ライフストーリー

公開日 2015.1.18

Story

「生きつづけること自体、本能なんです」

長本兄弟商会 代表 長本 光男さん

「相も変わらず、近くの大手スーパーでは同じようなことをしている。なんでおれたちの野菜は売れないんだ!っていつも思ってた。

そもそも、僕らは農家を支援する立場にある八百屋として、農家を含めた自然を背負ってかなくちゃならないって思ってましたから。相手となるのはビクともしない農家や消費者。ヒッピー時代とは違って、普通の人や一般社会と接触しなければならない以上、生まれてくる摩擦と闘っていかなきゃならないし、長く続けない限り、闘いに勝つことはできないだろうと」

八百屋を始めるにあたり、長本は「100年やる」との目標を掲げていた。

「物質文明の下、これだけ色んなものがぶっ壊れている社会を元に戻すためには、とてもじゃないけど10年や20年では無理だろうと。100年どころか、それ以上かかるかもしれない。それくらいかけてようやく、人々に僕らの自然に対する想いが通じていくのだろうと。もし、それまでに途絶えてしまったら人々はまた自然に対して無関心になり、今よりももっとえげつない世の中になっていってしまう……」

情熱や気概は、気負いや攻撃性と背中合わせだった。来店した客がうんざりするほど滔々と思いを語り、夏場、陳列したトマトに手を触れようとした客には――つぶれて傷まないようにするため――「さわんなよ!」と声を尖らせる。いつもピリピリしていた長本は、客から怖がられていた。
「ただモノを買っているだけという感覚で買う人の精神性はあんまりよくないなと。たとえ日常の買い物であっても、緊張感を持つことは大事ですよね。一番の問題は、本能的に生きていない人たちの感覚の鈍さなんです。

だけど、嫌がられたりするうち、人は一人ひとり違うんだということを実感しました。やっぱりまずは、お客さんと自分との意識のギャップを知らなきゃいけない。僕の方が飛んでいれば僕が下がらなくちゃいけないし、僕よりも飛んでいる場合は僕が上がらなくちゃいけない。じゃないと、自立とか商いってできないんです。飛んだ話ばかりだと、誰もついてきませんから。結果的には、野菜の美味しさがそのギャップを埋めてくれましたけどね」

開業5、6年目頃には出版社から声がかかり、『就職しないで生きるには⑤ みんな八百屋になーれ』(1982)を出版。思いのたけをぶつけるも、担当編集者から「ちょっとハードすぎます。もっと肩の力を抜いて書いてください」と指摘されて書き直したといういきさつがある。
「自身としてはそれでも書き足りなかったし、世に出た内容も軽いなと思います。でも、本をきっかけに、老若男女問わず、たくさんの人が来て話をすることができたという意味ではよかったですね」

歳や経験を重ねるにつれて、闘い方は変わっていった。
「最初はストレートでやっつけるしかなかったけど、じんわり効いてくるカーブも徐々に使えるようになっていったんです」

長本らにとって、八百屋は「あまり世の中に媚びないで、かつ自分たちの信条を曲げないでやれる表現」としていい落としどころだった。
「市場では売れない規格外のものも泥つきのままで買っていたりしたから、農家にとっては画期的だったでしょう。

オーガニックって、都会から生まれたんですよ。だから、僕らのやったことは、農家の意識を変えて、かつての日本人にとっては普通だったオーガニック生活に戻すという点で、ある意味ひとつの“革命”だったかなと。その余波として一番嬉しかったのは、「百姓なんてやりたくない」という人が多い時代に、契約農家の息子たちの中から「ナモたちなら一緒にやりたいから、百姓を継ぐよ」という人がけっこう出てきたことでしょうか。

で、その“革命”をやれた一つの大きな要因は、かつての旅や共同生活を通じて蓄積された力が乗ったストレートを投じていたこと。「無農薬」だけじゃ、農家や消費者を説得することは決してできなかったはずですから」

 

排除と集中

世間では、ほびっと村ビルを「カウンターカルチャーの砦」と見る向きもある。
「大学の先生とか学生はそう呼んだりするけど、勝手に言ってくれという感じでした。ふつうのおばさんも野菜を買いに来るわけだから、そういう感じを出したくなかったし、出すべきじゃないとも思ってた」

