ライフストーリー

公開日 2015.5.19

Story

「踊ることによって、まちがいなく僕は幸せになったんです」

舞踏家 / 整体師 田中 誠司さん

誠司はいまだ、兄の背中を追っていた。高校を卒業する頃には身長が185cmに到達し、大学でサーフィンを始めた兄と、高3にしていまだ身長は150cm台、声変わりもしていなければ、下の毛も生えていない自分。見知らぬおばあさんから小学生に間違われ、「ぼく、えらいね。おつかい来たの?」とやさしく声をかけられたときには、涙が滲んできた。

しかし、治療のおかげで、高3の秋頃から伸び始めた身長は、卒業時には164cmとなった。さらにそこから伸びること10cm以上。身体の成長に伴って、下の毛も生えてきた。通常は5、6年かけて起こる成長が、ずいぶん遅れた後、わずか1、2年の間に凝縮して起こったのである。

もっとも、毎日股間に塗っていた「育毛剤」が、育毛効果のないヘアトニックだということに、誠司は後になってから気づいている。

大学病院の医師は検査結果を見て、誠司にこう言っている。
「よく来てくれたね。もうちょっと遅かったら、間に合わへんかったかもしれへん」
「まっさらな皮膚にただ清涼感のみを与えつづけた5年間」を笑い話で済ませられるのも、ひとえにその奇跡のおかげである。
「地獄の日々に耐えただけじゃなくて、諦めずに病院に行ったことが僕の運命を分けたのかなと思うんです」

何せ、病院ではパンツを脱いで、金玉の大きさを測られるのだ。若い女性の看護師も部屋から出て行ってくれないのだ。その辱めを受けたあげく、診断は異常なし。ただ、自意識の死を体験しただけなのである。
「自意識が人よりも強い僕にとっては、それくらいショックなできごとが必要だったのかもしれないなと。さもなくば、肥大化した自意識に殺されていた可能性もありますから。よくある言い方だけど、神様が克服できる人間だと見込んだ僕に、自意識を打ちのめしてくれるという試練をたくさん与えてくれたのかもしれませんね」

 

原則というよりどころ

誠司が自身を苦しめ続けた強迫観念を克服したのは高3のときである。

歩くとき、ご飯を食べるとき、人と話すとき、帰宅時に道路で寝転がるとき……。習慣のように何年間もやり続けていると、思い込みはどんどん激しくなり、やがて現実になっていった。心のどこかでは思い込みかもしれないという自覚もあったが、それが思い込みだと証明できない以上、うかつな行動はとれないのだ。

さりとて、現実には、強迫観念は生活に支障をきたすまでに日常に染み込んでいるのである。このままでは、自分の生活はすべて飲み込まれてしまうだろう。母が死ぬ前に自分が死んでしまう。ならば、いつか対決しなきゃいけない――。

一念発起した誠司は、「対決の儀式」を行うことにした。高校3年の春。部活の引退試合の日、朝起きてから翌日の朝起きるまでの丸一日、「すべての動作を2回やらない」と定めたのだ。「2回やらなければ母親は死ぬ」という思い込みを解くためには、「2回やらなかったけど、母親は死ななかった」という体験が必要だと考えたのである。

その日がやってきた。朝起きたとき、トイレに行くとき、ご飯を食べるとき、改札に定期を入れるとき、歩くとき、試合でダッシュするとき……。どうしようもなくやりたい。身体全体からつきあげてくる衝動めいた思いを堪えながら過ごす時間はたまらなく辛かった。

試合会場から帰宅したときにはもうフラフラだった。自分が定めた“掟”を次々と破っていく時間を乗り切るために神経はすり減っていた。それはとりもなおさず、自ら母親が死ぬ確率を増やしていくことでもある。いつものように、2回触りさえすれば、母親が死ぬという不安から瞬時に解放され、楽になれるのだ。だが、誠司はそれが思い込みだという線に賭けたのである。それは大きな覚悟を要する、命がけの儀式だった。

むろん、そんな精神状態で眠れようはずがない。誠司は夜中、気が狂いそうになりながらも、布団を噛んだりして気を紛らわしつつ、枕を2回叩きたいという衝動を抑えていた。冷や汗をかきまくりながらも、なんとかしのぎ切った誠司は、ほぼ一睡もできていない状態で朝を迎えた。

