ライフストーリー

公開日 2019.2.10

Story

「悩んでいる人を見ると、燃えてくるんです」

㈱営業会議 代表取締役社長 野口 明美さん

Profile

1959年生。大学卒業後、5年間、中学校の国語科講師を務める。27歳のとき、スーツを着て仕事がしたいと、リクルートに転職。求人広告を扱う就職情報事業部で営業を務める。2年目より女性営業部隊の営業リーダーとしてマネジメントを行う傍ら、企業研修トレーナーの実績を積む。2001年、「教育」と「営業」という自身のスキルを生かすべく、㈲営業会議(現・㈱営業会議)を設立。以来、新人営業マンから営業リーダーまで幅広い層を対象とした営業研修やコンサルティングを行っている。著書に『あなたが売れれば商品も売れる「営業力」の鍛え方』。

※ 約8,000字

三つ子の魂六十まで

「大人になるまで人工透析を続けなければならないでしょう。20歳から先は、生きていくのすら厳しいかもしれません」

慢性腎炎により、子ども病棟で日々を過ごすことを余儀なくされていた野口の担当医は、両親にそう告げていたという。

十分すぎるほど、心当たりはある。真っ先に思い出す幼少期の風景といえば、ベッドから見た部屋の電球と自分の顔をのぞきこむ両親の心配そうな顔。天気のいい日に外で遊ぶと、翌日、熱を出したり、いつもよりご飯を多めに食べると嘔吐したり。入院生活が長かったために、まともに幼稚園に行った覚えもない。いつも青白い顔をしているやせ細った女の子が、人前でしゃべりまくるキャリアウーマンになるなんて誰が想像しただろう。

頭が痛い。胃がムカムカする。熱が出てしんどい……。四六時中、身体が不調を訴えていたすべての原因は、十中八九「食」にあったろう。今や食欲を抑えるのに四苦八苦しているほどだが、食べものを「おいしい」と感じられない当時は、度を越した少食だったのだ。身体が受けつけないのだから仕方がない。野口を喜ばせようと、親戚が見舞いに持ってきてくれるケーキやプリン、フルーツも、むしろありがた迷惑だった。

それでも小学校入学前に退院できたのは幸いだった。とはいえ、虚弱体質であることに変わりはない。朝礼時間が長くなると貧血で倒れ、運動会や遠足の前日、缶けりなどで遊んだ翌日には必ず熱を出す……。そんな調子で続く学校生活に楽しみを見出せるはずがない。完食できるわけもないのに、教師から「全部食べろ」と叱られる給食も苦痛でしかなかった。

永遠に続くかと思われたそんな生活にピリオドを打ったのは、野口自身だった。小学1年のある日の夜中のことだ。その日も発熱により、下校後から寝込んでいたと記憶している。だるい身体をもてあましながらも、野口は心の中で叫んでいた。

「いいかげんにしてくれ! こんな人生、もういやや!」

その一夜を境に、世界は変わった。悪循環が断たれ、好循環が生まれたのだ。朝起きたときに空腹感を覚えたり、給食を心待ちにするようになったり……。食べる量が増えると、おのずと体力もついてきた。どうやら「食」は、生きるエネルギーと分かちがたく結びついているらしい。それまで授業中に発言することなど考えられなかった野口だが、積極的に手を挙げて発言し、周囲の賛同を得るなど、徐々に本来の自分を発揮していったのである。

まったく新しい人生を生きているような感覚だった。「(明美さんは)お友だちに人気があって、クラス委員に選ばれました」「影響力があって、活発になってきました」保護者面談で担任の教師からそう言われるようになったのは、いつからだろう。ともあれ、人生に無駄なものはない。

「現在の仕事の礎となる言語能力が磨かれたのは、病気で苦しんだおかげかもしれません。ただ泣いているだけだと、状況は何も変わらない。医師や看護師に自分の症状を細かく、的確に伝えなければ、楽になれないので、真剣に言葉をしぼり出すわけです。母は専業主婦で、父は寡黙な技術者。弟も物静かな方なので、もともと備わっていたものではないと思っています」

人に倚りかからない人生を運命づけられていたのかもしれない。入院していた病院は「見舞いに来ていいのは、1週間に1度だけ」というルールが設けられていたため、身のまわりで起こる問題はすべて、自力で解決するしかなかったのだ。

せめて心配の種を増やさないようにしようと親の前では気丈に振る舞っていたのも、自分のことで親が苦労しているのがわかっていたからだ。その病院に転院する前の病院では、母がつきっきりで面倒を見てくれていたが、病気はいっこうに快方に向かう気配がなかった。後から聞いた話では、母は娘と心中を図ろうと考えるまで追い詰められていた時期もあったという。

