ライフストーリー

公開日 2019.7.14

Story

「必殺技なんてないんです」

医療法人 健世会 なかの歯科クリニック 理事長 中埜 健太郎さん

 


大阪市住吉区にある「なかの歯科クリニック」には、大ベテランの域に達した50代半ばの開業医が、週に一度、経営を主としたノウハウを学びに来ている―—。その事実に勝る“実績”が他にあるだろうか。

 

そんな医院をつくり上げてきたのが、2012年の開業以来、院長として組織を率いてきた中埜健太郎さん(43)。開業当初は2台だったユニットは12台に、6名いたスタッフは約40名にまで増加(※ 2019年7月時点)。順調に成長を遂げてきた背景には、何があるのか――。中埜さんの物語とともに、その秘訣を探ってみたい。

※ 本文:約8,000字

プレイヤーから経営者へ

2019年春。中埜が講師を務めたセミナー終了後、50代、60代のベテラン歯科医を中心とした参加者の反響は想像をはるかに超えるものだった。首のヘルニアを患った過去を含めたこれまでの歩みを、中埜が腹を割って語ったからだろう。「実は私も……」と人には言えない悩みを打ち明ける歯科医が後を絶たなかった。

中埜が29歳のときに患った首のヘルニアが10数年ぶりに再発したのは、2017年のことである。椅子に座って患者の口腔内を覗き込む動作ができない歯科医は、足を骨折した陸上選手同然だ。仕事はおろか日常生活すらままならない中で、中埜は2ヶ月半の休養を余儀なくされていた。復帰後は週1日の勤務から徐々に慣らしていくこと2年半。完治したとはいえない現在の労働時間も、40時間/週と歯科医にしては少ない方だ。

だが、それがかえってよかったのかもしれない。自身の歯科医師生命すら危ぶまれるなかで、トップと共倒れになる組織にしてはならない。そう身に沁みた中埜は、予防歯科診療を経営の軸とする医院づくりを一気に加速させたのである。
「スポーツ選手が選手生命を延ばすために日頃のケアを怠らないように、人が老後も自分の歯で食事をして健康を維持するためには、予防が欠かせません。どれだけいい治療をしても、それは一時的な解決にしかなりませんから。

ただ、歯科衛生士が主体となる(いい状態を維持する)予防中心の歯科医院にすると、(悪いところを治す)治療を行う歯科医の出番は減ってしまいます。実際、それを機に勤務医の半数以上が辞めたのは、「主役を奪われた」形になったからでしょうね」

それでも中埜は思い切った医院改革を推し進めた。歯科衛生士や歯科助手らスタッフの給与水準を一気に引き上げるだけでなく、歯科衛生士にも「固定給+歩合給」の給与制度を導入。スタッフのモチベーションの向上が仕事の成果に反映され、質の高いスタッフが集まってくる、という好循環が生まれたのだ。

なかの歯科では、中埜の妻も歯科医として働いている。普段はどっしり構えている父親役の中埜とスタッフを厳しく指導する母親役の妻。夫婦で役割を分担できているのも、医院がうまくまわっている要因だ。まわりの先輩歯科医からは「おまえの医院やねんから、嫁さんに大きな顔させてたらあかんぞ」と忠告されるが、今の中埜には響かない。
「(仕事に口を出してくる)歯医者とは絶対結婚しないと決めていた若い頃の私なら、先輩の意見に賛成していたでしょう。でも身体が思うように動かない経験を通じて、考え方は変わったんです。

逆に言うと、その経験がなければ、舵の切り方が中途半端だったかもしれません。だから、多くは50〜60代で訪れる試練に40歳でぶつかった私は運がよかった。最前線に立つプレイヤーから経営者に転身せざるを得ない状況が、向かうべき道へと私を導いてくれたんです」

 

勝てない世界で勝負はしない

思えば、中学時代の挫折経験がすべてのはじまりだったのかもしれない。
テニスにすべてを捧げた中学時代、中学から始めたハンディを補った上でライバルに勝つことを目指して、中埜は人一倍、情熱を燃やしていた。試合で大きなビハインドを背負っても、諦めずに最後まで闘い続ける。絶対に拾えないボールでも、諦めずに最後まで追いかける……。困難に屈しない根性はそのときに培われたものだ。

真夏の炎天下でも水分の摂取を禁じられていた時代のことである。部活中は休ませない、サボっている者にはラケットで尻を叩く、といった顧問のスパルタ指導も性に合っていたのだろう。中学3年の夏、最後の大会のダブルスで大阪府ベスト16入りできたのは、甘えが許されない環境で地道に努力を積み重ねてきた報いだったのか。運動神経がいい方だったとはいえ、経験の浅さを思えば、十分に健闘したという評価を与えてもおかしくはない。だが、中埜の胸中には達成感や満足感など微塵もなかった。
「格が違うというんでしょうか。トーナメントを勝ち上がったトッププレーヤーたち、要は小学校からテニスをやっている選手や中高一貫校で高校生と練習している選手とは歴然たる力の差があったんです。小柄な体格からは考えられないほど強い球を打つ選手の姿は今でも憶えています」

