乏人の自分。顕著な落差に水野は社会の縮図を読み取っていた。
「彼らはほんとに感情を表に出さなかった。冷静というか冷めているというか、悪く言えば冷えている感じだったんです(笑)」
一緒にテレビを観ている時、声をあげて騒ぎ立てる水野らに彼らは冷たいまなざしを向けた。このかっぺ(田舎者)が――。言葉にせずとも、目には軽蔑の色が浮かんでいた。まなざしは鋭く刺さり、心の奥深くに傷を残した。
心の中の過敏な場所は、歳をとっても変わらない。昨年、大阪・鶴橋にて行われたヘイトスピーチに出かけた時のことである。在日韓国人・朝鮮人に向けて罵詈雑言をまき散らすデモ実行者から「死ね」という言葉が飛んできた。
とたんに頭に血がのぼった。考える間もなく、「お前らこそ死ね」と口走っていた。同時に手も出そうになったが、かろうじて抑えた。視線の先には現場に居合わせた警官たちがいたからだ。同行した支援者から「そんなこと言うたらあかんで」と諌められて、ハッと我に返った。
「ついカッとなってしまう癖はなかなか直りません。まだまだ修行中です。(笑)でも、指摘してきた相手に食ってかからずに、ごめんなさい、と言えるだけ進歩したのかなと。昔なら、何言うとんねん、こんな奴らに遠慮することないわ、と返す刀で怒りを向けていましたから(笑)
意見の違う人に向かって「死ね」「殺せ」「出て行け」とかって言うのは、基本的に間違いだと思っています。たしかに嫌いな人や肌の合わない人が目の前にいると気分が悪いのはわかります。私もそうです。でも、「ちょっと距離を取ってくれませんか」とか「嫌いだから近寄らないでください」とかって言うのが解決策なんじゃないかなと。やっぱり、自分とは違う人がいるから、人は気づくものがあったり、増長せずに済んだり、客観的な視点が生まれたりするのだと思いますから。
ただ、そんなふうに頭では「反対派が必要」とわかっていても、なかなか感情はそれを受け入れない。(笑)嫌いな人や肌の合わない人、顔も見たくない人はいますからね。現に、いかにも山の手で暮らしているような都会人を見たらムカムカしてくる。かといって、彼らを排除しても解決には至らない。そのへんをどう折り合いをつけて生きていくか、悩みは減るどころか増える一方なんです(笑)感情が豊かになると、それだけ心の揺れや悩みも増えますからね」
無意識の“努力”のうちに
本で読んだのか、社会の雰囲気を読んでいたのかわからないが、「男らしさ」への憧れは幼い頃からあった。
身体が弱い方だった水野は、小学校の頃は本ばかり読んでいた。学校の成績は良かったが、スポーツは大の苦手。強くなりたいとの思いで、高校では柔道部に入部した。
高校2年の秋、水野はクラスメイトから誘われて初めてデモに参加した。65年の日韓条約反対闘争である。折しも、学生運動がもっとも低迷していた頃で、参加者も少なかった。雨のなかだったうえに、機動隊にどつきまわされたショックで風邪をひき、水野は1週間寝込んだ。
法政大学の夜間課程に入ってから、水野は新左翼系の「社会主義学生同盟マルクス・レーニン主義派」(以下、ML派)という極少数派の党派に所属した。暴力に強い党派だったが、水野にとっては喧嘩や暴力など縁遠い存在である。1968年10月8日。羽田闘争に参加するにあたり、「これで人を殴れ」と角材を渡されたときには、当惑した。恐怖心も湧いてきた。