ライフストーリー

公開日 2015.2.20

Story

「生きている限り、何かを追求しつづけていたいんです」

自由業 米倉 隼志さん

道を拓いて

米倉が実家にいる両親と小さな事業「うぃんうぃんとらべる」を立ち上げたのは、2013年12月、デンマークへと発ったのとほぼ同時期のことだ。親戚から譲り受けた最大8名就寝可能なキャンピングカーを旅行者にレンタカーとして貸し出す、いわゆるレンタカー事業がその内容。キャンピングカーという特徴を生かし、車内泊生活を送りながら自由気ままに旅を進められるのが売りである。提案するは、“あいのり”の旅だ。
「旅行好きが寄り集まって利用するのもいいし、目的地が同じ小さなグループの旅行者同士が掲示板などで交流して予定を決めて利用するのもいい。何せ、九州という土地特有の自然を舞台にした旅を通じての“出逢い”や“共有”することのおもしろさを知ってほしいんです」

むろん家族や友人など元々顔見知りのグループによるレンタルも可能だが、「見知らぬ人どうしで…」という思惑には米倉の“私的な願望”が込められている。
「初対面の人とあいのりするのであっても、性別や年齢を問わず一生付き合える友達ができるかもしれないし、もちろん旅の途中に恋愛があってもいい。実際、初対面同士でも何でもうちとけて話せたりするような特殊な力を‘旅’は持っていると思いますから」

もう一つの狙いとしては、地方の人間と都会の人間の交流がある。たとえば、鹿児島の大学生と東京の社会人が乗り合わせて旅をする、大阪の大学生と鹿児島の社会人が乗り合わせて旅をする。その中で生まれるものは両者にとっておもしろいエネルギーになるんじゃないかと米倉は期待する。開催を予定している“鹿児島-北海道日本縦断乗合キャンピングカーの旅”の背景には、そんな思いがある。
「たぶん僕はいわゆる“成熟した社会”になじめない性質なんです。だから、(やれるかやれないかは別にして)どちらかというと田舎で仕事を生み出す方におもしろさを感じます。実際、「うぃんうぃんとらべる」は小さな事業だけど、計画から実行に至るまですべて自分でやることがすごくおもしろい。やっぱり、雇われて仕事をするよりは、自分でやりたいことを意識して、実現させようとアクションを起こしていく方が断然ワクワクするんです」

鹿児島県の離島・甑島こしきじまにギャラリーを作った米倉の祖父は、地元の新聞やテレビで紹介されることもある。そんな祖父を筆頭に、従兄弟には同島で豆腐屋を起業した者もいれば、東京の美大と連携して「甑アートプロジェクト」を立ち上げた者がいる。さらには、以前青年海外協力隊として生活していたカンボジアに柔道場を立ち上げ、現在は同県の宝島で福祉改革を一手に担っている兄もいる。
「社会から認められることをしている家族親戚の活動には日頃から触発されています。ことあるごとに自分もがんばらなきゃなと思わされます。僕はまだ何もしていないけれど、いずれ社会に対して何らかのアウトプットはしていきたいなと。だから今後の仕事として、地域や社会に貢献できる要素がないものは選ばないかな」

現に「うぃんうぃんとらべる」でも、地元九州の良いところをたくさんの人に知ってもらうきっかけになればとの思いもある。通訳案内師の資格取得を目指して勉強中なのは、ゆくゆくは日本国外からも旅行客を呼び込みたいと考えているからだ。

振り返れば、大都会東京から一転、ローカル色の強い西オーストラリアへと足を向かわせたのも、“成熟した社会”になじめない性質によるものでもあったのかもしれない。そもそも、米倉にとって「最低限の英語を仕事を通じて独学で学ぶこと」がオーストラリア生活での第一の目的だった。フィジーの語学学校でも、「英語を学ぶというよりは自力で語学を伸ばすための方法を考えに行くような感覚」での学びを心がけていた。遠く遡れば、鹿児島県霧島市にて小学校4年の1年間、山村留学を経験したことも自身の人間形成に大きく関わっているという自覚もある。ともあれ、独立独歩の精神は子供の頃から旺盛だった。

