ライフストーリー

公開日 2015.5.13

Story

「ほんとに、おかげさまで、なんです」

NPO法人 地域再生ネットワーク 理事長 / 農家 原 和男さん

Profile

1955年生。兵庫県明石市出身、和歌山県那智勝浦郡・色川地域在住。大学卒業後、2年間のサラリーマン生活を経た81年、色川に移住。農業に従事する傍ら、90年頃より地域活性化に本腰を入れはじめる。06年より色川地域振興推進委員会・代表。2012年4月、地域の自立を目指して、地域の有志たちとNPO法人・地域再生ネットワークを立ち上げ。

※ 約18,000字

人生を変えた、1枚のポスター

いずれは青年海外協力隊になるんだ――。 81年春。抱いた夢を胸に秘めた原は、和歌山県那智勝浦郡色川地区へとやってきた。当時26歳。社会人経験はあったが、まだ社会のことをほとんどわかっていない状態である。そのまま居つき、30年以上住み続けることになるとは思ってもみなかった。
「バングラデシュの飢えそうな子どもたちを救うことが、当時の私のミッションだったんです(笑)」

夢が生まれたのは、浪人生のときだった。

中学、高校と陸上部に所属し、部活動にかまけていた原は、勉強には一切手をつけていなかった。県内の進学校である高校を卒業する時の成績は学年450人中430番台。周りはみんな大学に進学するから一応受けておこう、というくらいの軽い気持ちで大学を受験した。

試験では答案を埋めることすらできなかったことは、いまだはっきりと思い出すたことができる。後になって思えば、あまり“ものを考える”ことをしない学生時代だった。何であれ、当然のごとく試験には落ちた。何ら主体性を持たない原は、漠然と予備校に入り、浪人生活を始めた。

志望学部はどこでもよかった。工学部にしたのは、父親の出身が工学部と聞いたから。そもそも、やりたいこともないのに、勉強に熱を入れようもない。親の手前、真面目に予備校へと通っているふうを装ってはいたが、パチンコで時間をつぶすことも多かった。日々はいたずらに過ぎていった。

人生を変える出逢いは突然やってきた。

たしか6月頃だったろう。いつものように予備校へと向かう途中、電車から降りて、改札へとつづく階段を上がろうとしたとき、1枚の写真広告が目に飛び込んできた。目をぎょろつかせ、腹をぽっこりと膨らませた子どもの周りを蝿がたかっている。切り取られていたのは、70年代半ばにアフリカで起こった飢饉の一コマだった。

理由はわからない。が、たちどころに衝撃が胸に走ったことは確かだった。おれらは毎日腹一杯飯を食っているのに…。何てかわいそうなんや、こんなん許されへん――。後々振り返れば、小学生レベルの発想である。しかし、19歳の原はいたって真剣だった。

食べるものさえあれば、彼らを救えるだろう。そのためには、食べものを作る術を身につけなければならない。極めて単純だが、すぐにそんな発想が生まれた。その足で向かった予備校では、さっそく、農学部志望に変更する旨を伝えた。

2、3日後には、広告を出していた国際協力事業団の事務所を訪問。協力隊についてなど、話を聞いた。手渡された機関誌『若い力』が気に入った原は、定期講読を始める。

“愛読書”を手に、いつか彼の地に赴き、彼らを救えるときを思い、夢を膨らませることもあった。「協力隊の中には、してあげますという感じの若い子が多く、『あなたたちのような人が来ても役に立たない』という受け入れ側の批判も少なくない」そんな内容の記事を読み、考えさせられることもあった。

明確に定まった目的意識は、受験勉強の原動力としても威力を発揮した。自分なりの猛烈さで勉強に取り組むようになるとともに、パチンコ通いはピタッと止んだ。巻き返しが功を奏したのだろうか。どうにか一浪で、原は京都府立農学部という関門を突破したのである。
「あの時、あのポスターに出会っていなければ、今頃どうなっていたかわかりません(笑)」

 

自覚した不遜さ

大学で原を待っていたのは、戸惑いだった。食べものを作る術を身につけたいのに、授業で教わるのは、実地体験ではなく知識に偏った「机上の農業」である。かといって、すぐに辞めるという選択をとれるだけの裏付けを持たない原は、日常の流れに身をまかせて、時を過ごしていた。学年が上がるにつれ、カリキュラムも変わってくるため、いくばくかの期待感もあった。しかし、学部の専門課程に入る3回生のカリキュラムでも、農業実習ができる授業はほとんど組まれていないのだ。