誠司は自室のある2階から階段を降り、廊下をつたい、台所へと向かった。

「お母さんが生きていますように」そう祈りながら、誠司はドアを開けた。目に飛び込んできたのは、いつもと変わらず朝ごはんを作っている母の姿だった。その瞬間を境に、誠司はものの見事に強迫観念を断ち切ったのである。
「後々振り返れば、とんでもなく乱暴なやり方だったなと。ふつうは薬を飲んだり、カウンセリングを受けたりしながら、徐々に和らげていく方法をとるんだと思います。でも、僕は自身の思い込む力を利用して、母親の死が思い込みだと思い込もうとした。つまり、逆暗示をかけたんです。何年か分の蓄積を1日でチャラにするためには、自身の思い込みの激しさに匹敵するくらいに大きな精神的な儀式を行う必要があったんですよね。

思えば、中1のときから、1日も欠かさずヘアトニックを塗りつづけたことにしても、一つの儀式だったんやろなと。夜には「明日の朝には生えてますように」と祈り、朝はまったく生えてないことに落胆し、それがまた新たな夜の祈りへとつながっていく。願望でもあったけれど、やっぱり強迫行為ですよね。

強迫観念って、たぶんひとつの原則なんですよ。自分の将来を含めた自分自身があまりにも不安で、何一つ確かなことがない状況にいたから、どんな単純なことであれ、原則が欲しかったのかなと。原則に従えば大丈夫という法則が生まれて、決まっていることへの安心感が心の拠りどころとなってくれた。だから、強迫観念は、不安な日常が本能的に持ちこんだものだったのかもしれませんね。ただ、法則ができると法則に縛られていくというか、法則が新たな不安を作り出していくという流れになっていったような気はしますけども」

 

奇跡のあとで

高3のとき、誠司は進路指導担当の教師に「オーストラリアの牧場」という進路を告げている。理解の範疇を超えていたのであろうか。わけを追及されるのではないかという誠司の予想に反して、教師からは「それでいけ」と言われた。

奇をてらったわけでもなく、ふとした思いつきだったわけでもない。仮に理由を問われたところで、話せるだけの根拠はあった。

このまま大きくならない状態でどう生きていくか。その前提で将来を考えたとき、日本で生きるという選択肢は真っ先に消えていた。誰も自分のことを知らない海外で「子ども」を自称しながら、生涯生きていこう。一つの場所に定住しているといずれバレてしまうだろうから、季節労働者がいい……。

そこで思いついたのが、オーストラリアでカウボーイになることだった。東洋人のちびっこカウボーイが、3ヶ月ごとに土地を渡り歩いて一生涯を生きるのだ。誠司は本気だった。自尊心の死は、生命の死と変わりはない。カウボーイは、“障害”を抱えた状態で、自尊心を生き延びさせるために開かれた唯一の未来だった。

ところがどっこい。思いがけず、身長が伸びてしまったのだ。となると、オーストラリアに行く理由など何もない。しかし、日本で生きて行くという道を閉ざしている身である。大学受験をしていなければ、就活もしていないのだ。“おまけ”の人生をどう生きたらいいものか。自分の身体に起こった奇跡に、誠司自身が一番戸惑っていた。

しかしながら、それらはすべて、誰にも語られることなく、誠司の胸中のみで進行していたストーリーである。

事情を知らない市会議員の父は、「次男・誠司は、卒業後、オーストラリアの牧場で勤めます」と誠司が高3のときの年賀状に記していた。その数800枚。図らずも、800人の前でオーストラリア行きを宣言した形になってしまったのである。

身から出た錆であるが、宣伝効果は抜群だった。外に出れば、「まだ奈良にいるの? 一時帰国中?」と声をかけられるのだ。お茶を濁すたび、誠司はさながらオオカミ少年と化している自身を自覚するのだった。

本音を語れない誠司は、辻褄を合わせるほうへと心を向けた。行きたくない気持ちに無理やり蓋をしながら、オーストラリアで生きて行く方法を模索し始めた。

英語を勉強してから、と言って、NOVAに行ってみたこともある。まずは日本の牧場で経験を積もうと、東京にて北海道の酪農学校の試験を受けてみたりもした。ただ、ごまかすために行く北海道なのだ。やる気なんて起きようはずもない。誠司はすべての科目で白紙の答案用紙を提出。試験を受けたというポーズをとるためだけに、アルバイトで貯めた金を東京への交通費と受験料に費やしたのである。