そして、その独立独歩の精神を支えているのは強い自我である。“私”にこだわる米倉の姿勢は、うぃんうぃんとらべるの企画に込めた“私的な願望”にも息づいている。
「ただレンタカーとして貸し出すだけじゃなんか物足りない、自分じゃなくてもできると思ってしまったんです」

もとより、あまのじゃくな人間だった。誰かにやれと言われたらまずやらない。やるなと言われたらやる。そんな自身の性格を欠点と捉え、直そうとしていた時期もある。だが、いつしか、どうせ直せないなら生かした方がいいと考えるようになっていた。

高校生だった16歳の頃にヒッチハイクでの国内の旅を始めたのも、そういう性格に由来するものでもあった。通っていたのは、生徒のほとんどが大学に進学する県内有数の進学校。だが米倉は、図書館に通って本を読んだり、バンド仲間と音楽活動をしたりするなど、受験とは距離を置いた生活を送っていた。
「違和感を感じていたんですよね、受験勉強に対して。家族も親戚も教師も、みんな口をそろえて「大学に行くのが一番いい選択だ」って言う。でも僕は、15~18歳という色々触れたい多感な年頃の貴重な時間を受験勉強に費やしたくないって思ってた。当時は、「受験勉強をして大学に入って有名企業に就職して…」という教師がすすめる“最良の人生”の価値をまったく理解できなかったんです。

もちろんその先に夢や目標がある人はいい、それらを達成する過程としての受験をすればいいと思います。でも、目標が定まっていない若い世代に対して「とりあえず大学に入っておけばいい」という助言はあまりにも無責任だなとも思うんです」

米倉に「美容師」という目標を描かせたのは、ヒッチハイクを通じての出逢いだった。人生で初めて経験する、学歴を最重要視せずに生きている人たちとの出逢いは、視野に広がりをもたらした。自身の行く手が一方向にだけひらかれているわけではないという気づきは、米倉の中にある考えを根付かせていく。

《詰め込み式の勉強が得意で、テストの成績はそれほど悪くない。そして、家と塾と学校くらいに行動範囲が限られている。仮にそういう子がいたとして、その子が「勉強して、いい大学に入るのがいいんだ」と思うようになる環境は、たいてい周りが作り上げてしまう。

でも本来は、中学生だろうが高校生だろうが、誰とでも自由に話せる環境や言いたいことを言えたり訊きたいことを訊ける場所を持つべきなんじゃないか。学校や塾の先生、親だけじゃなくて、違った視点で生きている人間も若い世代と積極的に関わっていった方が、日本の未来はおもしろくなるんじゃないか。それがいい方にはたらくのか、悪い方にはたらくのかはわからない。でも、少なくとも、若い世代の進路選択の幅が広がって、個々にとって人生はおもしろいものになるんじゃないか……》

そうした考えは、やがて「美容師」という明確なゴールを浮かび上がらせていく。米倉にとって美容師は、「他のどんな職業よりも、自由に色んな人にアクセスできそうな職業」だったのだ。
「もし美容師になれば、学歴社会の外に身を置きながら一般人や学生と関われて、将来本気でやりたいコトや夢などを話せる機会が生まれるんじゃないか。基本的には誰でも髪を切りに行くわけだから、美容室という場で多少なりとも人の人生に関わることができるだろう……。そんな思いが真っ先にあったんです」

ヒッチハイクで出逢った人たちの中に「これからの時代は手に職を持った方がいいよ」と言う人が多かったこともある。髪を切りに行った地元の美容院で目にした腕一本で生きる美容師が、純粋にカッコいいなと感じたこともある。

