ライフストーリー

公開日 2015.2.23

Story

「おもしろい人間でありつづけたいんです」

コピーライター / 写真家 / セルフ祭顧問 日下 慶太さん

Profile

1976年生。大阪府出身、在住。大学最後の年、10ヶ月間かけてチベット、カシミール、アフガニスタンなどユーラシア大陸陸路横断の旅をする。01年、新卒で電通に入社し、コピーライターに。過去に朝日新聞広告賞入選(2001、2002)、ラジオCMによるTCC最高新人賞(2008)、ゆきのまち幻想文学賞(2010)などを受賞。セルフ祭顧問として、大阪・新世界市場にてセルフ祭を開催、2013年には「文の里商店街ポスター展」を仕掛け、やってみなはれ佐治敬三賞などいくつかの賞を受賞。その傍ら、大学生の頃から始めた写真を続けること18年、写真ブログ『隙ある風景』を続けること6年。2013年より、写真家&編集者の都築響一氏が編集する有料のメルマガ「ROADSIDERS’ weekly」にて連載を開始。その他、小説を書くなどの執筆活動もおこなっている。

※ 約11,000字

くすぶっていた思い ~広告と表現のはざまで~

「“旅に出ると人は赤子になる”と誰かが言っていますが、自分が旅をしてみてまさしくそうだと感じたんです。言葉が一切わからないところに行けば、周りの風景や起こっていることすべてに集中しなければならない。それがすごく新鮮だったし、そんな状況で写真を撮っていることがこのうえなく幸せだったんです」

日下が念願だった長旅を実現させたのは、2000年5月のことだ。

思えば、20歳の時に読んだ小説家ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』にいざなわれてから、アルバイトや金銭面などの事情で持ち越されること約2年。機は熟したとばかりに、はやる気持ちで日本を後にしたのは電通の内定を獲得した直後のことだった。

チベット、カシミール、アフガニスタン…。ユーラシア大陸陸路横断の旅をしたのは、期間にして約10か月。そのさなかにはロシアでスパイ容疑をかけられ逮捕されるという“事件”にも遭遇した。

社会人になるまでの猶予期間をフル活用した日下は、入社式を間近に控えた01年3月に帰国。翌4月から本社のある東京にて始まった社会人生活は、「まるっきり違う世界への適応」から幕を開けた。
「内戦中のアフガニスタンのように、モノとかは何にもない世界から一転、モノがあり余って仕方のない、資本主義をど真ん中で動かしているような会社で働き始めたわけです。それ故きつい思いをした入社当初は、けっこううつっぽくなっていたんじゃないかな。周囲との温度差を感じたり、働くことに気負いすぎたりしていたことも原因としてあるでしょう。とにかく適応していくのが大変だったんです」

そもそも日下にとって、サラリーマンになること自体、想定外だった。

元々「世の中に出たくないみたいな」思いがあり、とりあえず大学院への進学を希望していた日下だったが、院試での失敗を機に、急きょ就職へと軌道修正を図る。時は大学3年の3月頃。企業研究や就職セミナーへの参加といった前段をすっ飛ばした日下は、遅まきながら就活を始めた。

飛び抜けた存在ではなかったが、もともとおもしろいことや変わったことを考えたり、やったりするのは好き。大学に入学した年には友人と(写真や絵画、詩などの表現をおこなう)アートサークル「WONDER WALL」を結成し、3年の時には代表に就任。海外で撮った写真を集めて個展を開いたこともある。そんな過去に由来する「ものづくりをしてお金をもらえる仕事にたずさわりたい」という発想を軸に考えていくと、志望先は広告代理店やマスコミ、出版社などに自ずと絞られていった。採用され、コピーライターとして今日まで勤めている電通の面接でも「クリエイティブ局以外興味がない」と話したという。
「写真を生業とするカメラマンの道も頭には浮かんでいました。ただ、写真を始めたのは大学からと経験も浅い自分には敷居が高そうやと。加えて、自身の臆病さにも由来する食っていけんのかという不安もあったので、思い切った一歩は踏み出せなかったんです」

社会人1年目は慣れるために、無我夢中で仕事をこなした。新人として稀なことに、その中で作った広告は朝日新聞広告賞を受賞。日下は少し慣れてきた2年目にも同賞を受賞している。
「2年連続の受賞は、自分で言うのも何ですけど、すごいことだったんです。コピーライターとしてやっていけるという自信も芽生えました。ただ、賞を取ったからと言って、おもしろい仕事が入ってくるというわけでもなく…。

