ライフストーリー

公開日 2015.5.13

Story

「ほんとに、おかげさまで、なんです」

NPO法人 地域再生ネットワーク 理事長 / 農家 原 和男さん

“自立”を志して

そうした原の考えは、3人の息子たちへの教育方針にも表れた。

彼らに明言したかどうか、記憶は定かでないが、中学卒業は元服と同じ、という意識はいつも心にあった。通う高校によっては、あるいは高校で部活をするのであれば、毎日親が送り迎えをしなければならないのだ。彼らが中学の頃から原はこう言っていた。「高校に行きたいなら、朝『すいません、送ってください』と言え。帰りは『今日は迎えに来ていただけますか』と言え」
「高校は自分が好きこのんで行く、自分の意志で行くことを自覚してほしい、と思っていたんです。大学や専門学校ならなおさらですよね」

現在、色川で暮らす三男は、高校卒業後すぐ、奨学金制度を活用して大学に行った。その際、冗談交じりに原は、「親の収入が低いから十分に奨学金をもらえるんや。ありがたいと思え」と言っている。「働いてから大学を受けたらええやん。働いたら金も入るし、ほんとに行きたくて行く方が身につくから」と助言めいたことも伝えたが、彼は自身の考えを譲らなかった。

もっとも、彼が借りた奨学金は、原が肩代わりして返済中である。得た教育を社会還元していくという責任を果たすことに精一杯力を注いでほしい。本来それは社会がすべきことだと思うから、社会の代わりに親が返す。そんなこだわりがあったからである。

近年、原が描いている二つの夢も、「自立」とは切っても切り離せない。
「どこの国で暮らす人であれ、例外なく、“暮らし”のまわりには地域がありますよね。小さな自分を取り巻く地域があって、みな生きられる。つまり、小さな地域が“暮らし”の核になっているわけです。だから、住んでいる人が、自分の住む地域をしっかり守っていきさえすれば問題はない。地域が自治、自立していくことはすごく大事……。そういったことを、最近ますます思うようになってきたんです。

そんな“暮らし”が実現すれば、国境に分けられた国ではなく、地域どうしの連携や関わりを基本として地球を捉えるようになっていくんじゃないかなと。肌の色や宗教は違えど、“暮らし”は世界中みな一緒。そんな“暮らし”が前提にある限り、たぶん殺し合いは起こらないし、理想論かもしれないけれど、宗教をも超えると思うんです」

原のもう一つの夢は、「地域における循環型社会の実現」である。
「今の世界を動かしている、金が金を生む「金融資本主義」ではなくて、モノとサービスのやりとり、人と人とのかかわりによって成り立つ実体経済をしっかりさせること。

今後、金融経済がおさまっていくことはないでしょう。でも、地域内で経済が循環するための健全な仕組みを作って、食べものやエネルギーを自給し、最低限のサービスをお互いに提供しあえれば、“暮らし”を守っていけると思うんです。各地域ができる範囲でそれをやれば、「地域の自立」を補完していけるはず。

その二つの流れが混ざり合っていけば、めちゃくちゃおもしろい展開が期待できると思っていますね。

とはいえ、実際には、あんまり大きなことを考えずに、小さなことを少しずつ。色川地域も現在の市場経済の中に組み込まれていることは確かですから。なんとか踏ん張っている地場産業を盛り上げたり、継続させていけたりする道を探るのがさしあたっての課題なのかなと」

移住者が増えているとはいえ、原が色川に来た81年当時の人口は約800人。この30年間で半減したことになる。高齢化率は45%。“著しく疲弊した地方”という現実は、紛れもなく目の前に横たわっている。

だが、原の口からため息が漏れることはない。2012年4月。原は、NPO法人・地域再生ネットワークを地域の有志たちと立ち上げた。目下、地域住民たちで話し合いながら、地域が自立する術を模索している最中である。

 

つのる羨ましさ

原は兵庫県明石市出身。原家のルーツは岡山にあるが、祖父は神戸に出て、父の代から明石市に移ったため、田舎を知らずに育っている。
「進歩的と言われる都会の暮らしは、明治時代以降の西洋化、戦後の民主化、自由化の流れによって作られたものであって、たった百数十年の歴史しか持たないから“地域らしさ”はとても薄い。仕方ないんでしょうけど、地域に育まれた人たちが暮らしている世界じゃないから、ある意味、みんなバラバラですよね。

