ライフストーリー

公開日 2015.2.3

Story

「さしあたって、モータースポーツ以上におもしろいものはないと思っています」

(株) ぴぃたぁぱん 代表 山下 正浩さん

Profile

1956年生。京都府出身、在住。18歳で車の免許を取得後、兄から車を譲り受けるやいなや、車の虜になり、大学時代は峠道などでラリー三昧。卒業後も趣味として車を楽しむため、フリーター生活に突入。マイカートに乗り換えたのは79年、23歳の冬。以後、全日本選手権優勝を目指して、自宅近くのコースにて練習に励む。その延長線上で80年5月にぴぃたぁぱんを創業、82年10月に株式会社化。95年より、4歳以上の子供を対象にキッズカートスクールを開催。マイナースポーツであるカートの裾野を広げることが当面の目標。

※ 約10,000字

趣味の延長で

「あの頃は、先のことなんてまったく考えていませんでした。私にとってはただ好きでおもしろいからやる趣味であり、プロレーサーを目指すことも、いずれは仕事にするということも頭になかったんです」

現在、株式会社・ぴぃたぁぱんの代表を務める山下(58)がマイカートを購入し、趣味でレーシングカートを始めたのは今から36年前、23歳の時だ。当時、山下は半年ほど前に大学を卒業したばかり。大学2年の時に店長になったコンビニを始めとして、アルバイトを掛け持ちしながらレースに要する費用を稼ぐフリーターの身だった。

兄の影響もあり、小さい頃から単純に車が好きだった山下は、18歳で自動車免許を取得。兄から譲り受けたカローラレビンに乗り始めるとすぐに車の虜になり、当時隆盛だった暴走族とは似て非なる「走り屋」となった。

走り屋としてのフィールドは、もっぱら奈良や和歌山などの山中のダート(未舗装道路)。ヒルクライムのコースとして設定した峠道の上下に人員を配置して道を封鎖し、一般車が来れば「工事中」と伝える。雪が積もった時には、ナンバーのないポンコツ車で乗りつけ、スノータイヤに履き替えさんざん雪道を走ったあげく、そのまま谷に乗り捨てて帰ったこともある。
「今では考えられませんけど、そういう遊びをしても何となく許される「寛容な時代」やったように思います。現にそれでしょっぴかれたことはないし、悪いことをしているという意識もまったくありませんでした」

ラリーでは車を壊したり、谷に落ちたりと危ない目にも遭うこともしょっちゅう。「そろそろ潮時かな」と思うようになった山下の目に偶然飛び込んできたのが、少年マガジンに掲載されていたYAMAHAのゴーカートの広告だった。

かねてよりF1レースが好きで、アイルトン・セナのファンだった山下は「あ!これや!!」と直感。近所の店を探し回るうち、バイク屋でそのカートを発見。奇しくも、カート用のコースが自宅近くに出来たばかりの折だった。

一緒に趣味を楽しむ仲間として車好きの先輩を引き入れた山下は、翌日、30万弱のカートを24回払いのローンを組んで購入。「勢いだけ」で、カローラレビンからマイカートに乗り換えた。

普通車に比べればコストがはるかに安く済み、人と競い合えて、全日本選手権優勝のように目標地点も設定しやすい遊びとの出逢いは、山下ののめり込みっぷりを増長させた。就職や就活とは一切無縁、店長まで務めたコンビニからの「社員にならないか」という誘いを断り、フリーターでありつづけたのは「好きな時に仕事を休めるようにする」ため。たとえば、全日本選手権に参加し遠征するとなれば、開催日の日曜日に向けて木曜日頃からの準備(現地練習など)が必要とされたのだ。山下の生活はいつも「レーシングカート」を中心に回っていた。
「F1が大好きな子がプロレーサーを目指して4歳からカートを始める、みたいな道筋ができている今とは違い、私らは18歳になって免許をとってからプロを目指す感じでした。競技人口も今より少なかったし、時代背景も反映されているのか、その時が楽しければいいというような感覚を持った人は多かったんです。やっぱり、どんなスポーツでもそうだと思いますけど、遠くにゴールが見えているか否かでは、全然違ってきますよね。