2年半の間、必死に積み上げてきたものはいったい何だったんだろう。才能や体格など、世の中にはどれだけ努力しても手に入れられないものがあるのか――。自身が立っている足場が一瞬にして崩れ去ったことに打ちのめされながら、中埜は「勝てない分野では勝負しない」という人生哲学を導き出していた。

高校2年の夏、中埜が歯科医になることを決意したのは、この世界なら上に行けるという確信めいた自信があったからだ。小学校時代は学校内でピアノが一番うまかったこと。小学校の図工や中学校の技術家庭科の授業で工作をするのが好きで、得意だったこと……。「手先の器用さ」という自身の取り柄を生かせる職業として思い浮かんだのが歯科医だったのだ。「近所にいい歯医者がなくて、みんな困ってるよ」という母親の一言も背中を押した。
「しょせん高校生の頭で考えたこと。手術が多い心臓外科医、脳外科医という道もあったでしょうが、自身の選択を悔やんだことも、目標がブレたこともないんです」

 

体育会系の世界で

「何でもできるおまえがうらやましかった」友人からそう見られていた公立小学校時代、クラスで三本の指に入る秀才だった中埜の成績は、勉強そっちのけでテニスに没頭した中学時代に急降下。卒業後は、大学進学をかろうじて狙える私立高校に進学した。

高校でテニス部に入らなかったのは、テニスと縁を切りたかったからではない。敵わない相手と出会ったといっても、上達の手応えを感じてきたうえに、まだまだ伸びしろがあると自分の可能性を信じられるのだ。それでも高校1年の夏にすっぱり未練を断ち切ることができたのは、1年ぶりに会ったテニス部の同級生に完敗したからだった。中学時代はどう転んでも負けない自信があった相手の強さに驚かされつつも、中埜はコツコツと努力を続けた者にしかたどり着けない領域があることを感じていた。

テニスに代わる生きる意味を中埜に与えたのは、高校1年の春に入った超スパルタの個人塾である。「計算が遅い」といった理由で叩かれたり、蹴られたりするのは日常茶飯事。すこしでも気の緩みを見せれば容赦なくスリッパやチョークが飛んでくる。スリッパの当たりどころが悪かったせいで、鼻の骨を折った生徒もいたほどだ。そんな環境では退塾する生徒が絶えなかったのは推して知るべし。それでも経営が成り立っていたのはなぜだったのか。
「1990年代前半のことなので、時代が許していた部分もあるでしょう。でもそれ以上に、辞めずに続けた子は劇的に成績が伸びたんです。私も嫌々行っていましたが、成績が伸びている実感があるから辞めたいとまでは思いませんでした」

結果を手に入れるには、最適な環境だったのだろう。入学当初は1学年550人中500位に近かった中埜の成績は、高校1年の最後になると30位圏内にまで上昇。普通科から進学コースに移り、大学受験に照準を絞っていったのである。
「後になってみれば、よく考えられた教育方針だったように思います。後ろでずっと講師が立っている状況で問題を解き進めていくのもそうですが、緊張やプレッシャーに苛まれる場面に慣らすことで、入試本番でもふだん通りのパフォーマンスを発揮しやすくなる。ボクシングの試合でいい結果を残すために、練習では徹底的に追い込むのと同じ発想ですよね」

 

生きるための知恵

体育会系の世界にどっぷり浸かり、「強さ」や「順位」というシンプルなものさしで測れる結果を追い求める。そんな生き方をしてきた中埜に新たな価値観を注ぎ込んだのが、大学時代に少林寺拳法の道場で出会った材木屋のK社長である。大学の長期休暇は材木屋でアルバイトをし、息子の家庭教師を頼まれていた週2日は一緒に晩ごはんを食べる。そんな生活スタイルが定着していくなかで、K社長との間にはいつしか師弟のような関係が築かれていた。

「K社長の身長は160cmあるかどうか。筋肉質ではあるけれども、男にしては小柄で細身。ともすれば相手からなめられてしまう見た目のハンディに負けず、ビジネスの世界で生き抜いていくために知恵を絞る。大学2年〜6年までの5年間で、K社長がそれまで培ってきた“生きる知恵”を余すところなく伝授してもらったんです」

たとえば機械が壊れたとき、修理に来る業者をK社長は「先生」と呼んでもてなした。「大事な機械を直してくれる人だから」と、社長みずからお茶を出して、「いつもありがとう」と感謝の意を伝えるのだった。その後、ふたりになったときには、「このお茶一杯でなんぼかかる? これでうちの機械を一生懸命直してくれたら、結局プラスになるんや」とこっそりその極意を教えてくれた。

K社長から教わったことを一つひとつ書き連ねてゆけば、1冊の本が編めるだろう。たとえば、人に聞かれたくない話もあるからと、2人で行った料理屋で広々とした4人席を確保したいときはどうするか。(その予定はないのだが)「もうひとり後から来る」と言えば4人席に通してもらえる。けれどもそれだけでは店に損をさせてしまうので、いいものを頼んで約3人分のお金を落とす。すると次に行ったときも、すんなり4人席に通してもらえる——などと、相手と良好な関係を維持しつつ、自分たちの希望も叶える方法を教えてくれたのだ。