一方、農村社会である田舎の“地域らしさ”が持つ、もっと長い時間をかけて、日常の積み重ねによって練り上げられてきた営みのようなものって、すごく分厚いと思っています。みんな無意識に同じような振る舞いをするというか、表面的には違うんやけど根本は一緒というか。

たとえば、村の人に「そんな非常識なことすんな」と言われて、「村の常識って何ですか?」と尋ねても、絶対に説明してくれない。言葉にせずともわかり合っている“常識”が田舎にはあるんです。それを外から来た私らは感じるしかないし、大事にしないといけないところやなと。

田舎はお互いさま、おかげさまの世界です。たとえば、祈りの場である神社やお地蔵さんは日本のどこにでもあって、「おかげさまで」という感謝の思いが行事や祭りとして形になっている。その営みの重みや奥深さを強く感じるし、どう考えても田舎の方が圧倒的に洗練されているんじゃないか、と私はいまだに思っていますね。

生まれたところ以外の場所を知ることなく、ずっと同じ場所で生きつづけている人たちは、よく「世間知らず」とか「井の中の蛙」と揶揄されるけど、人間としてごく自然なことだと思うし、それこそすごいことやなと。そのすごさは歳を増すごとにひしひしと感じますし、最高の人生やな、と羨ましくもなるんです。と同時に、死ぬまで田舎の人にはなれない自分、をつくづく感じるんです。まぁ、外から来た人間なりの役割もあるんでしょうけど。

外から来た人間としては、まずは田舎の営みに重みがあると思って、その中にどっぷりとつかること。そこがすべてのスタートかなと思うんです。端で見て、批判だけしたり、意見だけ言ったりする人は、死ぬまで部外者でしかいられないでしょう。悪いところがあると思うのなら、どっぷり地域に入っていって、当事者になって、色々とやりとりしていけばいい。だから、移住者の人にはどこか冷めた目で田舎を見てほしくはないですね。いいも悪いも含めて、目の前で起こっていることは現実ですから。

そうやって自分ごととして、これまでの歩みを背負いつつ、これからを見ていく人が増えない限り、田舎は絶えてしまう。それはやっぱりさびしいですよね」

まるでそんなことを思わなかった30数年前を思い起こせば、地域に影響されまくり、どんどん変わってきた自分に気づくのだ。

実際、色川で農地を借りて農業を始めたとはいえ、住みつくつもりは毛頭なかった。

80年代前半は、「耕人舎」目当てに日本じゅうから来る人たちが頻繁に出入りしていた頃だった。何しろ、年間50人はくだらない訪問者が来るのだ。彼らとの交流は刺激的で楽しく、情報を得られもする。いいところがあれば移ろう、とアンテナを立てながら、しばらくの間、原は様子をうかがっていた。

だが、2年もすれば、“よそ見”はしなくなった。地域のじいちゃんばあちゃんはすごいな、という感動が積み重なったり、地域の人たちに惹かれ、つながりが濃くなっていったり。さらには、自分の居場所らしきものを感じられるようになったりするうちに、色川にいつづけたい気持ちはおのずと増してきたのだ。
「だから、「色川のどこがよかったんですか?」と訊かれても困るんです。たまたまここに来ただけ、としか言いようがない。地域はどこでもよかったわけですから」

子どもができてからは、どうすれば色川に居てくれるか、なんとか色川に居てほしい、ということをよく考えるようになった。「おれ」と言ったことはないが、「おったら最高やぞ」とは折に触れて言ってきた。背後には、田舎に住む人たちの都会志向により田舎がさびれた過去に抗いたいとの思いもあった。
「とくに自分の子どもの場合、思いを共有したり、一緒に何かをやったりしたくなるんです。「ここええやろ? おもしろいやろ?」と問うたら、「そやな」と言うてほしいんです。実際、こんなええとこやのに、なんでわざわざ出て行くのかって思ってきたし、そういう実感がともなえば、自ずと口に出したくなりましたよね」

