ライフストーリー

公開日 2015.2.3

Story

「さしあたって、モータースポーツ以上におもしろいものはないと思っています」

(株) ぴぃたぁぱん 代表 山下 正浩さん

“ぴぃたぁぱん”の思い

キッズカートとポケバイのレーシングスクールに、大会の運営。山下には、ここ10年来力を入れているそれらの事業活動を通して目指していることがある。
「いつの時代もレースをやる人はいて、そのうちの何人かは本気でやっている人もいる。その人らはそれでいいけど、もうちょっと裾野を広げるというか、楽しみとしてやる人を増やしたいなと」

これまでぴぃたぁぱんが紡いできた35年近い歴史の中で、カートを通して関わりが生まれた「男の子」は「お父さん」になり、「お父さん」は「おじいちゃん」になった。
「子供の頃に来てた人が父親になって子供を連れてくる。あるいは、趣味でカートをやっていた人が、おじいちゃんになって孫の応援をするために顔を見せる。そんなふうに、「親子三世代、二世代にわたってカートを楽しむ」という流れができています。実際、両親や祖父母がわが子(孫)を応援している様子は、微笑ましくて運動会を彷彿とさせるんです」

ぴぃたぁぱんは、以下のような経営理念を掲げている。
「お父さんがメカニック、お母さんがマネージャー、おじいちゃん、おばあちゃんがサポーター、そしてお子様がライダーとしてチームを組み、家族全員で同じ目標に向かいながら親子の絆を一層深めてもらう。家族全員が楽しみながら成長できるスポーツとして確立し、多くの人々にその環境を提供できるよう努めます」

日本において未就学児へのレーシングスクールの草分け的存在となり、独自のノウハウを確立させた山下は、スクールを埼玉や名古屋など全国約10ヶ所に展開した。
「やっぱり子供やカートが好きじゃないと、子供らに教えるのはちょっとしんどいかもしれません。

教えるのが好きというのもあるでしょうね。特に子供なんかは顕著ですけど、自分が教えることによって、彼らの技術が向上したりと反応がわりとはっきり現れる。それが楽しいし、その楽しさがあるから今でも続けているのかもしれませんね。

彼らとの関わりは創業時から続いているので、自分ら(私と妻)の子供が世代を超えて、たくさんいる感覚なんです」

最近、かつての“教え子”から「子供ができたので名前をつけてください」という依頼が入った。その他、「結婚するから仲人をしてください」という類の依頼も山下のもとには舞い込んでくる。
「私と妻の間に子供がいない故でもあるのか、みんなを平等に扱いますし、世代を問わず自分らの子供のように接しています。そうすべく心がけていたり、児童心理学を少し勉強したりしたこともあるけど、自然とそうやってるんじゃないかな。やっぱり、彼らに「先生」と呼ばれ、実際にカートのいろはから教える立場にある以上、与える影響は大きいですから。まぁ、常に本気でやってますよ」

だが、子供らが使う「先生」という呼称も、ほどなく「山ちゃん」に変わるのが常だという。
「彼らと頭の中身が一緒なのかもしれません。子供と犬、それからおじぃおばぁは得意です。向こうから寄ってきます。残念ながら、若い姉ちゃんは寄ってこないんですけども(笑)」

かつて、親の教育方針で、中学時代から家を出ていた山下は、高校の頃から親の所有する一軒家で一人暮らしを始めていた。学校が近くにあったわけではないが、友人が泊まりに来ることはしょっちゅう。山下が不在の時にも、たいてい誰かがいるような感じだった。
「人が集まるほうが楽しいし、嬉しい。ご飯を食べるのも、みんなと一緒の方が楽しい。人の面倒を見たりするのも、全然苦になりません。よう考えたら、その頃から生活スタイルは変わっていませんよね(笑)」

以前、ある子供は山下に向かってこう尋ねた。「○○ちゃんのお父さんはお医者さんで、△△ちゃんのお父さんは大工さん。山ちゃんは、昼間何の仕事してるん?」
「彼らは、私が遊んでいると思っているようです。でも、それが私の誇りですわ(笑)」

平日は勤めに出て、土日は山下のサポートに回っている妻は言う。「だから結局、“ぴぃたぁぱん”なんですよ。大人になれないんです」
「名付けた頃はまだそういう使い方をされていなかった時代なんですけど、よう考えたらそうやなと。大人になりきれない大人を地でいってる感じですよね。私が妻に怒られている様子をよく見ている子供らの目には、どうやら妻は私のお母さんに映るみたいですから(笑)」