それ以降も手がける仕事はチラシ制作みたいなことばかりでおもしろくない。おまけに、広告を作るにしても色んな制約があったりと自由に作れるわけじゃない。だから、ものづくりをしているという感覚はありませんでした。

そんな状態が続いたので、仕事に慣れてきた3年目から5年目くらいまではけっこう腐ってましたね。旅に出たくて出たくて仕方なかったし、鬱積した表現への欲求を写真で晴らしていましたから」

転機は社会人7年目となる07年。2年という期限付きでの東京本社への異動が決まった時のことだ。
「一念発起、気合いを入れて仕事に取り組もうと決めてがんばったんです」

結果、08年、制作したラジオCMにより、日下はコピーライター若手NO.1を決めるTCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞部門において「最高新人賞」を受賞した。

コピーライター界に限り、「TCC新人賞をとってようやく、コピーライターとして一人前」という表立って語られはしない“共通認識”が存在するという。TCCへの入会資格を得られる新人賞を与えられるのは、毎年30名ほど。運に左右される部分もあるが、2、3年目に受賞するコピーライターがいれば、40歳になっても受賞できないコピーライターもいる。
「新人賞はいわば“免罪符”みたいな存在なので、受賞するまでは焦りや歯がゆさを味わう時期が続いていました。だから、受賞後はうれしい気持ちより、ほっとしたという気持ちの方が勝っていましたよね。8年目にしてようやく取れたというのが実感でしたから。

僕にとって広告に関する賞は、基本的に「いい仕事をつかむための手段」なんですけど、「安心材料」としての役割も大きいかなと。カンヌ国際広告祭の審査員の一人が「精神安定剤」と言っていましたが、確かな視点からの評価を受け、「自分がおもしろい」という自信を得られると、リラックスして次の仕事に臨めるのでいい結果を残しやすくなる。一方で、賞を取っていないと、力むがゆえにいい結果が残せないこともある。自身の場合も、(賞を取ったことにより)周りの環境はあまり変わらなかったけれど、仕事に向かう心の姿勢としては変わったかなとは思いますね」

だが、「最高」というおまけの付いた新人賞は“免罪符”や“精神安定剤”にとどまらなかった。
「それをきっかけに、さらにがんばろうという意欲が湧いてきたんです。以降、おもしろい仕事もくるようになり、ちょっとスターへの階段が見えたかなという感じにもなっていました。東京に来るまではずっと辞めたいという思いを抱えていただけに、ほんまに賞をとれてよかったなとは思いますね」

だが、その後しばらくして、「激動」の時代を迎えるとともに、高まっていた意欲は急速にしぼんでいくこととなる。

発端は、自身の病気だった。2010年2月、ネフローゼ症候群なる腎臓病を患い、回復までには2ヶ月間の入院と2年間の自宅療養期間を要した。同じ年の8月には妻との間に第一子が誕生するも、10月には妹を亡くす。そして、とどめは翌年3月に起こった東日本大震災だった。
「(自身は死と直接関係なかったけれど)周りを見ていて、生きている時間っていうのは短いんやな、自分に与えられている時間は限られているんやなと改めて思いました。それで、何かもういいやと。好きなことをしようとなったんです。

それに、震災は都会的なライフスタイルを送る消費社会自体に警鐘を鳴らしたように感じられました。と同時に、消費社会を煽っている広告とも真正面から向き合わざるを得なくなったんですよね」

日下にとって、広告に対する迷いは急浮上してきたものではない。入社当時から胸中でずっとくすぶり続けていたものだった。
「長旅を通してモノがない国がいっぱいあること、モノがなくても幸せそうにしている人もいっぱいいることを知ったのに、いらないモノを売るお手伝いみたいなことをしている自分がいる。たしかに表現することはすごく好きです。ただ、目的がね。広告という資本主義装置を活用してモノを売るのは資本主義のアクセルを踏むことに等しいわけで、そういう行為に対してどこかのめりこめない自分がいたんです。

東京でいったんその迷いを差し置いて頑張って賞をとったことで、ひとまず距離を置くことができていました。でも、自身が病気を患って震災が起こるまでの一連の経験を通して、あ、これはもうあかんわとなったんですよね」

 

広告の可能性を探して

「とはいえ、妻も子供もいるし、会社を辞められるわけもない。できることを何かしよう…。そんな思いがセルフ祭や商店街ポスター展につながっていったんです」

商店街ポスター展とは、電通の若手クリエイターの有志たちがボランディアで制作したポスターを商店街のアーケードの中に展示するというイベントだ。

第一回は2012年11月より新世界市場で、第二回は翌13年8月より文の里商店街(ともに大阪)で開催。第二回は日本の大手メディアのみならず、台湾のメディアからも取り上げられた。