なお、現在色川では、高校を出てすぐ仕事に就いた次男と、大学卒業後すぐに戻ってきた三男の二人が暮らしている。
「うれしいですよね。色川に根を下ろした1代目の私を端緒として、このまま100代つながってくれへんかな、子々孫々受けつがれていくことで、大いなる豊かさのレーンに乗れないもんかな、と強く願っているんです」

そんなことを誰かに話すたび、決まって「一度は(子どもを)町に出さなあかん」「まずは町に出さなあかん」と言われるが、考えが揺らいだことは一度もない。むしろ、原は「まずは田舎にいるべきだろう」と考えてきた。
「ふるさと感や居場所感というのかな。自分の居場所と思える場所が、生まれる前からずーっと変わることなくそこにあって、そこで自分も生きている。その流れの中にある人生の膨らみみたいなものって、すごいもんやと思うんです。

さまざまな世界を見た方がいいという考え方もあるでしょうけど、先人たちによって里が築かれてきた流れも含めて自分の足元をしっかり見つめること、地域の人たちのおかげで生かされてきたな、というように「おかげさま」「お互いさま」をとことん実感するような時間をまず過ごすこと、そして田舎で生きることのほんとの良さや深みを肌に染み込ませることの方が、はるかに大事やと私は思っています。苦労であれ何であれ、日常的に湧いてくるものの総体としての地域とのつながりは、その地域で暮らすことでどんどん強くなっていくものでしょうから。

街と田舎の両方を知っている身としても、街って怖い場所やと思うんです。犯罪に限らず、得体の知れない人がたくさんいたり、訳のわからない物事がたくさんあったりする環境では、一歩間違えればどこに埋まっていくかわからないし、どういう流れに引き込まれてしまうかもわからない。悪い意味で街に洗脳されてしまったとき、その子の持ってるいいところも潰されてしまうんじゃないかという怖れもある。でも、田舎で時間を重ねて、田舎が染み込んだ後なら、いくら街に出ても大丈夫やろうとは思うんです。

子どもの自由にさせたいという考え方もあるでしょうけど、そうするとさびしい展開になっていくだけのような気がするんですよ。だから、私は自分の子どもを含めた若い子らをもっと当てにしたいし、現に「おってくれよ」と言いたくなる子もいる。そういう関係性に私は満足しているし、当てにされる方も当てにされることがそんなに嫌なはずはないんじゃないかなと。もちろん強制はしないし、答えをどう出すかは本人の自由です。ただ、当てにする雰囲気が子どもらのふるさと感や居場所感を膨らましていくようには思うんですよね。

自由とか束縛って、内面的な問題じゃないですか。昨今、個々が自分自身を開花させていこうとする自由は、封建的な田舎の不自由と対極にあるものとして捉えられている嫌いがある。その変化に伴って、現代に生きている人たちが持つふるさと感って、昔生きていた人たちのそれに比べたら、ずいぶん薄まってきているんじゃないかなと感じています。

いや、「ふるさと感」や「居場所感」のような基盤となる存在があった上で自由になるのはいいと思うんです。でも、そうした基盤をしっかり意識できていない状態で自由になると、どこに飛んでいったらいいかも、どこに戻っていったらいいかもわからないんじゃないかなと。だから、大人が子どもたちにできることとして一番大事なのは、個々に心の拠りどころや帰る場所を持たせてあげることだと思っています。私が思い描いていることって、あくまでも居場所づくりなんですよね」

色川には、長男としての義務を果たすべく、戻って来ざるを得ずに戻ってきた人も少なくはない。これまで原は彼らから、何度となく、異口同音にこう言われてきた。
「おまえらはええな、好きなことをしたくて、夢描いてここ来てるから。でも、わしらは戻らなしゃーない、親の面倒を見ないとしゃーない。そう思って戻ってきた」

それでも、原の気持ちは変わらなかった。
「こっちにすれば、よっぽどあなたたちの方が羨ましいよ、と内心では思っていました。だって、戻らなあかん、と意識するくらいとてつもなく強いつながりを、親や地域と持てているわけでしょう。そのつながりを通して、数え切れないほど多くの人たちの人生を感じながら生きられているなんて、ほんとに心強いこと。まさにそれこそが、“豊かな暮らし”やと思うんです。

