ライフストーリー

公開日 2018.10.25

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「人生を愉しく。」をモットーに生きる

役者/ファイナンシャルプランナー 森田一休さん

● 1976.6.28〜  【子ども時代】
朝食時やお昼寝のときなど、常にラジオ放送が流れている家庭で生まれ育つ。好んで聞いていたというより、あって当たり前の空気のような存在。毎朝聞いていた「おはようパーソナリティ・道上洋三です」というお決まりの挨拶は、胸に残る一種の懐メロ。やがてラジオパーソナリティを志望する時期が訪れるのは、自然な流れだったのか。

 

● 1983〜  【子ども時代】
「お父さんの言うこと聞きや」という母の助言や「勉強しぃや。勉強していい高校、大学に行ったら、大人になって楽できるで」という父の助言を抵抗なく受け入れ、勉強に取り組む。これといった理由もなく、好きでも得意でもない少年野球を小学校の6年間続けるなど、意思を持たないロボットのように日々を送る。

 

● 1989 12歳〜  【中学・高校時代】
事故の後遺症の影響からか記憶はおぼろげだが、真面目一本な学生生活を送っていたと思われる。5年ほど前、中学校時代の親友から「おまえが芝居してるなんて信じられへん」と言われたことや、昨年に参加した高校の同窓会で「おまえ誰?」と存在すら認識されなかったことからも、おとなしくて影の薄い人間だったのだろうと推測される。

 

● 1995 18歳  【大学校進学】
『天空の城ラピュタ』や『紅の豚』を観て抱いた空へのあこがれに胸を膨らませて、防衛大学校に入校。胸に秘めた志望理由は「戦闘機に乗りたいから」「かっこいいし、モテそうだから」といった吹けば飛ぶようなもの。よく言えば無邪気な、悪く言えば浅はかな選択を悔やむ日が来るとはつゆ知らず。

 

● 1995〜96  【大学校時代】
事細かに管理されたスケジュールや厳しい秩序・規律に自身を適応させていく全寮生活、学校生活を送る。キツかった思い出は、20年以上経った今でも夢に出てくるほど。入学後初めて外出を許可された日、真っ先に町の電器屋に向かい、ラジオを買う。18年間、ずっとそばにいた“相棒”のありがたみを実感する。

 

● 1996 夏 20歳  【大学校時代】
防衛大学校2年の夏、「ここでおれ死ぬかも」と思うに至ったとき、人間らしいことができていない現状に失望するとともに、自分の人生に生まれてはじめて本気で向き合う。将来を思い描く時間が増え、「もう明日死んでもいいと思えるほど、今日という日を精一杯生きる」生き方に強く憧れる。人生を貫く「生命」というテーマが生まれる。

 

● 1996 秋 20歳  【大学校中退】
一大決心をし、2年の秋に防衛大学校を中退。「大卒の資格を取得するために一般大学に入りたい。卒業後はマスメディアに関わり、ドキュメンタリーを制作したい」そんな青写真を語り、4学年の先輩や若手指導教官、ベテラン指導教官らと数ヶ月間かけて話し合う。「就職面接のような関門を突破するために、自分の考えを練り上げ、ビジョンを明確にしたプロセスがなければ今の自分はない」と回想。「意思」を持たない“ロボット”から明確な「意志」を持った“人間”に生まれ変わる。同期の友人たちよりも絶対にいい人生を送ってやるんだ!という熱い想いは、20年来の原動力。

 

● 1997〜2001 20〜24歳  【2度目の大学生活】
「不条理に対する耐性を鍛える」防衛大学校での生活を経験したおかげでまったく苦にならなかった受験勉強を経て、大阪府立大学 経済学部に入学。体育会アルペンスキー部の活動の他、アルバイトにコンパにと、人生を愉しめる喜びを実感しながら、忙しくも充実したキャンパスライフを送る。

 

● 1997〜2001 20〜24歳  【人生の目標】
ケータイもパソコンも未発達の時代、防衛大学校での寮生活において、ラジオが外界とつながる唯一の手立てだった。そこから流れてくる音楽やパーソナリティの言葉に救われた経験をもとに、今度は自分が人に勇気を与えられる存在になりたいとマスコミ業界を志す。大阪府立大学時代はADのアルバイトをしたり、アナウンサー養成学校に通ったりとビジョンに紐付いた行動をとる。

 

● 2000 23歳   【就職活動】
第一志望だったマスコミ業界とは縁がなかったものの、就職氷河期にありながら、10社以上から内定を得る。面接では「学生時代に一番がんばったことは何ですか?」という定番の質問に「就職活動です。今が一番楽しいです」と返答。積極的に逆質問を投げかけたり、「今日を精一杯生きる生き方を防衛大学校で学びました」と語ったりと、就職という目的を忘れたかのように純粋に人生を愉しんでいる姿勢が評価されたのか。

 

● 2001 24歳〜  【社会人時代】
どんな形でもいいからマスメディアに携わりたいと、子会社にケーブルテレビ局を持つ大手電鉄会社に就職。同社が運営するテーマパークに配属され、イベント企画やショップ管理を任される。

 

● 2002.2.6 25歳  【ターニングポイント】
バイクで帰宅途中、黄信号で停車しようとした瞬間、後ろを走っていた大型トラックから激突されたらしい。目撃者いわく「バイクごと空中に放り出される感じだった。100 %死んだと思った」とのこと。意識不明、目を開いたまま右上方を見続けた状態で、ICUに運びこまれる。九死に一生を得るも、脳挫傷により意識不明の状態は継続。徐々に意識は回復していったが、1ヶ月ほどの入院生活の記憶はほとんど残っていない。

 