 

無上の存在

79年、23歳の冬。カートに初めて乗った時の衝撃と興奮を山下は忘れられないという。
「加速時に体ごと後ろへ持って行かれる感覚は、普通の車をいかに改造したところで敵わないほど圧倒的でした。それが、今でも続けている最大の理由でしょうね」

そうしてカート一色に彩られる生活が始まった。
「選手としてレースに出ていた頃、頭にあったのはレースに勝つことだけでしたから」

カートレースは、チームプレーである。勝利に近づくためには、メカニック担当などのピットクルーメンバー数名によるバックアップが欠かせない。山下も、80年にラリーで遊んでいた友人や後輩たち5人ほどでレーシングチーム“ぴぃたぁぱん”を結成していた。

レースで結果を残すためには、マシンの整備も無下にはできない。けれども当時の山下には、マシンの構造に関する知識など皆無だった。おまけに文系で、機械に強いわけでもなかったため、完成品を見本として見よう見まねで造る他はない。だが、そんな困難も勝ちたいという情熱の前では大きな問題にはならなかった。

草レース、地方大会、日本選手権と上に行けばいくほど、当然自身より速い人間は現れてくる。そもそも豊富な資金に支えられた高い技術を持ち合わせたYAMAHA傘下のチームや、車の整備工場を営む父をサポーターに持つチームに比べれば、「ずぶの素人集団」にすぎないチーム“ぴぃたぁぱん”は二歩も三歩も遅れをとっていた。だが、山下の胸に渦巻く負けん気はそんなディスアドバンテージを凌駕してゆく。
「全日本に出るとなると、1000万近い金に時間、そしてみんなからの期待もかかってるわけです。実際、大会の時には、普段一緒に練習している子らが自然とサポート役として手弁当で来てくれていました。だけど、当時は「おれが一番速いんやから当然や」という感じで、あんまり配慮もしてなかったんじゃないかな。チーム“ぴぃたぁぱん”も、実質的には「おれが走るために組まれたチーム」でしたしね。(笑)まぁむちゃくちゃでしたけど、彼らも私の「勝ちたい!」というパワーに巻き込まれていたのかもしれませんね」

マシンの安全対策が今ほど整っていなかったかつては、後続車の前輪が先行車の後輪に接触し、乗り上げてふっ飛んでいくという事故が多発していた。「勝つためには手段を選ばず」と故意に行われていたケースも少なくはない。今よりもはるかに露骨な競争が行われていた当時のレース模様は、さながら格闘技の様相を呈していた。

山下が28歳の頃結婚し、現役時代を知る妻からは、よく「レースの一週間前から顔つきが変わる」と言われていたという。
「レース前は誰も寄せつけないような感じやったと思います。緊張でご飯はあんまり喉を通らなくなるし、目もつり上がってくる。いわゆるアスリートみたいな感じでしたよね」

その熱意には結果もついてきた。現役時代の最高成績は全日本3位。1周のタイムによって決勝レースの出発順位が決まる予選レースでは、ほとんど負け知らず。実力が評価されるようになった終盤には、費用面、道具面などでYAMAHAからのサポートを受けていた時期もある。一度、悪天候の中行われた予選レースでセンセーショナルな走りを見せ、ポールポジション(スタート位置最前列)を獲得した翌週には、何件かエンジンの注文が入った。つまり、選手として好結果を残すことが、会社のPRにもなったのだ。だが、何せ商売で得た利益もほぼすべてレース資金に投入していた頃のこと。注文を受けることすら面倒くさいと感じるほど、山下はレースに一途であり夢中だった。
「会社とか商売とか、関係なかったんです。私の行動はすべて、〈レースで勝つため、レース費用を稼ぐためには何がベストなのか〉という問いから始まっていましたから。ぴぃたぁぱんという会社を作ったのも、突き詰めればそこに行き着きますよね」

