ライフストーリー

公開日 2019.1.17

Story

「日本の製造業のフロントランナーであり続けたい」

HILLTOP株式会社 副社長 山本 昌作さん

ギブ・アンド・テイクとよく言われますが、多くの人はギブをせずにテイクばかり得ようとするからうまくいかないんだと思います。実際、産休・育休制度を推進している女性社員に「おれにはわからんから、君が調べてくれ。マーケティングもやって、自分が“経営者”だったとしたらどこまでやれるのかを考えてくれ。任せるから」というふうに接すると、ものすごく一生懸命取り組むんですよね」

テイクばかりを望み、毎日のように突っかかってくる彼らから、山本は逃げなかった。「礼儀」や「教養」、「知恵」といった項目はゼロに近いけれど、「行動力」や「主体性」という項目は突出している、偏ったレーダーチャートの持ち主なんだ。もし、彼らを納得させて、その突出した部分をよい方向に振り向けられたなら、会社の大きな推進力になるのではないか―—。いつしか、彼らと夢物語を語り合うのが山本の習慣になった。

「将来は白衣を着て仕事をしよう」

「将来は琵琶湖のほとりの別荘を買おう」

「将来はスキー場を買おう。ペンションを買おう」

1990年頃、2〜3億円で信州エリアのスキー場が売りに出されていたときは、半ば本気で買うことを考えていた。本気で目指す目標と空想に近い夢が入り混じっていたが、未来を語るという点では同じだった。

「人は共感した人に対して仲間意識を覚えるもの。まわりの目には私が媚びているように映ったかもしれないけれど、彼らの持ち味を生かすためのベストな方策だと考えたんです。今の私があるのは、よくも悪くも彼らのおかげなんですよね」

2000年代後半、山本が「理解と寛容を以て人を育てる」という経営理念を定めたのも、彼らとの出逢いと無関係ではない。こちらに忍耐力があれば、ヤンキーや暴走族であっても、正しい方向に導くことができるという確信に近い思いがあるのだ。

自発能動を重んじ、「絶対に監視管理をしない。尻を叩かない」と心に決めている山本は、どんな状況でも自ら動き出すまで「待つ」姿勢を徹底してきた。

25年ほど前(1995年頃)のことだ。夜通し遊んでいたからだろう、勤務時間中にもかかわらず、パソコンの前で毎日のように居眠りしている社員がいた。その状態が約半年続いたのだが、山本は叱責しないのはもちろん、注意、小言めいたことも一切口にしなかった。その社員は現在、営業部長として活躍している事実が、「いずれ覚醒する」と信じて待ち続けた「社員教育」の成果と言えるのかもしれない。

「寝る気はなくても、寝てしまうような状態だったんでしょう。結局、本人が一番恥ずかしいはずだから、グズグズと言わなくてもいいんです。人は、わかっていても言われなかったこと、容認してもらったことが一番つらいはず。そう思わなければ、人間じゃないですよ。

自分も含めて、人間はみんな出来損ないです。大学を卒業してからイヤイヤ会社に入った私自身、勤務時間中に仕事もせず、飼っていた犬と遊んでいて、よく父に怒られていましたしね。弟(専務)にまで怒られたときは、さすがに堪えましたけど(笑)」

山本の座右の銘は「座して半畳、寝て一畳」だ。

「いくら立派な肩書やたくさんのお金を持っていても、ひとりの人間ができることなんてたかが知れています。まわりの人たちの助けなくして、願望や夢を成就させられるわけがないんです。「裸の王様」とよく言われるように、勢いがあるときは周りがチヤホヤしてくれるけど、落ちぶれた途端、誰も寄って来なくなるのは人として寂しいですよね。

経営者って、会社という器の中に備わった一機能でしかないんです。経営者も、社員と同じ組織の歯車。それを前提とした上で、組織として最高のパフォーマンスを発揮するために、個々の歯車が動力を持ち、相乗効果を生み出せるように調和を保つことが必要だと考えています」

 

製造業のフロントランナーとして

小学校時代、山本には「(鉄腕アトムに出てくる)お茶の水博士のような科学者になりたい」という夢があった。モデルを機械に投げ込んだら、自動でカッターパスが出来て、自動でモノが削られていく。こんな機械があればいいな―—。幼心に抱いたたわいもない夢をふと思い出したのは、両親が営む鉄工所で働き始めてからのことだ。

「そういう記憶って、ずっと心に残っているものなんでしょうか。ファーストロット(初めての注文)でも無人化加工を実現させるなど、その夢にだんだん近づいている今があるのは確かですから」

機械の前で行う作業:デスク作業=8:2という従来の比率を逆転させるべく、無人化加工に着手した1980年代前半、社員からは「なんでこんな邪魔くさいことやらなあかんねん」と批判の矢を浴びた。思い描いたようには自動化が進まず、「いいかげんこんなことを辞めたらどうか」と非難されることもあった。だが、このやり方の価値を実感できる日は必ず来ると、初志を貫徹。社員を徹底監視し、鬼のように命令し続けた1年半が過ぎると、異を唱える者は誰もいなくなった。

