ライフストーリー

公開日 2015.6.3

Story

「「愛」はずっと、さっぱりわからないものだったんです」

男性問題研究家 / 釜ヶ崎地域史研究家 水野 阿修羅さん

だが、水野の順応は早かった。羽田に向かう途中のことである。高速道路のあちこちに機動隊員が倒れていた。周りに倣い、追い討ちをかけるように殴っていると、間もないうちに、当惑や恐怖心は快感に変わっていた。その後、応援に駆けつけた機動部隊から逆襲に遭い、頭を殴られた水野は病院に行く羽目となったが、大した怪我ではなかったため、すぐに復活した。

約2週間後には、10・21新宿騒乱事件に両足を突っ込んでいた。日大紛争では、大学が雇った暴力団右翼と対決する場面もあった。一線を越えてしまえば、もう平気だった。いつしか、水野は暴力を行使することに何の躊躇もなくなっていた。
「なまじ、暴力には即効力がありますから。対立する党派間で論争すれば、決まって口の達者な人が勝つわけです。でも、暴力を使えば口では勝てない人を一瞬で黙らせられる。言葉で人を説得するしんどさと比べたら、そんな手っ取り早くて、楽な方法はないんですよね。ヤクザであれ、左翼や右翼であれ、ひとたび暴力の魅力を知ってしまえば、そこから抜け出す方が大変なんです。

私の場合、幸いというのか、映画や読書といったストレス発散方法や愉しみを知っていたおかげで、まだ抜け出しやすかったのかなと。さもなくば、どんどんエスカレートしていったかもしれませんから」

水野が属していたML派は、70年代初頭、自主解散という形で解散している。爆弾を用意して「決戦」と称した70年安保闘争に臨むも玉砕し、大量の逮捕者、刑務所行きとなる者が出たことにより、組織をまとめられなくなったのだ。
「もし解散していなければ、もっとのめり込んでいって、中核派、革マル派に行き、最終的には内ゲバで殺し合いをしていたかもしれない。私の知り合いの中にも、連合赤軍に入り、殺し合いをするまで至った人は何人かいますしね。

やっぱり、暴力の味を知ってしまった人は怖いですよ。止める方もそれなりの力を持っていないと止めることができないし、警察に反抗することがかっこいいと思っているから、強い人の言うことしか聞かない。当時はまるでその怖さを自覚していなかったけど、今にして思えば、ほんとに怖ろしいなと思いますね」

10代後半から20代半ばにかけて、水野は感情を冷やすという“努力”を続けながら、暴力にまみれた世界をくぐり抜けてきた。とくに暴力が絡む闘争の際には、冷静でいなければ、危ない目に遭うのは自分たちなのだ。闘いの渦中に身を置き続けるうち、冷静に状況を判断する習慣は自然と身についていた。人を殺すところまでいかなかったのは、その習慣のおかげでもあったのかもしれない。学問の世界では感情に溺れてはいけない、という戒めめいた思いも抑止力として働いていたのだろうか。

ともあれ、環境に適応するための“努力”により、性格は変わった。釜ヶ崎でヤクザとの闘争を終えた後、金がよかったというのもあるが、水野は鳶という“危険”な仕事を進んでするようになっていた。とはいえ、当時の水野にそれを危険と感じる心はなかった。安全帯もつけず、50mの高さの鉄塔の上で作業しても恐怖など微塵も感じなかったのは、“努力”の成果だったろう。一方で、人の死や芸術には心を動かされなくなっていた。

71年頃から2年間同棲生活を送った彼女はいる。だが、運動や闘争に夢中になり、彼女のことなど放ったらかし。家にいても、何の対話もなく、セックスだけするような関係性である。愛想を尽かした彼女から別れ話を切り出されても、悲しいはずなのに涙は出なかった。

当時から「愛する」という言葉は知っていた。だが、その意味を実感をもって理解したことはまるでなかった。第一、どう女性と話せばいいかすらわからないのだ。「愛」とは何か? その問いは、解く取っ掛かりすらつかめない数式のように難解だった。

人と仲良くするのも苦手だった。水野はもともと人見知りするタイプであり、人が好きではなかった。いつも無口で無表情。顔つきには険があった。必要な時以外は人に働きかけることなく、人に話しかけられても愛想を振りまくことはない。“寄ってくるな”オーラを放っているという自覚もあった。

単にコミュニケーションが苦手だったというのもある。だが、グループで仕事をする建設現場できまって形成される親分、子分といったヒエラルキーの中に組み込まれないようにするための防御策という意味合いの方が大きかった。ただし、ボスから嫌われると仕事に連れて行ってもらえなくなってしまうのだ。したがって、そうした事態は回避できる程度に雑談をするようには努めていた。