一連の活動が評価され、日下は「やってみなはれ佐治敬三賞」を受賞。受賞理由は、「広告は、単に物を売るためだけのものではなく、人を幸せにする力や感動や共感を呼ぶ力を持っていることを身をもって体現した。メディアが多様化して次々に新しいことに目が向いていくが、一連のポスターや看板が、広告の原点を見せて、多くの感動を呼んだ」から。その他、複数の賞もとった。

日下にとっては、予想だにしない展開だった。

事の発端は、2012年5月に新世界市場で行われたセルフ祭に遡る。

セルフ祭とは、絵描きのコタケマンが中心となり企画したイベントである。目的は街おこし。かつて繁盛した時代はあったものの、今や半分ほどの店が閉まったシャッター街と化している当商店街を盛り上げるためだった。コンセプトは、「誰でも参加オッケー、何でもありの21世紀型の奇祭!」。スローガンは「己を祭れ」。その名のごとく、幅広い世代の参加者が各々の表現を通じて、祭りを自分たちで作りあげていくというものだ。昨年9月には、第8回セルフ祭が開催。第一回は参加者だった日下は、第二回よりメインメンバーとして関わっている。
「第一回はたくさんのお客さんが来てくれて、メディアにも取り上げられたんですけど、イベント後はもとのさびしい商店街に戻ってしまったんです。商店の売上げも伸びていないし、店主との交流もない。周囲からは「若者が騒いだだけ」という捉え方をされている。だから、一過性のものではなく何か残るものを作らなくては…と考えていたんです」

当時、会社で人材教育を担当していた日下は、若手と接する中であることを感じていた。
「実は、広告制作者ってすごくスキルがあるんですよ。制作過程で色んな人の話を聞くし、アイデアの質や量、スピードも高いレベルで求められる。ただ、最終的にはクライアントの意向がすべてであり、いい案が全く採用されていないという実状がある。それ故か(関西支社の)若手には元気がない。チャンスのある仕事も少ないし、なんかぼわーんと閉塞感が漂っている…。そうやって鍛えられた力や溜まりにたまった表現への欲求を生かせる場所はないものかと考えていたんです」

そんな折、ピンと来る案が浮かんだ。若手の研修の一環として、かつ「街おこし」を目的として商店街ポスターを制作しよう。日下のなかで「街おこし」と「広告」とがうまく結びついた瞬間だった。
「仕事だからちゃんとやるとはいえ、正直広告に興味はあんまりないわけです。(笑)ただ、どうせやるんだったら、世の中のためになったらええなとは思っていたんですよね」

研修は自主参加で、制作もボランティア。だが、日下が呼びかけると、あっという間に30名ほどの若手クリエイターたちが集まった。

実行するにあたり、日下はいくつかのルールを設けた。
「お店のためになるものは前提としたうえで、「作り手のためになるものを」と自由にものを作れる環境を整えたかったんです」

まずは、ポスターの制作をこちら側に一任してもらうよう、商店街関係者からの承諾を得た。若手たちには「クライアントの意向にまるっきり沿わせなくていい。(クライアントへの)プレゼンも一切なし。基本的には何をやってもいい。下ネタでもいい」と伝えた。制作過程のすべてを自分の手で行うこともルールとして設定した。
「いざやってみると、感動的でね~。「店続けてきてよかった」「もったいなくて貼られへん」「家宝にするわ」と店主の人たちがすごく喜んでくれはったんです」

その後、思わぬことに、店主の方から「(ポスターを)残してくれ」という声がでた。通りすがりに写真を撮る人も増え、雑誌などでも取り上げられた。その評判を受け、商店街関係者から「空き店舗を活用してポスター展を開かないか」との提案があったのだ。

ポスター展後、クリエイターたちは商店街の店主などから「あんたら、職人やなー」という言葉を何度かかけられた。
「それで、あ、自分たちは言葉のプロなんやなと改めて気づかされたんです。だったら、コピーライターとしては言葉で社会に貢献するのがええんかなと。

企業にクリエイティブが偏りすぎている今、そういうのに飢えている地方には届いていません。要するに、クリエイティブの需要と供給がマッチしてないと思うんです。

それに、制作過程で企画を通したりするところにあまりにもエネルギーを消費しすぎているが故に、どれだけのコピーが日の目を見ることなく屍になっていることか。それらを、地方に回したりして成仏させてあげないと。

本来、言葉(コピー)の力が社会の中に入り込む隙間はもっとあるはず。だから、そういう力を違う分野で発揮していって、世の中を変えていきたいみたいな思いはすごくありますね」