結局、より突っ込んで農業を知りたいと考えた原は3年目に休学した。神戸の農家のもとを訪れ、住み込みで仕事を手伝うようになった。大学は中退も考えたが、復学したのは、一応卒業しておく方がいいな、と思い直したからである。

やがて、自分でやるしかない、との思いが芽生えてきたのに併せて、原は農業を実践するための土地探しを始める。大学卒業後すぐ、一般企業に就職したのは、農地を買う資金を貯めるためだった。

だが、予想に反して、金は貯まらなかった。給与は付き合いなどの交際費や生活費などに消えていった。それほど強い意志があったわけでもない。仕事もそれなりにおもしろかった。初志が日常に薄められていくなかで、このまま20年、30年と働きつづける未来も想像することができた。

そんな原が2年で会社を辞めたのは、このまま年を重ねるのはもったいないとの思いに動かされたからだった。

“耕す生活”を実践する場として、借りられる農地を探すため、原は役場や農協を当たってみた。が、まだ「田舎暮らし」という言葉もない時代である。交渉が成立しないどころか門前払いの連続だった。

都会の人間が農地を買ったり、借りたりするのは難しいのだろうか……。諦めかけていた矢先、一筋の光明が射しこんだ。色川地域がすでに外の人を受け入れている、という情報がたまたま耳に入ってきたのである。発信者は、1973年、Iターン者5家族17人によって組織された「耕人舎」。有機農業の確立、普及を志す彼らは、仲間を募るべく外に呼びかけていたのだ。

紹介者から連れられて、原は色川を訪れた。いずれバングラデシュに行く、という夢を描く身である。住む場所を問うつもりがない原は、移住を決めた。土地探しが難航していただけに、喜びもひとしおだった。

そうして、81年、理想に燃えた原は、“耕す生活”を色川で始めた。が、半年も経たぬうち、原は現実に叩きのめされた。

理屈ばかりこねくり回しているだけで、あまりにも非力な自身と、小さい頃から肌身に染みている地域の人々。その違いに愕然としたのだ。まだ田植えも稲刈りも、みな手作業で行っていた時代である。田植えのとき、世間話をしながら、驚くほどの速さで苗を植えていくさまや、「百姓」の言葉どおり、生活に関するありとあらゆることを自分でやってのけてしまうさまには、猛烈な生命力を感じた。暮らしとは何か、人がものを食べて生きるとは何か。そんな問いを突きつけられたのである。

若く、腕力や体力には自信があった。だが、生きていく術を持たなければ、技術も知恵もないのだ。彼らに比べれば、自身などどれほどのものか。そんな人間がよその人を助けに行くなんて、不遜にもほどがある。まずはしっかり生きよう。しっかり暮らそう――。

金を稼ぐ術は何でもよかったが、勤めに行きたくはなかった。仕事は自分で起こしたかった。

農業を選んだのは、それしか浮かばなかっただけでもあるが、一番やれそうなことだったから。休学中、篤農家のもとで教わったり、色川で有機農業を体験させてもらったりしていたため、乏しくとも技術はあったのだ。

やっていける自信などなかったが、意気込みはあった。しかし、地域住民からは「どうせ、いつか帰るんやろ」と軽くあしらわれるのが常だった。農地を借りる手続きをとろうとしても、「どうやって食っていく気か? 農業はそんな甘いもんやないで!」とたしなめられるばかり。必死で思いをぶちまけても、そう簡単に農民として認知してはもらえなかった。

実際、生活は厳しかった。朝から晩まで働きづめ。安定とは無縁、食っていけるという保証はどこにもない。移住6年目、86年には結婚。翌年に生まれた長男を皮切りに、年子の次男、2年あけて三男と続いた。父親として一家を背負っている、という責任感めいた思いも芽生えてきた。

原はがむしゃらだった。しかし、切羽詰まった状況だからこそ、是が非でも何とかしなければならない、とやる気が満ちてきた。すると、つられるように知恵も湧いてくるのだった。
「今も楽しいけれど、思えば、その頃が一番楽しかったかもしれませんね」

 

見えてきた“つながり”

移住当初に掲げた目的に沿い、それなりに一人でしっかり生きられていた原は、しだいにあることを実感するようになってゆく。
「結局、地域は一人で成り立っていない、というのかな。仕事をして収入を得ながら町で暮らしていたときは、一人で生きているような気がしてたけど、田舎にいると一人でやれることは知れているわけです。