とはいえ、生来のあまのじゃくは健在だった。「(高校には)美容師になった生徒は10年前に1人いただけ」という教師の言葉に胸が躍ったこともまた事実。専門学校入学後も鳴りを潜めぬあまのじゃくは、べつに自分じゃなくても(美容師は)できるじゃんとの思いを早々に呼び起こした。それが写真との出逢いをもたらしたのも確かだが、もし写真の専門学校に行っていたら、また別の世界に興味を持っていた可能性は十分にある。自身、それほど異端でいることを重要視しているつもりはないが、気づくとそういう方向へと足が向いているのだ。思えば、へき地で暮らすアボリジニーのコミュニティに興味を持つようになったのも無関係ではない。新しい仕事を始めるときも、そんな意識は心のどこかに棲んでいる。
「でも、それを続けていくと際限はないから、どこかで線を引かなきゃいけないとも思っています」

それでも美容師の仕事に就いたのは、専門学校の2年間をフイにしたくなかったからだ。髪を切る技術を始めとして、コミュニケーション能力や、社会人としてのマナーなどを身につけようと考えていたというのもある。就職するにあたっては「3年」という目標期間を設定した。

だが美容師として働く中で、胸に渦巻いてくる写真への想いを抑えるのには一苦労だった。写真はまるで空腹時、目の前にぶら下げられているアンパンのように米倉を誘惑した。飛びつくか飛びつかないかはまったくの自分次第。「3年」という目標はしだいに枷のようになり自身を縛ってゆく。結局、米倉を最後までつなぎ止めたのは、自分で決めた約束を破るわけにはいかないというある種の信条だった。

つまるところ、「人とつながること」に魅力を感じる米倉にとって、ハサミは手段でしかなかったのだ。さりとて、たかが手段、されど手段である。旅のさなかには路上で人の髪を切ることもあれば、散髪と宿泊を交換条件にホームステイをさせてもらったこともある。専門学校時代も含めれば5年間手にしつづけたハサミは、今も米倉を支える“武器”となっている。

 

最終地点に向かって

「広くとればアジアなのかもしれないし、狭くとれば南九州であり、鹿児島なのかもしれない。ともあれ、今設定している“地元を盛り上げる”という最終地点はおそらくブレないだろうなと。

かといって、絶対ブレてはいけないとまでは思ってないんです。多少なりとも自分の夢には柔軟にありたいというか、将来のビジョンを100%決めてしまうことで選択肢が狭まるのは避けたいなと。何でも思い通りにいくとは思ってないし、国際社会における日本の立ち位置が今後どうなっていくか、予測はできたとしても断定できる人は絶対にいない。いずれにせよ、英語力や国際社会で通用するようなコミュニケーション能力は、自分の未来、日本の未来に必要かなって思っています」

人生において曖昧な価値を求めれば求めるほど、歩んでいく人生は一本道とはかけ離れてゆくのかもしれない。その人生は果たして遥かなる旅なのか、あるいは終わりなき彷徨なのか。

これまでの28年の人生でも、米倉の夢は時と共に移り変わってきた。

別に美容師じゃなくてもよかったんじゃないか。美容専門学校に入学するやいなや、高校時代に導き出した“最適解”をぐらつかせたのは、自身よりもはるかに熱意を持ってヘアメイクに取り組むクラスメイトたちの姿だった。自身とて、生半可な気持ちでやっているつもりは決してない。だが、美容に対する彼らの思い入れはの深さはケタ違い。僕はこの世界にいらないんじゃないか。敵わぬ存在を前に、そんな思いが胸に湧き上がってくるのも時間の問題だった。

しかし、時を同じくして、移ろった心は写真という拠りどころに身を落ち着けていた。友人をモデルに試したヘアメイクの出来上がりを一眼レフで撮影したりするうち、心は写真へと傾いていったのだ。それまで眼中にまったくなかった存在からの赤丸急上昇はまさしく青天の霹靂。と同時に視界に開けた「写真家」という道は、新たに発見した自身の可能性でもあった。

考え方やモノの見方を含めた自分自身を大きく変えてくれた『DAYS JAPAN』との出逢いもあった。ただし、もともとが「独立独歩」タイプである。受け身に終始することを米倉の自我は許さなかった。

