ライフストーリー

公開日 2014.7.11

Story

「念ずれば、花ひらくんです」

近畿大学泉州高等学校 野球部監督 清水 雅仁さん

だから、大人になって同級生と飲んでいる時に当時を振り返っても、辞める時のこと、むちゃくちゃ走らされたこと、ゲボ出るほどうさぎ跳びさせられたこと…みたくピンポイントの思い出しかよみがえってこないんです。

でもその経験を反面教師として、連なった一つの物語としてトータルで思い起こせる練習方法や高校生活を…との思いを形にしたのが今のやり方です。主体性を持って取り組んでほしいというか、夢を持ってほしいなと。だから、先日、部員にかけた「(お前たちそれぞれ)自分がやってることに間違いはないんやと思ってやれ」との言葉は、もしかしたら自身の過去を思い出しながら言っていたのかもしれませんね。

大学時代にしても然り。周りを見回せば、ジーパンはいて、かっこええカバン持って、遊んで…とキャンパスライフを楽しんでいる奴らがいるわけです。かたや自分は頭を丸刈りにして、ジャージしかはかずに、紙カバン持って通っている。言ってみれば、生活の全てを野球に捧げてきたわけで。まぁ、そんな生活があほらしなったんですよね」

転機はふいに訪れた。大学2年の時のことだ。悶々とした気持ちを持て余しながら過ごしていた清水はある日、同級生の家に飾られた武者小路実篤の言葉と出逢う。

「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」その言葉は迷いをふっ切ってくれたんです。おれは野球でいく、おれを生かすのは野球しかないと心に決めましたから。社会人になって会社の野球部に勧誘された時も、やれへんとは言いつつもやれるところまでやってみようという思いはあったんじゃないかな」

人は、生きていく中で手本にしたいと思えるような人物や行動、言葉との出逢いを多く持てれば持てるほど、豊かな人生を送れるのかもしれない。一方で、手本にしたくないと思えるようなそれらとの出逢いも、人生を豊かにする可能性を多分に孕んでいるのではないか。

清水が銀行で勤め始めて二、三年目のことである。宴会の席で支店長から法務の試験を受けないのかと問われた際、「いや、受けても通る気しませんし、勉強もしないといけないので、まだ受けるつもりはありません」と答えた清水に、支店長は「○○と○○は試験通っているやないか」と他の社員の名を挙げてきた。にわかに胸中穏やかではなくなった清水。感情を抑えきれない様子で「いや、それは僕の人生ですから、自分で決めることです」とすかさず反駁したという。

「そんな比較ありますか?人にはそれぞれ得意分野があるわけでしょう?遡れば、小さい頃からそんなことばっかりでしたけどね」

清水は兄二人を持つ三人兄弟の末っ子である。兄二人は清水とは違い、勉強がよくできた。ゆえに、彼らと比べられて悔しい思いをすることは多かった。どうしても勉強を好きになれなかった清水は、いつか自分の得意分野で花開けばと野球に専心した
「だから僕は比べることもしないし、目標を持ってそれに向かって努力せぇよとしか言いません」

 

今に連なる過去 2

「そういった悔しさであり、その源にある山盛りの劣等感が、僕にとっての大きな原動力でした」

劣等感は時にはバネとなり、時には足枷となる。「僕はチビなんで、もう野球はやりません」それは高校、大学、社会人と、清水が新天地で野球をしないかと誘われた際に使う常套句だった。
「チビであることはとても大きなコンプレックスだったんです。キャッチャーとして試合に出ていると、背の高い相手チームの選手がバッターボックスに入ってくる度、自分がチビであることを認識させられるわけです。だから背が高い人が羨ましくて仕方なかったし、今でもその思いは拭い去れていません。もし身長180センチ以上あって、プロ野球や社会人野球の世界に誘われたとしたら…ということはよく思い描いたし、現実にそうなっていれば絶対に行っていたと思います」

だが、そういった清水の自意識は能力とは別次元の話である。体格は抜群に良く、高校時点で身長は165センチ、体重は80kg以上。バットを振れば人より遠くに飛ばすことができたし、打率も高かった。おまけに肩も滅法強く、遠投は100m以上。自身の記憶によると、高校時代に盗塁を許したことは一度しかないという。身長の低さを補うに余りある天分に恵まれた選手だった。