● 2002 春 25歳  【リハビリ生活】
リハビリのための通院生活を開始。記憶障害や集中力・判断力の低下などの認知障害、失語症、てんかん発作、幼児性など、頭に強い衝撃を受けたことで多くの後遺症が残る。小学校3年生程度の知能レベルと診断される。成年被後見人の認定を受け、親の世話になることに。

 

● 2002〜現在  【リハビリ生活】
脳外科や脳神経外科、精神科などを受診。対症療法として精神安定剤を服用し、怒りや興奮を抑制する。とりあえず薬を処方しておけばいいとでも言うような、なおざりな医師の態度に憤りを覚える。現在もリハビリのために、精神科への通院を続けている。別の精神科医から「この障がいは日にち薬やで」という言葉をもらう。

 

● 2002〜2003  【職場復帰】
運動機能の障がいは小さかったため、障がい者が多く勤める部署で職場復帰を果たすも、集中力が続かなかったり、聞いたことをすぐに忘れたりとまるで仕事にならない日々。挙げ句、苛立ちのあまり、パソコンを壁に向かって投げつけるなど、まともに社会生活を送れる状態ではないことを実感。ほどなくして退職する。

 

● 2003〜2006   【リハビリ生活】
親の介護を受けながら生活。事故の後遺症により、幼児性が際立ち、感情をコントロールできない自身を著しく持て余す。とりわけ「怒り」に関しては収拾がつかず、頻繁に精神科に運び込まれる時期が続く。家の壁をぶち壊したり、冷蔵庫をボコボコにしたり。後続車にクラクションを鳴らされたときには、後部座席のドアを開けて殴り込みをかけようとしたり、道でヤンキーを見かけたときは背後から飛びげりを食らわせたり。一方、嬉しいときには、着ている服を全部脱ごうとするなど、見境のない感情表現で周囲を振り回す。

 

● 2006 31歳  【劇団入団】
好きなラジオパーソナリティである妹尾和夫が座長を務める「劇団パロディフライ」第一期生となる。面接では「役者には興味ないですけど、妹尾和夫さんに会いに来ました」と、回らない呂律で「本音100・忖度0」の気持ちを伝える。後日、「リハビリという名目で、うちでやったらええ」と合格通知を受ける。

 

● 2007〜  【障がいからの回復】
芝居がまるっきりできない自身に愕然とし、喜怒哀楽の感情が一切湧いてこない自身に苛立ち、思い悩む。しかし、右脳を鍛える演劇のトレーニング(感情をコントロールするものや過去の記憶を呼び起こすもの、想像力とイメージを追求するものなど)を続けたことがリハビリ効果をもたらしたのか、自身の中に客観的な視点が生まれ、感情をある程度コントロールできるようになるまで回復を遂げる。

 

● 2010 35歳  【人生の目的】
これまで「運」に助けられて来たからか、「強運を科学する」と題されたセミナーに導かれるように参加。自分の人生の目的は「多くの人に感動を与えること」だと思い出す。原体験は、舞台終了後のカーテンコールの際、1000人近い観客からスタンディングオベーションを送られたときにかつてない興奮や快感を味わったこと。

 

● 2011 36歳 結婚  【人生設計】
出逢った投資家から「資産運用」という手段を伝授される。『役者活動を一生続けて行くために今すべきことは、「資産運用」で資産を増やしていくための知識と技術を身につけること。アルバイトなどの労働で生活費を稼ぎ出すのではなく、今のうちにお金に働かせる能力を手に入れることで稽古をする時間を確保すべし』という考え方が胸に刻まれる。イソップ童話を資産運用になぞらえた「金の卵を産むニワトリ」理論を教わる。

 

● 2016 40歳  【新たな人生】
妹尾和夫が主催する劇団を辞め、フリーで役者活動を始める。辞める際、10年間共に時を過ごした同氏に「僕の長所は何ですか?」と問うたところ、「誰とでもしゃべれること、障がいを持っていることの2つだ」という言葉を贈られる。

 

● 2018 42歳  【今後の課題】
「人生を愉しく。」をモットーに、できる限り「怒り」や「イライラ」を遠ざけること、心穏やかでいることに意識を傾ける日々。ブレーキを働かせようという意思はあるが、怒りを解き放つことで10年以上積み上げてきたものが崩れ落ち、たちまち昔の自分に戻ってしまうのではないかという恐怖心とうまく折り合いをつけることが今後の課題。

 

● 2018  【現在地・仕事】
生真面目で堅実な性分が作用していたのか、大手電鉄会社に就職後間もなく取得したファイナンシャルプランナーの資格が生きる。やりたいことを一生やり続けるためには安定した経済基盤が欠かせない。そんな考えのもと、実現性の高いライフプランに基づいた資産運用の方法を相談者に提案している。交通事故により常識や経験則を失ったことを逆手に取り、すべて「うさんくさい」という一言で片付けられがちな資産運用の意義を、セミナーなどを通して伝えている。

 

● 2018  【現在地・使命】
知り合いの社長が運営する芸能事務所「株式会社ルート」に所属。「心が揺れなければ、人は動かない」という前提のもと、その場限りの「感動」ではなく、感じて動く、つまり明日からの行動に変化が生まれるような表現活動を追求している。近年、自分から周囲を巻き込んでいくような新たな人格が育ってきた発端には、事故によって分厚い自分の殻がぶち壊されたことがあるのではと思うことも。

 

● 2018  【現在地・人生】
事故の後遺症とうまく付き合いながら、妻と6歳の娘、1歳の息子と4人家族での生活を送る。自身の体験から得た「人は成長する」という確信を力に、ダウン症の息子も絶対に成長できる、成長させてやると心に誓っている。