そうはいっても、本気で取り組んでたんです。私も含めて20代の人がけっこう多かったんですけど、借金してでも、飯を食わなくとも、全日本選手権に出るような人ばかりでしたから」

山下が「これまでの人生で一番稼いでいたんじゃないか(笑)」と振り返るフリーター時代、日曜日を除いた週6日、フルタイムのアルバイトで稼ぎ出していた額は月30万程度。エンゲル係数ならぬカート係数は、ほぼ100%。レースに参加し勝利を目指すとなれば、稼いだ金はたちまち諸経費に消えていく。マシンを壊すケースも考えると、いくら金があっても足りない状態だった。

実際、1台目のカートは早々に壊れたため、2台目を購入すると同時に新たなローンの支払いが加算された。結局、1台目のローン支払いが完了する2年間のうちに壊したカートは5台。月々の支払いは累積していくばかりだった。

これではいくらシフトを増やしたり、バイトを掛け持ちしたりしても支払いが追いつかない…。そんな状況を危惧した山下は「自分でショップを開いた方が安くカート用品が手に入るし、趣味の延長で仕事ができる」との発想を実行に移す。80年5月。「カート及びカート関連用品の輸入卸販売及び小売」を主な事業とするぴぃたぁぱんを創業した。なお、「ぴぃたぁぱん」と名付けたのは、「夢のある感じにしたかった」から。名称にひらがなを用いるという当時の流行も取り入れた。

82年10月にはぴぃたぁぱんを株式会社に組織変更。創業時より手がけていたレーシングカートの販売・修理や、全日本カート選手権等のレース活動に本腰を入れ始めた。また、10歳以上の子どもを対象にスクールを開くようにもなった。

未曾有のバイクブームが訪れていた84年には、オートバイ事業に着手。店舗にてバイクの販売を行う傍ら、レーシングカートの姉妹事業のような形で、チームぴぃたぁぱんを結成し、鈴鹿サーキットでの4耐等にも積極的に参加。ミニバイクレースの運営、ポケバイの販売なども手がけるようになった。

 

「子ども」の可能性

それから10年後の95年。87年から93年にかけて訪れた空前のF1ブームという「時代の波」の影響を肌で感じていた山下は、新たな切り札を求めて「キッズカート」事業の新規開拓に取りかかった。

当時国内で唯一レーシングカートを生産していたYAMAHAに話を持ちかけ、仕入れルートを確保。キッズカートの販売とキッズカートスクールの全国展開を同時並行で進めていった。

05年には、「採算が取れない」とYAMAHAが撤退を表明。一切の権利を譲り受けたぴぃたぁぱんは、中国は天津にある工場にて、自社製品となるキッズカート「アミゴン」の製作、日本での販売を開始した。

注力し始めてから約20年。現在ではすっかりぴぃたぁぱんの柱となったキッズカート関連事業。その進展を生み出す契機となったのは、対象年齢を「10歳から」より「4歳から」へと一気に引き下げたことだった。
「キッズカートでも、最高60~70km/hくらいは出ます。普通に考えて危ないし、4、5歳くらいの子供向けにやっているところも他では聞いたことがない。だから、最初は及び腰になっていたんです」

ところが、全国のスーパーや住宅展示場にて随時開催していた試乗会にてその年齢層の子供らが乗る様子を見るにつけ、気持ちが変わってゆく。
「私らの想像以上に、彼らの順応性が高かったんです。それでコースで走らせるようになったら乗りこなすし、レースのルールを教えたら、大人以上にすごいレースをしよる。本格的に取り組むようになったのは、そこからですね。

それにしても、彼らの順応性はすごいですよ。彼らはまだ人間というよりも、動物。文字通り、“身につく”というんでしょうか。頭で考えるよりも、体の反応の方が早いんです。