だが、越えられない壁もあった。山下がレースに臨むにあたって発揮される極度に高い集中力は、諸刃の剣だった。理性は意識の彼方へと瞬時に追いやられてしまうのか、レース中はいつも頭が真っ白。すぐに周りが見えなくなり、スタート後の記憶がないなんてのは毎度のこと。ふと気づくと、接触事故によりコース外で転がっていたこともある。「自身のレースを大局的に捉え、タイムをコンスタントに出していける冷静さ」の欠如が、チャンピオンへの到達を阻む高い壁となっていた。なお、山下はそういった自身の経験も踏まえ、子供らにはレース後にレポートを書かせるようにしているという。
「そんな風に当時は必死にやっていたけど、今となってはそういうものがあるということは幸せやなと。それはもう、ひどい生活でしたから、嫁はんもようついてきてくれたなとは思います」

30歳頃には、計画通り、台頭してきた自分より速い選手にレーサーの座を譲り、サポート役に回った。と共に、情熱の矛先は「勝つこと」から「勝たせること」へと急旋回。叶えられなかった自分の夢を託すためにもと、スポンサーとして資金援助を行っていた時期もある。
「レーサーはチームを代表する存在なので、きっぱり退きましたし、心残りもなかったですね。メカニック(サポート)に回って以来、気楽に乗れるようになりましたよ」

その情熱や負けん気は、子供にカートのいろはを教える場面でも顔をのぞかせた。レーサーの座をあっさりと明け渡したのも、子供に教えるおもしろさを知るうちに「違う道があるんじゃないか」と思い始めていたからでもある。ただ、当時の方針は「勝たせるためだけ」の体育会系スパルタ指導。どついたり、物を投げつけたりといった「犯罪に近いような(笑)」指導は、ほとばしる情熱と背中合わせにあった。
「当時の私を知る人からすれば、今みたく子供と遊んでいる私の姿なんて想像できないかもしれませんね(笑)」

だが、時は人を変えてゆく。
「最近は笑顔で写っている写真が多いんです。昔はしかめっ面ばっかりやったのに。歳でしょうね」

近頃では「おじいちゃん」と呼ばれるようになった山下だが、50代に入り、内面の大きな変化に立ち会ったこともひとつの転換点となった。
「若い頃は、自分と違うものは許せずに否定ばっかり、お客さん相手でもしょっちゅう喧嘩をしていました。でも、親の顔をうかがう子供らを見たりするうちに「怒ってもええことないなぁ」と気づき、「人はそれぞれ。いいとか悪いじゃない。誰しも精一杯生きてるんや」という感じで人を認められるようになってからは喧嘩をすることがなくなりました。何より、だいぶ気が楽になりましたよね」

カートに魅せられた山下が「趣味の延長」で始めたぴぃたぁぱんは、今年で創業35周年を迎える。
「最近でもたまにカートに乗りますけど、変わらずすごく楽しい。普通の車とは、見える景色もスピード感も全くちがう非日常を味わえますからね。絶対おもしろい遊びやと思いますよ。

振り返れば、自分がレーサーとして必死でやっていた時代、チームの代表をチャンピオンにしようと情熱を燃やしていた時代を経て、子供らに教えたり、より多くの人にカートを広げていく時代へと移り変わってきている。そのおかげで、モチベーションを維持できたり、時代の変化に対応できたりしたことがここまで続けてこれた所以なのかなと。

「継続は力なり」と言えばそうなのかもしれないけれど、気づいたらこれしかやってなかっただけというのが正直なところ。今は基本的に1人で会社をやっていますけど、レースや大会がある土日など、人手が欲しい時に声をかければ、かつて関わった子どもらがたくさん手伝いに来てくれる。しゃーないなぁという感じやとは思いますけどね。(笑)そういう意味では、財産は残らんかったけど、人だけは残ったのかなと」

昨夏には、転機があった。5月に長年のカート仲間が膵臓癌であっけなく亡くなると、翌月には山下自身の体から胃癌が見つかった。手術で癌を切除し、現在は経過観察中の身だが、つつがなく日常生活を送り、仕事もこなしている。その一連の経験は、山下の人生観に小さくはない変化を及ぼした。
「生かされているというか「長生きせぇよ。まだもうちょっと頑張れ」と言われている感じがしたんです。それまで惰性でやっていたところもあったから、ふんどしを締め直すにはいい機会だったのかもしれません。合宿所の機能も果たせるようなキッズカートスクールの施設を作りたいという夢もありますしね。

私も来年の9月で還暦。この先何年できるかわからないけれど、体の続く限り、やろうかなと。(笑)さしあたって、これ以上におもしろいものはないと思っていますから」