私たちの八百屋は、特別な運動体として発足したのではなかった。どこの町、どこの村にも、ふつうに見られるような八百屋でありたいと願って作られたのだった(中略)

それが、わたしたちの八百屋に、「長本兄弟商会」という、いささか古めかしい、宮沢賢治の童話にでも出てきそうな名前をつけた理由なのであった」『みんな八百屋になーれ』より

その背景には、“反面教師”との出逢いがある。
「60年代から始まった学生運動も、根底に社会や体制に対する不満のようなものがあるという意味では似ているんだけど、表現方法として政治的な革命を起こすという方には向かいたくなかった。本来、価値観や思想も含めた人間そのものが変わっていかなくちゃいけないのに、政治的なものだと頭だけ変わって中身は変わらないだろうと」

末期になると運動は党派闘争に発展。時には殺人にも至る内ゲバ(暴力を用いた抗争)が頻発していた。
「自分たちの思想に合わないものは簡単に排除する、みたいなスタンスが嫌だったんです」

そこで長本らが考え出したのが「やさしい革命」だった。
「やさしいって、大きく分けると「生やさしい」と「ハードだけど、本当にやさしい」の二つあると思うんですけど、僕らが目指していたのは後者でした。ちょうど宗教を勉強する中で学んだガンジーの非暴力思想の影響もあったでしょうけど、たとえば、決して身体的暴力、言葉の暴力は使わないというようなもの。手を出すのは簡単ですからね」

“反面教師”とは、旅先のアメリカでも出逢っている。

アメリカを選んだ理由の一つは、「現地のコミューンにいる若い連中、そしてとりわけ興味があったインディアンたちは「部族」の形態や魂をどう表現しているのか知りたかったし、見てみたかった」から。「アメリカにけっこう影響されていた」こともある。
「いざ行ってみると、インディアンは黒人以下の扱いを受けているように感じました。居留地のようなところに追いやられ、アルコール漬けにされている感じでした。まぁ、一部には運動を起こしたりする冴えてる人はいましたけどね。

そういう光景や現地の人の声に触れたりするうち、仮に「部族」のような共同体を作るにしても、外部とのコンタクトをとらない限り、僕ら自身が閉鎖的になってしまうし鍛えられないなと。だったら、ふつうの人たちとコンタクトをとれるようなわかりやすいことをやろう、そんな仕事を考えようと思ったんです」
スナック・ほら貝の営業を続けるうち、飲み屋という表現手段に疑問や違和感が膨らんできていたこともある。
「口ではかっこいいことを言っていても、現実的には飲み屋でお客さんと一緒になってワイワイやっている、いわば飲んだくれなんですよ。仲間内には飲みすぎて体を壊している奴もいましたし」

さらには、「来るもの拒まず」をモットーに維持されていたコミューンも、徐々に理想とはかけ離れた存在へと変貌してきていた。
「要は、お好きにどうぞっていうことなんですけど、なかなか難しいですよね。欲望を丸出しにしていいよとは決して言えないわけで。いわば、うまく相手が譲歩できるような関係性を作っていくための訓練でした」

共用の“財布”を用意したのもある種の訓練だった。〈コミューンの住人はみな、自身の所持金や稼いできた金を全てザルに入れなければいけない。けれども、持ち出すときは好きなだけ持ち出していい〉というルールを設けた試みだった。欲を刺激しにくいシステムを構築することで、信頼関係を作りやすくするという目的だったのだ。
「仮にそれで問題なくやっていけるならば、きっと平和で仲良く暮らしている証拠」だとして続けること約4年。だが、主に欧米から来た「飛んだ顔をした」ヒッピー連中や、新宿近辺をうろつくフーテンなどの「わけのわからない」連中がコミューンに入りびたるようになるうち、それまで保たれていた純度は急速に薄まっていった。

「それでも受け入れなくちゃ」と踏ん張っていた長本たちだったが、欧米のヒッピーらにより持ち込まれたドラッグの侵蝕も相まって、コミューンはしだいに瓦解へと向かっていった。終盤になると、自分たちの生活が立ち行かなくなっていた。