たとえば、コーナリング時に「横Gの値をもとにハンドルの切り具合を割り出す」ことを、体にセンサーがついているかのごとく瞬時に対応するわけです。雨が降っている場合、大人なら「雨が降ったら滑るやろな」と想定して走るじゃないですか。かたや彼らは晴れの時と同じ感覚で走るから、何回もスピンして「なんで?」って訊いてくる。でも、回数を重ねるうちに感覚でつかむのか、晴れの時とさして変わらないスピードで走っても曲がれるようになっていくんですよ。

さらにはアウト(外側)からでも平気で抜いていく。「コーナーで抜くのはイン(内側)から」というセオリーを簡単に打ち破ってしまうんです。そんな風に、大人のように頭で決めつけているものがない状態でやるので、びっくりするようなパフォーマンスを発揮するし、こちらも色々気づかされますよね。

そんな彼らの感覚は大事にしたいなと思っているので、大人からの押しつけは極力しないようにしています。自由にやらせないと個性は出ないし、彼らとしても楽しくないでしょうから。

とはいえ、スピードは出るし、怪我もするから、危ないことに変わりはないんです。でもその分、きっと他のスポーツをする時よりも高い集中力が求められるのでしょう。実際、遊びモードからレースモードに入ると、彼らの顔つきは一瞬にして変わりますから。そういうのも、すごいなと思うところですね」

遊びの要素が強く、暴走族などに結びつけてイメージされることもあるモータースポーツだが、その名の通り、れっきとしたスポーツである。
「上を目指して本気でやってる子は勝ちにこだわらないといけないけれど、それ以外の多くはみんなで楽しくやって勝つことを目指しています。

今、学校って序列をつけないじゃないですか。運動会の徒競走で順位をつけなければ、成績表も5段階評価ではなく、「よくできました」「できました」みたいなわけのわからん指標が使われている。

一方、カートやポケバイはそういうのとは無縁の世界です。基準は、ただ速いかどうかだけの完全な実力社会。年齢も関係ないから、速い子に対してはたとえ年下であっても尊敬したりするんです。一方、速い子は年上に対してもタメ口になったりと、態度もデカくなる。(笑)そのへんはやっぱり子供っぽいんですけど、それがまたおもしろいところ。レースと遊びの区別がはっきりしてて、遊びとなったらみんな一緒というのもおもしろいですよね」

子供に魅力を感じる理由は、他にもある。
「たとえば、20歳からカートを始めた人の伸びしろは大体読めるんですよ。一方で、子供だとそれがわからない。始めてからすぐに慣れる子、なかなか慣れない子がいたりと、才能やセンスの有無はある程度わかるとしても、成長してどのレベルにまでいけるかは未知数なんです。それに、長くやっているといずれやってくるブレイクスルーも、いつ訪れるかはわからない。それがまた、おもしろいところですよね」

山下はブレイクスルーを生み出す重要な要素として「負けず嫌い」を挙げる。
「私らには考えられませんけど、(彼らは)練習の時でさえ負けたら泣いてますから。レース後に喜んでいるのは1位の子だけ。2位以下の子らは、ヘルメットで顔を隠すようにして悔し泣きしてるんです」

カートレースにおいても、F1になぞらえて、勝利者にはシャンパンファイト(厳密にはシャンメリーファイト)の開催やトロフィーの授与といった“成功報酬”が用意されている。
「小さい成功体験の積み重ねで、自信も作り上げられてきますから」

スクールには、引きこもりや多動性などの理由で、学校社会にはなじめずに「問題児」とされる子供が、苦心した親に連れて来られることも少なくはないという。実際、山下はかつて、立て続けに「問題児」が来ていた時期には、「戸塚ヨットスクール」のカート版をやろうかと考えていたこともある。

つい最近でも、来はじめた頃はその片鱗を覗かせていた子供が、車にのめりこみ、練習でも高い集中力を発揮するうちに、レースで勝利。その日を境に人が変わったかのように落ち着いたことを受け、彼の親は感に堪えない様子で喜びを報告してきたという。
「そういうケースって、それ以前にもけっこうあったんです。好きなことをやっていて集中と自信を得られたら、子供は一気に変わりますよ。レースで勝ってみんなに祝福されるという経験もなかなかできないでしょうしね」