「先祖に申し訳ない」という言葉に表されているように、家の責任をまでも背負って生きる人を見ると、多くの人は「息苦しいでしょ」と言うのかもしれません。でも、私は違う。それくらい強固なつながりをもって生きられるほど、幸せなことはないと思うんです。

その豊かさや幸せに比べれば、自分のやりたいことや好きなことをやるのはどれほどのことなのかと。いや、確かに、そういうことをする楽しさやおもしろさ、快感はあるし、私も味わってきました。でもそれは、ほんまに薄っぺらいことでしかない……ということを、長く居ればいるほど突きつけられてきたこれまでやったなと。そやから、田舎の人ほど幸せな人はいない、と私は思っているんです」

 

「おかげさまで」の世界で

そんな確信めいた思いを吐露するにつけ、地域の人々からは必ずこう返されるのだ。
「おまえは苦労も知らんから。昔はどれだけ貧乏でしんどかったことか。辛かったことか」

その後はいつも、昔の苦労話へと話題は移っていく。だが、どれほどきつい暮らしの話を聞いたところで気持ちは変わらない。「それでも幸せですね」と、原は口にしてしまうのだ。
「極端な例ですけど、江戸時代頃までは、百姓の子は百姓、大工の子は大工、左官屋の子は左官屋になると決まっていたと思うんです。その流れが今の時代においては「自由な選択を妨げる」というレッテルの貼り方をされたりする。でも、本来、大工の子どもが父親の仕事を見て、かっこええなぁ、おれもやりたいなぁと思って、父親の背中を追っていくのは自然なことじゃないかなと。どんな職業に就いている人であれ、一生懸命やってきて、誇りを持っていれば、子どもらに伝えたい、繋ぎたいという思いを絶対抱くと思うんです。おれの代で絶えたらええねん、とは絶対に思わないと思うんです。

田舎で暮らすことの誇りもそれと何ら変わりはない。私は是非とも地域が残ってほしいし、最高やと思いながら暮らしている場所が消えてしまうなんて、とてもじゃないけど耐えられない。自分の子どもがどこかに行ってしまうなんて、何となく寂しすぎますよね」

色川地域には、平安時代の末期(12世紀後半)、平家の落人として逃げ延びてきた平維盛を受け入れて匿ったという言い伝えが残っている。一説には、646年、大化の改新が行われた頃の記述が史料に残っているとも言われている。
「最低1000年の歴史があるここでは、計算したら10万人近く、少なくとも数万人は生まれ育って、働き、死んでいったわけです。

昔に思いを馳せれば、棚田を築くところからやった人たちがいるわけでしょう。だいたい、こんな山の中に里を開いて、人が暮らせる場所を作るかと。それに要したであろう膨大なエネルギーを思えば、それはもう、涙がちょちょぎれるくらい嬉しいこと。ほんま、おかげさまで、ですよね。

それを思ったら、わしの代で終わってもしゃーない、あとはどうなってもええとかって到底思えない。次が続かないなんて寂しすぎるし、先祖にもちょっと申し訳ない。

いや、棚田を築いた人たちが子々孫々のために作るんだと思ってやったとは全然思ってないんですよ。「わしゃ関係ない」という先祖もたくさんいるかもしれないし、ただ自分が生きるために必死で築いてきただけなのかもしれない。だとしても、彼らの営みのおかげで今、私らが生きられていること。その暮らしに幸せや豊かさを感じていることは偽らざる事実なわけです。

だから、私にとっては、次に繋いでくれる人たちがいると嬉しいんです。地域に入ってきた移住者が一生懸命耕している姿を見れば、何せうれしい。そして、若い頃ほど自分の身体が動かなくなってきた今、若い子らがやっているのを見ると頼もしい。ごく自然な流れを断ちたくないという思いはおればおるほど強くなってきました。色川に限らず、日本じゅうにたくさんある田舎が消えていこうとしているわけだから、ちょっと待てよと思いますよね。やっぱり、田舎は潰したらだめですよ」