ゆえに、清水の野球人生は高校時代までは順風満帆。生まれ育った村のヒーローだった小学校時代に始まり、中学では1年からスタメンを張り、夏の大会において県ベスト8には常に名を連ね、入学直前にはセンバツ大会出場を果たしていた神戸村野工業高校では入学早々選ばれた1年生4人の中の1人としてチームの遠征に同行。2年の時には副キャプテンを務めた。端的に言えば、その12年間は清水にとってさほど努力せずとも結果がついてきた時代だった。

だが、大学で彼を待ち受けていたのは挫折だった。キャッチャーの中で8番手という思いもよらぬ現実に、高かった鼻はものの見事にへし折られてしまうこととなる。
「それまでは自分はすごい選手だと思っていたけれど、大きな勘違いだったなと。だから、以後は必死で練習しましたよ」

自身いわく、練習量は人の倍。ライバルが寝ている時も、悟られないようにこっそり練習した。バットを振り込んだあげくに皮がむけ、血が滲む手の痛みに耐えきれず、氷を握って眠りにつくこともあった。

だが、試合に出れるかどうかは監督の采配次第である。おれの方がいいプレーできる。おれの方が努力してる。そんな確信があるにも関わらず、試合では使ってもらえないという状況が続く中で、鬱憤はたまっていくばかり、じれったさは募る一方だった。
その思いが頂点に達した大学3年の時、清水はついに監督に「はよ(試合に)出してください」と直訴する。監督はその要求を呑み、清水を試合に出場させた。

そのチャンスを逃さなかった清水は結果を残し、念願叶ってレギュラーの座を奪取。以後はスタメンマスクを譲ることなくチームは彼が大学4年の秋、関西代表として大学日本一を決する全日本大学野球選手権大会への出場を果たしたのである。同校野球部史上初めての快挙だった。
「その時、努力することの価値、そして野球の神様の存在を実感しました。大学時代、神宮に出たいなんてこれっぽっちも思ったことはありません。僕を動かしていたのは、ただ目の前にいるライバルに負けたくないという思いだけでした。指導者になった今、「ダメです」と諦める人間に対して「歯を食いしばってやれ、へぼ」と怒るのは自身がそういう経験をしたからなんです」

事実、清水は監督などから根性やガッツを褒められることが多かった。自身でもそれが売りだと捉えていた。
「骨が折れてようが何しようが、試合を欠場しますと言った覚えはありません。手首が折れていた時も、出ろと言われたら隠して試合に出ました。肋骨にひびが入っていた時にも、医師からの忠告にも耳を貸さず、若さ全開で「野球で死ねたら本望です」と突っぱって試合に出ています。(笑)とにかく、自分から身を退いたことはありません」

監督から褒められることはおろか、「八番手キャッチャー」には貸し与えられるキャッチャー道具すらなかった大学時代。清水は道具室に捨てられている壊れたものをテーピングで簡単に繕って練習に混ざった。
「お前はいらんとは言われていないわけですから。ただ、道具がないだけ。だったら、自分で工夫して作ればいいという話なんです。だから、何やかんやとグズグズ言う子には言うんです、ほんまにやりたいんならどうやってでも入るよと。それがいわゆる魂でしょう。とにかく、どんな手段を使ってでも、勝負をしてほしいんですよね」

そんな清水を、人はよくこう評する。「おまえの語りは熱いのう」旧友に言わせれば、「相変わらずの暑苦しい男」である。
「その気持ちがなくなったら僕はこの仕事を辞めるでしょう」

清水が社会人の若手の頃のことである。試合で三振を喫した際、悔しさのあまりバットを地面に叩きつけたところ、先輩から厳しくとがめられたことがあった。
「納得できなかったので、言い返しました。三振食ろたん自分やん。おれがどんだけ練習してきたか、みんな知らんやろ?こんなヘボ投手から三振したんや。その感情出したらあかんのですか?」