そもそも、生きる目的が見つからないのだ。中高時代、自身の弱みをつつかれないための気の張りや気迫こそ、生きるモチベーションだったのである。それがあれば、オーストラリアで独りぼっちでも生きていけると思っていた。が、身長が伸びたという奇跡は、そのモチベーションを根こそぎ奪い去ってしまったのだ。後に残されたのは、傷つきやすい自尊心と、人より苦しんできた過去くらいである。

同じような境遇の友人と夜な夜な遊び歩いたり、ナンパをしに行ったり。高校までデートをしたことがなかった誠司は、遅れを取り戻すかのように慌ててやんちゃをした。しかし、もとより孤独の甘さのようなものを好むタイプなのだ。彼らとゲームセンターに行ったところで、空気に乗れずじまい。それなりに楽しくはあったが、それ以上のものにはならなかった。

何の取り柄もない19歳の若者が宙ぶらりんの状態で日常を漂っているだけ。そんな現実がにわかに襲いかかってきたのだ。おれはもうダメかもしれない……。はげしく浮き沈みを繰り返す感情に弄ばれながら、誠司はかろうじて身を持ちこたえていた。

そんな状態が1年半くらい続いたある日のこと。「映画」という一条の光が、誠司を包む暗がりへと射し込んできた。

幼い頃から映画は好きだった。インディ・ジョーンズやジャッキー・チェーンなど、冒険ものやアクションものが好みだった。

中学生になり、身体的な“障害”に苦しみはじめてからは、観る映画が変わっていた。自身の苦しみの深さと連動するように、深い精神性の映画を観るようになったのだ。観る本数も格段に増えた。

とりわけ好きだったのは、悲惨な境遇にある孤独な存在を主人公にした映画である。自分とは違う環境や国にいながら、自分と似たような孤独、あるいはより深い孤独を抱えて生きている人生には共感を覚えた。慰められもしたし、救われもした。ひととき辛い現実を忘れることもできた。日常が辛い分だけ、幸福感は絶大だった。現実世界にはいない、痛みを同じ深度で共有してくれる存在を、誠司は映画の主人公に求めていた。

とはいえ、苦しい現実が変わるわけでもない。そんじょそこらの眼差しや映画は信じないぞ、嘘だって見破るぞ――。猜疑心の塊を抱えながら映画を観る誠司の眼光は鋭かった。

実際、主人公が救われる映画は好きではなかった。まだ救われてない自分を置いて、救われてほしくはなかった。甘ったるい希望もハッピーエンドも信じられない。明るい映画を観たところで、何の慰めにもならない。それでも、猜疑心という細かい網目をすり抜けて心に突き刺さり、涙がじわっと溢れるような映画は何本かあった。

辛い人生を上から目線で憐れんでいるわけでもない。突き落としたり、助けたりもしない。非常に厳しい現実に目をそらすことなく、ジャッジを下すことなく、寄り添いながら肯定的に見つめている。そんな眼差しに誠司は救われていた。そんな眼差しがあるだけで救われることを実感していた。存在がそこにあることが希望。それだけが唯一信じられる希望だった。

しかし、身体的な“障害”が治り、コンプレックスも消滅していったからなのだろうか。いつしか映画から遠ざかっていた誠司だったが、しばらくの時を経たある日、ふと狂ったように映画を観た時間が自分にはあったことを思い出した。再びTSUTAYAや映画館に通う日々が始まった。

誠司を映画の道へと引っ張りこんだのは、ロバート・レッドフォード監督の『普通の人々』という映画だった。繊細で、多くの人からは地味な映画と受けとられる映画なのかもしれない。だが、誠司にとっては文句なしに最高の映画だった。
「この感性を映画に生かせるのならおれの中にもある! おれにしか作れない映画があるはずや!」

感動に打ち震えていた誠司の心を、直感が駆け巡っていた。

生まれ育った街にいることも、もう限界だった。両親に頭を下げ、進学を認めてもらった誠司は、映画の専門学校に進学するために上京。20歳の春だった。

 

虚実のはざまで

だが、東京に行って誠司は愕然とした。たしかに、自分は身体的な障害で苦しんだ。ところが、身体的には何ら障害はなくとも、苦しんでいる人たちが周りにはごろごろいたのだ。

原因は、親に愛されなかったという過去にある。彼らは一見、特別な悩みもなく、リア充な学生生活を送っている。しかし、ひとたびその表層をめくれば深い心の闇が広がっているのだ。