たとえば、学校にしても、自分ひとりがいくら頑張ったところで、他に子どもがいないと廃校になってしまう。田畑にしても、何十人もの人が数町という面積を耕しているから、山村の景観や環境は守られている。自身が5、6反耕したとしても、周りはみな山や荒地になるしかない……。暮らせば暮らすほど、地域があってこそ、地域に色んな人たちがいるからこそ自分は生きられているんやとわかってきたんですよね」

あれは80年代後半、移住7、8年目のことだったろうか。子どもたちの成長に応じて、それなりにお金もかかるようになると、原は前にもまして仕事に励まなければならなくなっていた。

仕事は農業一本。誰かに雇われているわけでもなければ、誰かを雇っているわけでもない。日がな一日、一人で黙々と作業に当たる日々の繰り返しなのだ。帰宅後、妻と少し会話を交わす程度に、人と話をする機会は限られていた。

そんなある日のことだった。

今日は尋常ではないほど疲れたうえに、喉もからっから。早く家に帰ってビールでも飲もう。そんなことを思いながら、収穫した野菜をどっさり軽トラックに積み込み、家に帰ろうとした矢先、畑のそばに住んでいるおじさんから声がかかった。
「うち来いよ。ビール1杯飲ましたるから」

ふいに喜びが胸いっぱいに広がった。さして珍しいことでもない。それまでにも何度かあったことである。なぜ、その日が特別だったのかはわからない。理由はさておき、彼とたわいない話をするひとときは心地よく、飲んだビールの味は、言うまでもなく最高だった。

ヤクザっぽい雰囲気で、一風変わったところがある彼は、村人たちから距離を置かれていた。しかし、心は無条件。今日はこの人に救われたな、人あってこその暮らしやな……。そうしみじみ感じつつ、そのありがたみを噛みしめつつ、ほろ酔いの原は家路に着いたのである。

その体験は、想像力に翼をさずけた。

今日は実感として味わったけど、常日頃から、気づかないうちに救われているところは大なり小なりあるよな。たとえば、道端で会った村人と、たかだか2、3分ほど世間話をするだけでも、それがあるかないかではけっこう違うんじゃないか。なくてもいいように思えるけれど、あることで生かされている、救われているところはあるんじゃないか――。

場面を変えながらも、同じようなことを感じる機会はいくつもあった。そして、そういう時は、決まって「人は一人で生きてないんやな~」と原は確かめるように思うのだった。とともに、「助けに行く」という発想も徐々に姿を消していったのである。

 

見えてきた“地域らしさ”

まずは地域に馴染んで、少しずつ理解してもらうしかない。田舎で暮らしていく以上、地域の人々との付き合いを増やしていかなければおもしろくないし、寂しいもの。声がかかるところには行こう、頼まれたことはちゃんとやろう――。移住当初から原は、ソフトボールチームや消防団などに入り、積極的に地域の人々との関わりを持つようになった。

ただし、自分の思惑どおり進められる仕事とはわけが違う。組織という意味では、田舎も会社と変わりはないのだ。ここはおかしいやないか、こうしたらええのに、まず、これまでの歴史や知恵を前提に考えているところからして間違っているんじゃないのか……。事あるごとに、原は違和感を覚えるのだった。

たとえば、ある会合でのこと。まずは全員が意見を述べ、おおいに意見を戦わせながら、一つの合意点を見つけていく。それが原の思う「普通」の民主主義的な進め方だった。しかし、色川では、50人集まっても、話をするのは3人だけ。他の多くの人たちは静かに下を向いているだけなのだ。たった数人の意向ですべてが決められるなんておかしいんじゃないか……。

ただ、そもそも“耕す生活”を諦めかけていた原にとっては、地域が自分を受け入れてくれたこと自体、感動ものだったのだ。おまけに、農地も貸してもらえて、好きなことをやれてもいる。地域の人たちへの感謝から始まった原の心を占めていたのは、まずは追い出されないように、居続けさせてもらえるように生活すること。おこがましくも、地域のやり方への批判的な気持ちなどまるでなかったのである。

ところが、時間を重ねるうち、原は自身の民主主義に対する捉え方がいかに薄っぺらいものか、気づくようになってきた。なるほど、こういう理由でやっているのか、とわかる場面がちらほら出てきたのだ。