八百屋を始めてからも、模索は続いた。
「部族の時も思ってたことだけど、運動体になれば、参加者にこちらのビジョンを押しつけてしまうことになる。そしたら、「あなたたちの考えはわかるけど、ついていけない」という人がたくさん出てくる。つまり、排除を免れなくなるだろうと。実現はできなかったけれど、過去にはわざわざヒッピーまでやって誰でも受け入れようとしていたわけですしね」

遡れば、長本のヒッピー人生は、「破壊」であり「自己否定」とともに幕を開けている。
「自身の生き方の出発点は、「なんでみんなと同じことやらなきゃいけないのか。いいじゃん、おれはおれで」との思いでしたから。だからもし、ヒッピーが当時のマジョリティで、「いい学校に行って、いい会社に入る」のがマイノリティだったら、僕は後者を選んだのかもしれない。

まぁでも、親を始めとした家族との関係が一番大変でしたね。彼らとわかり合えないことが当時最大の悩みだった。「いい学校に行き、いい会社に就職する」ことがベストだと思っている人間には、地位とか名誉なんてどうでもいいだろう、もっと大事なものがあるだろうというある意味正反対の考えを持っていた僕のことを理解できなかったんでしょう。

何せ、そういう道を選んだおかげで、苦しい経験ばっかりでした。その分、心の底ではみんな、おれみたいなことできないだろ、こんな苦しいことできないだろって思ってた。「ヒッピー」って表現こそ柔らかいけど、心の中は過激でしっかり排除してた。それこそ、ヒッピーじゃないと人間じゃないって思っていましたから。裏を返せば、ヒッピーを続けていくためにはそのくらいパワーが必要だったんです。不思議と、ヒッピー同士での排除はなかったんですけど、それがヒッピーなんでしょうね。

やっぱり、ある一つのことに集中するとなれば、他のことを排除しないといけなくなってくる。とはいえ、集中も必要だろうから、そのへんがなかなか難しいなと。でも、八百屋をやっているのであれば、排除するものはないですから。

だけど、自分たちが理想としてきた「自由に買える店」は、自由である反面、買い手に委ねられる分だけすぐに裏切られる感じはいつもありました。と同時に、運動体にした方がいいんじゃないかという考えは何度も頭をよぎりました。そんな風に、八百屋としてどうあるべきか、どうやって質的に豊かにしていくかはずっと模索してきたけど、八百屋以外の手段をとろうと思ったことはないんですよね」

 

自立と自由に手を伸ばして

長本が「部族」時代に共同生活をしたメンバーの中には、同じく八百屋になった者、ヒッピーを続けた者、漁師になった者、サラリーマンになった者…と様々いるという。

また、「八百屋開業後、三年たつかたたぬかのうちに、ある者は屋久島に入植した。ある者は流通業者として独立した。ある者は玉造(茨城県)に農場をひらいた。ある者は店舗をもって独立した。それぞれの夢をもって、長本兄弟商会に集まってきた者たちが、またそれぞれの夢を追って、そこから去っていった。そのたびに、新しいスタート台に立たされるような気がしたが、そうして八百屋の輪はひろがってきたのだ」『みんな八百屋になーれ』より

「やる前から、自分たちの世界だけじゃよくないよねという話はしてたんです。1度集まったら、離れるのが普通だと。それを繰り返していくうち、もっと大きな力を育んでいける。だから、まず「個々の自立」は基本スタンスとしてありましたね」

店舗を構えるようになっても、長本は「流行りのチェーン展開」を考えたことはない。「ここで働かせてほしい」という若者が訪ねてきた時には、必ず「ある程度うちで修行したら、自分でやれ」との条件で受け入れ、こう伝えていた。「おれから指示されてやるのは楽かもしれないけど、それだと(おれも)おもしろくない。大変かもしれないけれど、自分でやる方がおもしろい。それにおれは、おまえが苦労して自立するところを見るのが好きだから」
「そういうスタンスはずっと守ってきたし、今でも守ってますね。加えて、僕が人を束ねて何かをやるとなると、きっとルールを作るだろうと。それでは、ルールを作られた側も作った僕も不自由になっておもしろくないから、絶対に嫌だなと思ってた。今は、もうちょっと厳しく訓練させていた方がよかったなと少し反省しているんですけどね」