そんな水野が「阿修羅」というあだ名をつけられたのは21歳のときのこと。由来は、当時センセーショナルな話題を巻き起こしていたジョージ秋山の漫画『アシュラ』の主人公・アシュラである。嫌で嫌で仕方がないという本人の気持ちは差し置いて、そのあだ名は呼びやすさも手伝って、仲間内ではみるみるうちに浸透していった。開き直って、ペンネームとして用いるようになったのは、23歳のときだ。

遡れば、小さい頃から独立心は旺盛だった。母親が炊事婦として朝から晩まで働いているため、一人で時間を過ごすことは多く、住み込みで暮らしているため、自分だけの部屋もない。そんな環境に因るところもあったろう。水野は小学校の頃、図書館という遊び場を見つけていた。1日10円の小遣いを貯め、毎週土曜日には60円で観られる映画館に行くのが習慣だった。友達と遊ぶこともあったが、一人遊びができる子どもではあった。

母も独立心は旺盛だった。まだ若い頃に夫と死別したにもかかわらず、再婚の意思を見せなかった。気が強く、よく上司とも揉めていた。大人になってから、気の強い女性にばかり惹かれたのは、母の姿を重ねていたからだろう。ともあれ、そんな家庭環境で過ごす水野を、周りの大人はよく「かわいそう」と憐れんだ。中学生になってからは、新聞配達のアルバイトを始め、小遣いは自分で稼ぐようになっているのだ。湧き上がる怒りは、早く大人になりたいとの思いを募らせた。

人からなめられまいという意識も背筋を伸ばさせていただろう。おそらく、大人たちから憐れまれた原因のひとつは垂れ目という見た目の特徴にある。釜ヶ崎に来てからも、元気なときでさえ、「元気ないね」としょっちゅう言われてきた。いつからか心に棲んでいたなめられまいとする意思は「男らしさ」への憧れと混ざり合い、水野の自立心、独立心をかきたてた。それらは仕事で頑張る原動力になり、他者からの評価にもつながった。リーダー的役割を任されるに至るゆえんの一つでもあったろう。
ただし、それらはほぼすべて無意識のうちに重ねていた“努力”である。意識の表層へと浮かび上がってきたのは、40歳を過ぎてからだった。

 

「感情」を取り戻して…

ものごとは表裏一体。「男らしさ」の鎧を着つづけている生活には、息苦しさがつきまとった。酒の席では、日頃鬱積したものを晴らすかのごとく毎度のように喧嘩が起こった。水野を含め、左翼の世界しか知らずに生きてきた男たちの頭には、暴力という解決策しかなかったのだ。

そんな水野の世界に広がりをもたらしたのは、外国人支援活動を通じて出会った在日韓国人女性、フィリピン人女性たちだった。アジアからの出稼ぎ労働者問題が取り沙汰されていた88年。水野は外国人支援組織「アジアン・フレンド」を立ち上げ、在日韓国人の指紋押捺拒否運動に関わるなど、運動を進めていった。

比較的多くの時間を共にした「いくのオモニハッキョ」(在日のオモニに向けて開かれた日本語教室)の人々から得るものはことに大きかった。

勉強を終えてから飲みに行った居酒屋でははしゃぎ、遠足で出かけた先では音楽をかけて踊りまくる。自分が楽しけりゃいいと、好き勝手に踊る彼女たちは、盆踊りのように「人前で踊るのは練習を積んできれいに踊れる人だけ。下手な人は見てるだけ」という日本人とは好対照だった。最初は傍観している水野も、決まって彼女らに引っぱり込まれ、一緒に踊っていた。

フィリピン人女性との関わりは、東南アジア女性の支援活動を通して生まれた。楽しみ上手なのは、在日韓国人女性たちと同じだった。とりわけダンスは上手く、歌いもする。まだ社会に認知されていない頃に来たフィリピン人女性は、売春を強要されたりと、ものすごいしんどい目を見ているはずなのに……。まるでそんな過去などなかったかのように、楽しそうに振る舞う彼女たちの姿には目を見張った。旅で東南アジアのスラム街を訪れても、感じることに変わりはなかった。

飲みの席でのカトリックの神父やシスターの様子を目の当たりにしたときには驚いた。つつましやかに振る舞う普段の彼らを知るだけに、そのはじけっぷりには、別人なのではないかという疑いの目を向けずにはいられなかった。楽しく飲んでいるから、むろんトラブルも起きることはない。