たとえば、会議で下を向いて黙っている人と世間話をしているときに、「意見を言わないのか?」と尋ねると、「そんなん、あの人らがやってくれんねんから、任しとったらええがな」と返ってきた。
「人によって温度差はあるけど、しゃべってる人らに信任しちゃってるんやなと。一方、しゃべってる人らは、なんとなく、しゃべらない人たちの声や顔を思い浮かべながら、思いを実感として背負いながらしゃべってる。だとすれば、町民を代表する議員が議案を議会にかけて、行政が施策していく流れと何ら変わりはない。究極の代議制やな、と思ったんです」

同じ仕事をしていて、使われる人、使う人が居合わせれば、使われる人は一切意見を言わずに任している、というように、会合の場には日常の関係性が入りこんでいることもわかった。会合だけ見ていれば異常である。だが、日常もひっくるめて見てみると、納得できることは多々あった。
「外から見れば変に感じるけど、田舎には田舎流のやり方がある。気にかけていると、いろんな場面で“最大公約数”みたいなものが見受けられます。そういうのをひっくるめて、私は“地域らしさ”と呼んでいるんです」

色川での日々は、原の思いこみを和らげていった。

会合などで誰かと意見が食い違い、激しい口論に発展するにつけ、村の年寄りからはよく、「みなまで言うな」と叱られた。
「何でですか? 思いっきり言い合いしなければ、わからんじゃないですか?」と原が尋ねると、「みな言うてしまうと、あくる日からの付き合いがしにくくなる。しょせん人間関係の中で生きとるんやから、やっつけたらええというもんではない」「つながりを大事にするという意味で触れたらあかんとこある」「ここまでにせぇ」など、同じような意味合いのことを、口々に言われたのだ。

「地域の人々は、お互いにレッテルを貼り合って生きています。たとえば、すぐ拗ねる人を「へんこき」、やけっぱちになり自分勝手に話をする人を「やけこき」というように。そんな陰口を叩きこそすれ、同じ場に居合わせれば、その人の名誉を傷つけないよう配慮する、というのかな。お互い気持ちよく暮らせる方法を、お互いに取ろうとしている感じがあるんです。

以前、結城富美雄さんが「村はぐずぐず変わる。昨日決まったはずのことを、今日の会議でまた蒸し返す。決議じゃなくて、そういう雰囲気の中でやりとりを重ねながら、日常の中で確認しあいながら、変わる場合はぐずぐず変わっていく」と言っていたけれど、まったく的を得ているなと。

実際、多数決で賛否を取るときにも、ためらいながら、あるいは小首を傾げながら手を挙げている人がいるうちはゴーサインが出ない。全員がサッと手を挙げて初めて、ゴーサインが出る。そういうのが“田舎らしさ”であり、田舎の良さでもあるんやろなと思います。ええ意味で慎重というか、諮り合いながら合意を形成していくというか。

だから、日常も含めて、究極の民主主義じゃないか、と思うこともあります(笑)。田舎は封建的、閉鎖的とはよく言われるけど、やっぱりそれは外部目線による評価なんですよね。

たしかに前例がないことは、ほんとに嫌います。無鉄砲なところもない。ただ、それは慎重だからというより、周りの動向を観察しながら取り入れるかどうか、判断しているからなのかなと。実証主義的な色合いが濃いから、経験値的なものをかなり重視する。何せ、地域の人らは、色んなことをよく見てるな、と感じますね。

そうはいっても、地域のみんながおかしいと思っていると、おのずとやり方は変わり、おかしくない方へと修正されていく。大丈夫と判断したものはきちんと取り入れて、生かしていくし、その過程では、みんなけっこう挑戦的なことをやっているんです。

ただ、そういうやり方がいいか悪いかはわからない…というか、どうでもいいことやなと。そんなことにあまりとらわれる必要はなくて、いくら端から「おかしい」と言われたとしても、自分たちがいいと思ってたらそれでいいんやな、と思っています」

 

田舎らしくあるために

色川地区には色川地域振興推進委員会という自治組織がある。当委員会は91年、地域会議により、組織だって新たな取り組みをする目的で生まれ、移住者の受け入れ窓口の機能も果たしてきた。

06年より当委員会の委員長を務めている原は、これまで、地域おこし協力隊など外部人材の力を借りながら、ホームページを通じてなど、積極的な外部発信に努めてきた。

現在、色川地域の人口は400人弱。うちIターン者が180人ほどと半数近くを占めている。70年代からじわりじわりと移住者が増えてきたことにより、色川小学校は廃校を免れた。域内の高校生が町外の高校へバスで通えるようにと、路線バスのダイヤが変更されたのは90年代のこと。過疎地の先進地域のひとつとして、色川が全国的に注目されているゆえんでもある。
「Iターン者は途切れずにやってくるけど、たまたま出逢った地域の人に魅力を感じたり、共感したり、感動したりした思い出やつながりが蓄積していくにつれ、どんどん想いが募った結果、移住に踏み切るというケースが大半やと思います。とくに色川では、林業関係者を除いて、仕事も紹介してもらえないですから。行き着くところは、人間関係というか縁。もっとも、景色や土地柄、風土に惚れた人も、なかにはいますけどね」