人が何かしてくれるだろうと期待しても無駄。自分でなんとかしないといけないんだ――。生きのびるために必要だった心構えは、野口の核となる人生観になったのである。

「だから60歳を目前にした今でも、人に頼ったり、委ねたりすることはあまりないんです。これまで結婚歴がないのも、大いに関係しているでしょうね(笑)」

 

ゼロから作り上げた“営業マニュアル”

自分の思っていることを伝えない限り、状況が改善することはない。病に翻弄された幼い頃に体感した「厳しい世界」が野口に授けたのは、「生き抜くためのコミュニケーションスキル」だった。

その習い性が染みついているのか、思ったことを何でも口にするせいで、社会人になってからずいぶんと苦労した経験がある。

「あなたと話してても、全然心が動かへんわ」

「申し訳ないけど、あなたの話はおもしろくないから、もう行っていい?」

そんなことを平気で口にすれば、言われた本人が傷つくのはもちろん、まわりからも眉をひそめられた。だが、野口には悪気もなければ、相手を否定するつもりもない。思ったことを素直に口にしただけなのになぜ怒られるのか、見当もつかなかった。それもそのはず。野口はそれまで、相手が自分の言葉をどう受け取るか、なんて考えたことがなかったのだ。

27歳のときに入社したリクルートで求人広告の営業をしていた頃も、本音を隠せないがために揉め事に発展したことは一度ならずあった。

たとえば、こんなことがあった。求人広告を出したのに内定辞退者が出たという理由で、顧客が責任を追及してきたのだ。明らかに言いがかりだろうと思ったが最後、野口は我慢できなかった。

「それはでも、私の責任じゃないですよね? お宅の方でまずい対応とかがあったんじゃないですか?」

その発言が火に油を注ぎ、二次クレームに発展。野口から事のなりゆきを聞いた上司は、始末に負えないとばかりに頭を抱えていた。
「これは売れるようになってからの話ですが、誰が野口を受け持つか、所長クラスの人間が押しつけあっていたそうです。「結果は残すけどめんどくさい」私は、ババ抜きのババだったんです(笑)」
だが、身をもって学んだからこそ自分が上司になったときは、部下に一から教えた。

「求人広告を出したのに採用できなかったり、内定辞退者が出たりするのは、われわれの責任ではないけど、そういうことで怒るお客さんもいてはる。その場合、本音は胸に納めておいて共感しなさい。

ただ、ごめんなさいと言う必要はない。ご期待に沿えなくて私も残念だと思っています、というふうに、全部、自分を主語にして言いなさい」

「忖度」という処世術は、言葉の裏を読まない野口には難易度が高すぎた。「検討します」というお客さんの返事がよもや、相手に嫌な思いをさせずに断るための常套句だとは想像だにしなかった。

『部下に教えるときは、「検討する」と言われても、それだけで帰ってきたらあかん。「何をご検討されるんですか?」と突っ込んでこい。それで何も言わなかったら、断りのしるしと判断して引き揚げればいい。でも「費用が…」とかいう具体的な返答だったら交渉の余地がある、などと話しています』

自身が痛い思いをしながら学んだノウハウを一つひとつ書き加えていった”営業マニュアル”は、野口の財産だ。リクルートに入社して2年目で部下に教える立場になってからは、そのノウハウを余すところなく部下に伝えていった。野口の部下がのきなみ成績を向上させられたのは、「まず訪問先の扉を開けるやろ。第一声、何しゃべる?」といったところまでシュミレーションさせた野口の細やかさにあっただろう。野口率いる女性営業部隊(通称:野口組)が西日本一の営業成績を挙げたのは入社3年目のことだった。

「(営業マネージャーを対象にした)営業マネジメント研修で必ず伝えているのは、商談の打合せは事前にすべきだということ。多くのマネージャーは、帰ってきた営業マンの報告に対してフィードバックを与えますが、それでは未来は変わりません。本人が現場で困らないよう、廊下を歩きながらでもいいから、いろんなケースを想定した打合せ(シミュレーション)を事前にした方が成功する確率は上がります。そのかわり、帰ってきた後は、うまくいったら「おめでとう!」、ダメだったら「次、がんばろな」で終わりにする。終わったことについて、ゴチャゴチャ言わない。その方が人は動くんです」

 “問題児”の強み

この道30年。今や自他ともに認める「営業のプロ」だが、かつては、成績を残せない上にクレームを生み出す“問題児”だった。リクルートに入ってから丸一年間は業績を上げられずに思い悩む時期が続いていた。その状況をどうすれば打開できるのか。頭をひねった野口が考えついたのは、おなじ営業所にいる他の営業マンに同行し、個々のやり方を見て学ぶことだった。

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