原は今年で還暦を迎える。色川で暮らし始めてもうすぐで35年。来たばかりの頃を除いて、色川を離れようと思ったことは一度もない。それどころかむしろ、「おればおるほどおもしろい」場所である。地域で生きてきた人々の豊かさや幸せへの羨ましさはつのる一方なのだ。
「地域の課題が自分ごととなった1990年頃からかな、今のような考え方をし始めたのは。色川に来た20代後半の頃の自分とはもう違う人間になっているから、当時の自分と話しても通じないだろうなと。いいも悪いも含めて、色川で過ごさせてもらったから、こんな人間になったんでしょうし、ここで生きる人間にしてもらえた気がするんです」
原に豊かさや幸せをもたらしてきたのは、原の心に広がる目に見えない世界でもある。
「関心をもって、今生きている80代、90代の人から昔の話を聞いたりしてきたけど、直接的に訊けるのはそこまで。でも、棚田を例にとれば、石垣をどうやって積んだのか、どこから石を持ってきたのか、裏側に厚く敷き詰めている赤土はどこから、どう運んできたのか、どんな道具を使って土を叩き締めたのか……と目の前にあるものから色々想像していくと、色んなことを感じられる。

さらに、彼らはさぞかし大変やったやろな~、ユンボーがない当時はもっこ(運搬用具)で担いできたんかな……と想像すれば、彼らと一緒に生きている、彼らの力も借りて生きているという実感を持てるんです。

そういうことは街でも感じられるんでしょうけど、田舎はもろに人の汗を感じられる光景に溢れてる。山道一つとっても、石垣一つとっても、とくに田んぼに水を引いてくるための溝なんてすごいですよ。大きな岩にのみで穴を空けたり、谷になっているところは棚田の石垣と同じ要領で地面を築いたりして水路を造り、山奥から水を引っ張ってきているわけです。それを造った顔も名前も知らない人たちのおかげで、今、私らは田んぼを耕せて、米を食える……と思えば、すごく豊かだし、ふるさと感や居場所感は膨らんでいく気がするんですよね。

私は、地域をもっと良くしたい、とかってワーワー言っているけど、ひょっとしたら先人が「おー、よく言うてくれてるのう、やってくれてるのう」と思って応援してくれてるんちゃうかな……とか、20年後、30年後、元気に騒ぎ回っている人がいたら、先人もよかったな、と笑っているんじゃないか……とか、たとえ少々の失敗をしたとしても、次に繋いでいこうという思いに嘘がなければ、少なくとも先人は許してくれるだろう……とかって勝手に想像して、ひとり悦に入って愉しんでいるんです。(笑)

だから、目の前にいる人からボロカスに言われたとしても、ゆったりと構えていられるし、課題がたくさん出てきてもへっちゃら。性格的なものもあるんですけど、解決策を考えることや、人と話し合うことはむしろ愉しいくらいで、もうあかんわとかって思ったことはまったくないんですよね。

どこの田舎でもそうでしょうけど、しっかりと足元を突っ込んで見ようとしたとき、いろんなものが見えてきて自分が元気になっていくし、気持ちの張りも生まれてくる。物語は、頭の中でなんぼでも膨らませられますから。不思議なことに、先祖とつながって生きていると思い始めれば、いずれ錯覚になり、だんだん実感に変わっていくんです。先人から元気をもらっていると思わされる、というのかな。

まぁ、完全な思い込みであって、人からは「アホや」と言われるでしょう。でも、私にはただそれが幸せなんです。田舎で思い込みと想像力を働かせれば、こんなに愉しいことはない。(笑)ほんとに「おかげさまで」ですよ。

だから、色川を出て行く気は全然ないけど、ただやっぱり「青年海外協力隊のシニア枠」と聞くと、ちょこっと心が動いたりする。お手伝いしたい、みたいな思いはなぜか消えないんです。こればっかりは、性というか病気ですね(笑)」

 

 

【参考資料】
『有機農業ハンドブック 土づくりから食べ方まで』(1999・日本有機農業研究会/農山漁村文化協会)