普段、感情を殺しているという点では自分たちと変わりはない。だが、解放の仕方がまったく違うのだ。暴力以外の方法があるんだ――。顕著な二面性をうまく使い分けて生きる彼女らの姿はよき手本となり、淀みがちな水野の心に新鮮な風を吹き込んだ。
「ストレスを発散するのがうまい彼女たちからは、人生を楽しむことを教わりました。かたや、日本人は楽しむのが下手。その分仕事にエネルギーを注ぐから、高度経済成長できたんでしょうけど。いいか悪いかじゃなくて、私には南の国の文化や世界が合っていて、過ごしやすいなと思ったんです」

水野が「男らしさ」の鎧を脱いでいく過程において、パートナーと呼ぶ妻の存在も大きかった。彼女とは79年に結婚し、80年に第一子をもうけている。

〈労働運動の活動家たる男は、家庭など顧みている場合ではない。労働者の権利や社会正義を求めてひたすら外を走り回るべし。妻はそんな夫を内助の功として支えるべし〉まだそういった価値観が根強かった時代である。自分より上の世代の男が「釣った魚に餌はやらない」と口にするのをよく耳にした。妻には優しくないのが当たり前。優しくしようものなら「なんやおまえ。尻に敷かれて」と馬鹿にされた。

しかし、パートナーはそうした関係性を嫌がった。水野にも子育てに参加するよう求める彼女に対して、「他の男たちに比べればずっとやっているのに、文句を言われることは納得がいかない」というのが水野の言い分だった。彼女とはよく衝突した。手をあげることはなかったが、流し台で皿を割ったり、壁をどついたり、ドアを強く閉めて出て行ったりして、水野は苛立ちや怒りを紛らわせていた。

子守りをしているときには、泣きわめくこどもを黙らせるため、ピシャリと叩いてしまうこともあった。当時はまだ、子どもに手を上げることは教育上必要だという風潮が強い時代である。とはいえ、相手は乳幼児なのだ。水野は「暴力で黙らせる」癖が抜けていないことに、おぼろげながら危機感を覚えていた。

一方、水野は社会的には評価を得ていった。外国人支援活動に関わるようになってからは、当時注目の社会問題だったことも手伝って、マスコミからの取材が引きも切らずに続いていたのだ。NHKから30分のドキュメンタリー番組の出演依頼も来た。かつて経験したことのない状況に舞い上がり、浮かれ気分に浸っていたところもきっとあったろう。張り切りすぎたせいか、水野は急性膵炎で倒れ、3ヶ月間入院することになった。

そんなとき、パートナーから言われた。
「あなたはアジアの女の人には優しいけど、私には優しくないね」

その言葉は水野の心を素通りしなかった。

しばらく経って、水野がコンビを組んで動いていた労働組合のリーダーがセクハラ事件を起こした。複数の労働組合からバッシングの嵐を受けている状況を見ながら、水野は我が身を振り返っていた。

自身も女性を買いに行っているうえに、スケベである。行動にこそ移していないが、浮気心もふんだんにある。たまたま糾弾されるような失敗をせずに済んだだけで、実態としてはさほど彼と変わらないんじゃないか……。

もとより「男らしさ」の代名詞である喧嘩は得意だった。組合運動をしているおかげで、演説や説教もお手のものである。だが、会話のキャッチボールはからっきしできないのだ。とりわけ女性との会話は大の苦手で、苦手な理由もわからない。好みのタイプの女性の前では、意識するがあまり一言も喋れなかった。悶々とする中で、巧みに会話を繰り広げている男性を見かけると羨ましさがつのった。

第一、女性の感情を理解、想像できないために、会話の糸口が見つからないのである。実際、「外国人支援」という同じ目的で活動しているにもかかわらず、女性団体と水野を含めた労働組合団体の考えはすれ違うばかりだった。

農村の嫁不足の打開策として、行政主導により、フィリピン人女性を迎えようという試みが日本各地で広まり出したのは80年代半ばのことである。日本の田舎から国際化するからいいのではないか、と考える水野には、なぜ人買いのようなことをするのか、と憤る女性たちの気持ちがまるでわからなかった。

問題意識を持った水野は、上野千鶴子の本など女性問題を取り扱った本を読み、知識を身につけていった。だが、現実として、女性との関係は一向に良くなる気配は見られない。

そんなある日、水野は女性たちが開く売買春をテーマとした集会に参加した。気取って一般論を語ったとき、ひとりの女性から指摘された。
「あんた、何を一般論言ってんの? 自分のことを言いなさい」