誰かが撮った写真に自分が大きく影響されたように、写真を通して何かを伝えられる側の人間になれば、世界の誰かが自身の写真を見て何かしらのメッセージを受け取ってくれるかもしれない。美容師を目指した理由とも重なるところはあった。でも、写真なら美容室という限られた空間を飛び越えて、世界中にメッセージを届けることができるかもしれない。「一枚の写真が国家を動かすこともある」という『DAYS JAPAN』のキャッチコピーにも心が動いた。写真を通して、自身の可能性はどこまで広がってゆくのだろう。未来への希望に膨らんだ心を胸に、米倉は写真を通して社会と関わることに運命的なものを感じていた。

現に、これまで色んなことに手を出してきた米倉だが、写真はその中でも特別な存在であるらしい。
「自分が切り取った写真には、国内外問わず今まで自分が体験してきたもの、自分の目で見て肌で感じ取ってきた光、人との出会い、ぶつかった文化の壁…といった自身のすべてが自然と映り込んでいくものだと僕は思っています。写真に自分自身の人生の一部が投影されるというか、自分の好きなことを深めていくというプロセスが軸となって、それがそのまま伝える原動力に直結する魅力があるというか…。それが、表現手段として写真を選んだ理由なのかも。だから、何も考えたり感じたりすることなく、やみくもに撮り続けていても自分なりのいい写真はたぶん撮れない気がするんです。

そう考えると、英語や日本を知ること、人と関わっていくこと、美容師としてのコミニュケーション能力…と結局すべて必要になってくるなと。「人間力」って仕事だけで測れるものじゃないと思いますしね。だから僕は、これからも人と出逢いつづけるし、旅もつづけるし、様々な経験もしつづけていたいんです。今後僕が撮り続ける写真のためにも、そして僕自身の人生のためにも」

これまで、“移り気”な米倉を見かねた周りから「色んなことに手を出していないで、一つのことをまっとうすれば?」と指摘されたことは一度や二度ではない。
「自分の生き方は自分が認めてもらいたい人に認めてもらえればいい、というふうに開き直ってやっていかないと自分の信念なんて持ち続けられない。実際、僕の目にとても魅力的に映るのは、向上心と信念を胸に何かしらの変化を求めながら、常に目を輝かせながら生きている人。だから、僕もそうありたいなって思うんです」

米倉の人生は今、海外生活5年目、フリーになって6年目を迎えている。転身後は、オーストラリアでの半自給自足生活、デンマークでのもの作り生活、キャンピングカーのレンタル業と「自分にとって必要だと思うことを存分にやる」生活を満喫してきた。目指すは、自分の好きなことを仕事にし、地域や社会に貢献していくことだ。
「自分がやりたくてやっていることが他人のためになっているという状況が成立していれば、自分勝手には受けとられないし、周りも協力してくれると思うんです。そういう意味では、誰かのためにって考えながら自分勝手に生きるのはそれほど悪いことじゃないなと。何より自分が好きなことをやれるのって楽しいですしね。その中で、自分との関わりを通して誰かの人生を180度変えることはできなくとも、誰かが1、2度くらい広がった視野を持って物事を見れるようになればいいかなと思っています」

海外を巡る旅にやがて終わりが来ようとも、人生の模索の旅に終わりはない。
「歳をとればとるほど退屈になっていく人生を、できれば僕は選びたくない。正直、世の中には愚痴ばかり言って過ごしている大人が多すぎる。志半ばで諦める人がいる一方で、生きている限り何かを追求しつづける人もいる。僕は後者でありたいし、そうしていれば忙しく楽しく生きられるなと。実際、知識欲や経験欲らしきものが強くて、何でもかんでも一度やってみたいという欲張りな自分がいる。もちろん苦労はたくさんあるだろうけど、“生きてるだけで丸儲け”的な感覚で苦労を楽しみつつ、人とお互いに影響を与え合いながら生きていきたいですね」

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