ところが最近、とみに感じるのは、移住希望者の安定志向だ。移住希望者からはよく「どうやったら食えるんですか?」と訊かれたり、地元民からは「仕事がないと人は来ないよ」と言われたりする。
「もし田舎に仕事がちゃんと用意されていたら、田舎らしさは消えてしまうと思うんです。

今生きている80代、90代のお年寄りから昔の話を聞くと、ほんとに厳しい環境で生きてきているから、安定した暮らしなんてたぶん味わったことがない。必死で働いてもまだ生活費を切り詰めないといけないくらいで、子供の教育も十分にやれなかった家庭が多かったはず。村の歴史は、貧しさとの共存、闘いの歴史。いくら私らが困った、困ったと頭を抱えたところで、比べものにならないですから。でも 、私を含めた外から来た人たちは、その中に豊かさを感じ、田舎に憧れている、というのが実態やと思うんです。

だから、リスクや不安定、心配事がつきまとうことを前提として、何かに挑戦する。それが田舎で暮らす人たちの基本スタンスであってほしいなと。安定とか、これがあれば絶対安心といえるようなものをどこかに抱えたまま田舎暮らしをする人は、きっと死ぬまで田舎らしさがわからないんじゃないかな。苦労して、「お前大丈夫か」と人に心配されるくらいの暮らしをしてこそ、生粋の田舎の人たちの苦労もわかってくるし、想像もできる。エネルギーや知恵も湧いてくる。ひいては、延々と受け継がれてきた彼らの“暮らし”を少しでも受け継いで、次世代に伝えていける可能性が生まれてくるんじゃないかな、と私は思っています」

だが、世の中は真逆の方向へと進んでいる。総務省が進める「地域おこし協力隊」を例にとれば、委嘱期間が終わる3年後、独立するために必要な経費を充実させようという流れになっているのだ。
「人を定着させたり、移住者を増やしたりするために、様々な恩典を与えていくことで、地域に入りやすくしようという意図はわかるんです。でも、恩典を充実させて入りやすくすればするほど、甘い考えで安易に入る人を増やしてしまうと思います。安定が保証されることで、人のエネルギーを削いでしまうところも出てくるでしょうし。

彼らを受け入れて家や農地を世話する地域側からしても、負担はとてつもなく大きいんです。さほど腹もくくってない人なら世話をする甲斐がないし、下手をすれば荷物を背負うことにもなりかねない。仮に出て行った場合、その間に投入したエネルギーはすべて無に帰するし、その喪失感たるや、けっこう大きなものがあるんですよね。金の面でも無駄になってしまうでしょうし。

移住って、人生における一大事やと思うんです。だから、「安易な気持ちでいるなら、移住なんか考えない方がいいよ」ということをきちんと伝える方が優しいというか、本人のためにもなるんじゃないかなと。都会での生活を整理して田舎に来ている人の多くは、戻るところがないでしょうから。

でも、そういう厳しさを伝える一方で、本気でがんばるなら仲間として応援するよというメッセージも伝えたいなと。間口が狭くとも入ってくる人たちは本気でしょうし、本気なら少々の困難があっても乗り越えていける。受け入れる側としても、そういう人たちなら世話や応援のしがいもある。その上で、現在進行形でがんばっている人たち――誰がそれに当てはまるのかはさておき――の支援措置は必要やと思っています。

受け入れる地域としては、移住者が移住後の未来に夢を描けるような気運づくりにエネルギーを注ぐ方がいいのかなと。たとえば、色川地域はこれまでどんな風に再生してきたかという道筋を示しつつ、本気で頑張っていく仲間を探している、みたいな感じで打ち出したとき、それに呼応するような思いを持った人たちは惹かれると思うんです。で、彼らの夢と地域の夢がコラボしたりするなかで、お互いに夢を共有しあえる流れにつながっていく。受け入れる地域のしっかりした思いや魅力というのは、金銭面などの支援措置以上に、移住先での日々の暮らしを案じて、なかなか一歩を踏み出せない人たちの背中を押す気がしていますね」