指導者になった今も冷めやらぬ清水の熱は、選手たちにも伝播しているのだろうか。昨年の秋季大会にて、近大泉州高校は敗退するまでの3試合全て「ベンチがうるさい、はしゃぎすぎ」という旨の厳重注意を高野連から受けたのだ。
「確かに反省しないといけない部分はあると思います。でも、僕は彼らがやってきた努力を知っています。だからこそ、ガッツポーズの一つも出るんじゃないですか。言葉は汚いかもしれませんが、「行ったれやーー!」という声が出るんじゃないですか。特に1回戦なんかは、シーソーゲームの末に同点2ランホームランが飛び出したわけです。そら、ベンチ前で抱きつきますよ。試合中に涙も出ますよ。努力した人間にしか表せない喜怒哀楽はあるはずなんですよ。けれども、それは然るべき姿ではないと眉をひそめられてしまう。改めて不思議な世界だなと感じましたね」

 

部員たちに望むもの 2

清水は、大学卒業後22年間の銀行員生活を経て教師になったという異色の存在である。

39歳で大阪市信用金庫軟式野球部での選手生活に幕を閉じた清水は、母校の村野工業でサンデーコーチ(土日祝日限定のコーチ)を務めるようになる。以来5年。コーチとしてできることに限界を感じたことも教員を目指すきっかけとなった。指導者として甲子園に出たいとの思いもあった。

そうして清水は41歳の春、仏教大学の通信過程に入学。卒業するまでの2年間、勤めの傍ら教員試験の勉強に励んだ。「何か得ようと思うなら、多少の犠牲は払うべき」との思いのもと、アフターファイブで酒を飲みに行くことは一度もせず、また一日も休まず机に向かった結果、翌年の試験で合格を勝ち取った。

だが、その時清水の息子は高校2年、娘は中学2年。よって即座に転身というわけにもいかず、踏ん切りをつけるまでに1年を要したが、2007年、採用された大産大附高で教員生活をスタートさせたのである。

そんな清水が、野球に一生懸命に取り組むことと同様に重きを置いているのが、地域との共存である。

近大泉州高校は大阪府岸和田市にある。岸和田は全国的にも有名なだんじり祭りに象徴されるように地域性の強いところだ。そんな岸和田でだんじり祭りにとどまらず、冬のマラソン大会などにもなるべく部員を参加させるようにしたり、地区の青年団とのソフトボール大会では高校のグラウンドを貸し出したりもした。
「人と触れ合って、人としてのあり方、考え方などを学んでほしかったんです。世の中は高校野球を美化、そして特別視しすぎるきらいがありますが、高校野球も本来、学校あってのもの。遡れば、銀行で教わった多くのことを子供たちに教えたいという思いが僕の教師人生の出発点ですから」

銀行員生活22年の中でも、とりわけ7年間の営業マン経験から得るものは多かったようだ。
「社長にも色んな人がいました。何もかも捨てて、事業で成功したんやな~、100人敵に回してきたんやな~と感じる人。中卒で裸一貫からやってきて、やっと金の時計を腕にはめられるようになったんやろな~と見受けられる人。一年中同じ恰好をしていて、金のことは興味なし。でも、モノを作ることをこよなく愛していて、夕方に行ったら、近所のおっさん連中と缶ビール飲んでワイワイやっている人…。彼らの姿が直接的に何らかの影響を及ぼしたというわけではないですが、視野が広がったのは確かなこと。そんな風に色んな人を見てきたことが僕の礎となっているように思います」

それゆえなのだろうか。清水は(部員が)いずれ社会人になるという未来を踏まえた上でよく話をする。
「たとえば誰かお客さんが来た時、「こんにちは」というような通常の挨拶に「寒いですね」とか「雨の中を…」という言葉を添えられる人間になりやと。そういうことをサラッと言えるのって一番かっこいいじゃないですか。

銀行員の営業という立場で考えると、ごっつい時計して、ええネクタイして、ええスーツ着ていっても、中身が伴わなければ誰も金を預けてくれませんよね?ならば売るものは何かと言うと、(会社の看板を借りるところはあるでしょうが)結局のところは自分でしょうから」

どうやら清水が異色なのは、今に始まったことにないらしい。上司や同僚を始め、営業先の会社の社長からも「おまえ、変わったやっちゃなぁ(奴やなぁ)」とよく言われたという。

そのやり取りの一例をご紹介しよう。営業マン当初から長い付き合いのある中小企業の中年社長に預金のお願いに行った時のことである。