〈嫌なことから逃げない〉という座右の銘も、K社長から学んだものだ。
「嫌な人から逃げたらあかん。自分が嫌やと思う人は、自分に足りないものを持っているんやから。その人と付き合わないようにするのは、いつでもできる。(関係を)切るんやったら、学べるものを学んでから切りなさい。そうすることで、自分の味方はどんどん増えてくるから」
その後、事情があって材木屋は倒産したが、K社長は新たな生きる道を見つけて充実した人生を送っているという。
「失敗しても助けてくれる人がいくらでもいるのがおれの財産。お金はなくなったけど、人は残った」
5年ほど前、そう聞いた中埜は人とのつながりをことさら大事にしていたK社長の姿を思い浮かべていた。
人と知り合っても名刺交換で終わってしまうことが多いから、俺はその人と写真を撮る。そう考えてK社長は出会った人すべてに、メッセージを添えた写真を送っていた。相手が社長であれ、入社間もない若手社員であれ、K社長の態度は変わらなかった。
「最初は戦略的だったのかもしれないけれど、いつしかその人に備わった人格になる。周囲の認識も「戦略家」から「そういう人」に変わるんです」
必殺技はない
就職に際して「どこで働くかより誰から学ぶか」を軸に勤め先を選んだのも、K社長と出会ったからだった。
当初、大学卒業後は、約15件の歯科医院を全国展開し、海外にもラボを持つ大規模医療法人に就職するつもりだった。ただ、トップの理事長先生から直接教わる機会がないのであれば、あまり意味がない。そう考えた中埜は結論を保留。(当時は義務化されていなかった)臨床研修期間を、将来設計をする時間に充てたのである。
法人か個人か。経営の軸は保険診療か自費診療か。ジャンルを問わず、8件ほどの歯科医院を見学でまわった末、決めた就職先は地元大阪市内にあるきおか歯科医院。歯科医2人体制の開業医だった。
「技術から経営まで学びたければ、大企業の部長や係長より中小企業の社長に教わる方がより多くのものを得られるだろうと考えたんです。1年目の新米医師でも軽く扱ったりしなさそうな院長の人柄も、決め手のひとつでした」
きおか歯科で3年半ほど働き、基礎を身につけた中埜は、別の歯科医院に分院長として転職。多くの裁量を与えられた同院では、理事長のサポートを受けながら問題解決の方法を学ぶなど、在籍した8年の間に経営感覚を実践的に磨いていった。純粋倫理に根ざした経営を学び、実践する「倫理法人会」をK社長から紹介され、『職場の教養』(㈳ 倫理研究所発行)を朝礼に取り入れたのも分院長時代のことだ。
開業という目標から逆算した建設的で着実な歩みが功を奏したのだろう。2012年になかの歯科クリニックを開院して以来、医院は成長路線を歩んでいる。
「私の売りは、〈保険診療においては、どのジャンルにおいても他の医院よりすこし上回るレベルの技術を習得している〉こと。その土台を作った上で、自分の成長を楽しみながら、興味のある分野や深めたい分野をセミナー等で学んでいくのがベストだと思っています。
ただ、この考え方を若い医師に話しても、あまりわかってもらえません。みんな、武器を欲しがるというか、わかりやすいものに行きたがるんですね。スポーツでいうとファインプレーばかりしたがる、必殺技ばかり磨きたがるような感じです。でも、走り込みや素振りといった地味で基本的なことが9あるとしたら、そういうものは1あるかどうか。恋愛でも意中の相手を100%口説き落とせる魔法の言葉はなくて、こまめにアタックしていくしかない。そう考えると、みんな経験済みで、答えを持っているはずなんですけどね。
おそらく自信がないから、必殺技を求めてしまうんでしょうけど、それよりもはるかに大事なのが、地道な努力の積み重ね。気づいてから5年はゆうにかかるので、他の人が一朝一夕にはできるものではないし、お金で買うこともできませんから。
確かに、人材を集めようと思えば、ホワイトニングやインプラント、レーザーなど、若い医師が惹かれる看板のようなものは必要でしょう。ただ、それだけでは開業しても失敗する可能性が高い。これだけいい治療ができたら、開業して失敗するわけがないと過信してしまうところに落とし穴があります。
おいしい料理を出す料理屋が必ずしも流行らないのと同じです。料理は普通以上、それなりにおいしいのは前提として、「居心地のよい空間」や「良質な接客」といったいろんな要素も関わってきますよね」
中埜は開業を志している勤務医に対して、必ずこう伝えている。
「町を歩きながら、医院の看板が設置されている場所や色使いを見ておけよ。2年間ずっと見ていたら、看板の出し方のノウハウが身についているから。
役立つのは、そういう(直接的な)ことだけじゃない。たとえばごはんを食べに行ったとき、お店の規模やスタッフの人数、リーダーが誰か……などと観察しているうちに見えてくることは医院経営にも生かされるぞ。経営感覚は、日常生活のなかでも培えるものなんだ」