「情報の整理整頓をするだけで、いかに人間が人間らしく仕事をできるか、実感してもらえると思います」

バブル全盛期の1980年代後半には、同業者から「山本さんは頭がおかしい。量産の仕事をすれば放っておいても儲かるのに、どうして七面倒くさい単品の仕事ばかりするのか」と言われたこともある。だが、大手企業がIoT化を進め、多様な顧客ニーズに応じたフレキシブルな生産体制に移行している今、大量生産体制は前時代の遺物となりつつある。

「私の永遠のモチベーションは、HILLTOPが日本の製造業のフロントランナーでありつづけること。日本の製造業が大量生産から離れて、多品種少量生産に移行していく。その流れを作っていきたいと思っています。仕事という餌を与えてもらう代わりに、不条理な要求でも呑むことを求められる下請企業から抜け出すことなくして、人間が人間らしい仕事をすることはできない。下請企業は親会社に飼われる家畜になっていることに早く気づき、野生にならなきゃいけないんです」

HILLTOPには2018年現在、年間2,000人以上の見学者が訪れている。ある就活生が「この食堂を見て、入社したくなった」と言ったカフェテリア風の社員食堂。最上階(5階)に設けられた和室や筋トレルーム、浴室。部署と部署を隔てる壁を完全に取り払ったデスク配置……。対話と創造性やイノベーションを重視したつくりはすべて、「人間が人間らしく働ける環境づくり」に根ざした産物である。

「非常にうれしいのは、私たちの取り組みを真似ようとがんばって、成果を出している会社があること。情報交換が活発になる社員食堂を作った結果、女性社員がどんどん増えている上に、うな重まで提供している会社なんかを見ると、こちらがジェラシーを感じるほど。仮に私たちがやっている事の本質までわからなくても、まずは現象を真似るだけでもいいと思っています。人を大事にしていたら、会社の主役は誰か、おのずとわかるはずですから」

ヒルトップ・システムの雛形をつくった30歳の頃から講演者として呼ばれるようになった山本には、別の顔もある。約15年来、招かれ続けている名古屋工業大学を筆頭に、大阪大学、神戸大学、立命館大学と4つの大学で非常勤講師を務めている。山本はよく、大学の教授から驚かれるという。

「ほんとうは一番正しいことだけど、理想でしかないと思っていた。それを実現させていることが信じられない」

山本を衝き動かしてきたのは、何が何でも理想を叶えたい、いち人間として正しいと思うことをまっとうしたいという熱烈な想いであり、それを具現化するために徹底し、一途に貫いてきた行動力だ。

「放っておいたら、ルーティン労働に支配されてしまうのが製造業の宿命です。だからこそ、それに抗わなければならない。その労働を捨てるにせよ、圧縮するにせよ、真っ向から闘わなければならないんです。さもなくば、自分が常々口にしている「利益を落としてでも、人を大事にする」「お金が残らなくても、人が残ればいい」「採算が合うかどうかより、楽しいかどうか、やってみたいかどうかで仕事を選ぶ」……という理想はただのお題目で、きれいごとしか言わない甘ちゃんになってしまいますから」

かくいう山本にも、現状に甘んじている時期があった。磨き上げてきたヒルトップ・システムが功を奏し、堅調に業績を伸ばしていたHILLTOPは、20年以上前から20〜25%の利益率を計上。2002年度には「関西IT百撰」最優秀企業に選定された。順風満帆な状況に慢心していたのだろう。あれほど強く願っていたはずの夢もいつしか霞み、こんなに儲かってるんやからそんな面倒くさいことせんでええやん、という心境に陥っていたのだ。

そんな折に遭ったのが、2003年に起こった工場火災である。消火活動にあたった際に全身やけどを負い、死線をさまよった経験は、自分の人生を見つめ直し、自分に残せるものは何かを模索する時間を山本にもたらした。鉄工所・町工場のイメージを払拭する「夢工場」(新しい本社)を京都府宇治市に竣工したのは、その事故があったからだ。

『現状否定の中からしか、新しいものは生まれません。当社で頻繁にジョブローテーションを実施(最短で1年)しているのも、「現状否定」する状況を意図的に作り出すためでもあるんです』

山本がこれまで出会ってきた数多の反面教師は、現状否定を促す最良の教師でもあった。
「人からは「山本さん変わりませんね。20年前に言うてはることとまったく同じですね」と言われたりしますけど、確かにそうだなと。いかにして人間を単純労働、ルーティン労働から解放させるか。押さえているのはその一点だけ。人間から人間らしさを奪い去る“鉄工所”が死ぬほど嫌い、という思念に端を発した私のライフワークは、40年来、揺らぐことのない信念に支えられているんです」