調和を目指して
「しんどいと思わないときは、一切成長していないとき。しんどいところにどれだけ足を踏み入れていけるかが勝負であり、それが私の生き方なんです」
人生を修練の場と捉える中埜の持ち味は、常に成長を志し、そのための努力を苦にしないタフな精神力にある。だが一方で、その“強さ”や“上昇志向”は、他人との衝突や軋轢を生んできた。
思ったことを包み隠さず口にしていた分院長時代は、スタッフと喧嘩別れすることもしょっちゅう。24時間365日戦い続けているような熱血漢を、スタッフは内心、疎んじ、煙たがっていたにちがいない。だが目的達成に一途な身には、そんな“課題”など見えるはずもなかった。
「歯科医なら誰もが開業して成功することを目標にしているものだと勝手に思い込んでいたんです。理想に燃えていた当時は、誰ひとり脱落することなく、みんなで上に行けると疑わなかったんです。成功するための道筋がある程度わかっていましたしね」
だが、現実は違った。それなりの生活が送れればいい、親が金持ちだからしゃかりきにならなくていい……。そう思っている医師とは、どれだけ議論しても噛み合わず、ただ徒労に終わるだけ。そんな経験をくり返していくなかで、〈歯科医も100人いれば、100通りの考え方がある〉ことを学んでいった。
「いや、みんな口では「お金を稼ぎたい」と言うんです。でもそのために必要な努力が伴っている人はほとんどいません。「患者さんが来ない」と愚痴をこぼしている院長に限って、飲みに行ったりしていますしね」
中埜自身、経済的に余裕がなかった開業当初は、節約のため、車は買わず、電車と自転車で通勤した。飲みに行くのも年に2度くらい。開業後1年間は、服はおろか、パンツやシャツさえ1枚も買わなかった。
「おまえは特別やねん。他のやつはおまえのマネできへん。それに気づかない限り、まわりは絶対についてけぇへん」
中埜が歯科医の親友からそう諭されたのは30代の頃のことだ。結局のところ、強烈な個性を持て余していたのは他ならぬ中埜自身だったのかもしれない。
「大学時代の5年間、自身がK社長に影響を受けたように、自分も「この人に出会ったから変われた」と思われる存在になりたい。そんな自身のエゴを押し通したい気持ちばかりが先に立っていたせいで、まわりが見えていなかったんでしょうね」
人を変えるのは難しい。一方通行のコミュニケーションが生む行き止まりを解決するその結論に行き着いたのは、なかの歯科を開院して2〜3年が経った30代後半のことだった。
「熱くなりすぎないようにしたり、言いたいことの半分で止めておくようにしたり。今は 〈自分を出しすぎる〉 癖が出ないように気をつけています。分院長、院長という役割を通して学んできたのは、人と調和してやっていくためには自分を殺さなければいけないということ。人を束ねる立場になってからは、自分の悪い癖取りゲームをずっとやってきた感覚です。ただそうなると、自分らしさが消えていくのがジレンマなんですけども(笑)。
人間、自分から無理して掴まえにいかなくとも、縁がある人とは必ずどこかのタイミングで自然と近づくようになっている。だから、そのときが訪れるのを待っていればいい。求められたときに応じられる準備をしていればいい――。そう思えるようになった今では、生涯でそういう人と10人でも出会えれば御の字だと割り切っています。でもそのぶん、こいつならと思う相手に出会ったときは、しゃべり倒すように話してしまうんですけどね(笑)」
範を示して
数ある中から選ばれたのには、何か理由があるのだろう。近隣地区で歯科医院を開業している50代半ばの歯科医師Aが非常勤の医師としてなかの歯科に勤務するようになったのは、2017年春頃のことだ。
今後、若い歯科医が開業して競争相手が増えたときに、どうすればいいかわからない。自分の中に答えがないのだったら、若い医師のところに学びに行くしかない——。そう結論づけたA医師は、八方塞がりのような状況を打破すべく、中埜のもとを訪れたのだった。実際、なかの歯科では技術以外の何かを得たからか、A医師の医院の経営状況は好転したという。
60代の開業医B(すでに退職)も、「年上の先生がふんぞり返っていられる時代はもう終わった。自分に足らないものを持っている人には、自分より若くても頭を下げるべきや」と言って、2018年秋に加わった。東京で開催された件のセミナー終了後、なかの歯科への見学を希望した歯科医が一人や二人ではなかったのも、大阪まで足を運ぶ価値を見出したということだろう。
その過程はどうあれ、主役の座を人に譲ったからこそ、中埜は新たな役柄を求められるようになったのだ。いつからか先達となった中埜が誰かの記憶に刻まれる日は、すでに訪れているのかもしれない。
Profile