ライフストーリー

公開日 2017.2.5

Story

「人は人によって磨かれていくと思うんです」

RegettaCanoe 専務取締役 塙阪 貴司さん

自分のものさしで生きる

高校卒業後、塙阪は夜間の短期大学に入学した。まわりが就職活動を進めている中、ときおり家業を手伝っていた塙阪は、明確な意思もないままに父の後を継ぐことを決めた。

和歌山の貧しい農家で育った戦中生まれの父は、塙阪が生まれる前から大阪市生野区で建築装飾金物業を営んでいた。長男として仕事場を兼ねた自宅で働く父の背中をずっと見ていたことが、無意識のうちに義務感を植えつけていたのかもしれない。

ほかの会社での社会経験を積まないままに父のもとで働くようになったことも助長しただろう。その日が無事に過ごせればいい、という楽観的な考えで進めていた仕事は、後から振り返れば得ていた収入には見合わない生半可なものだった。

一方、仕事以外の時間の大半はパチンコ屋に入り浸る日々だった。休みの日は一日じゅう過ごし、平日は仕事が終われば直行する。負けたときの虚無感がもたらす「今度こそは辞めよう」という決意もむなしく、次の日には懲りずに台の前でハンドルを握っていた。人との関係を自ら遮断していたことも拍車をかけただろう、資金がショートするまでの1年ほどの間、パチンコは生活になくてはならないものとなっていた。

「高校時代の仲間に裏切られた(と感じた)ことで人間不信になったというか、心を閉ざしていったように思います。彼らとの時間はきっと、「仲間と過ごせる日々がずっと続けばいいのに」という僕の願望が作り上げていた幻だったんでしょうね」

突如として泡のように消えた幻を、塙阪は短大時代、同じような集団の中で追い求めている。が、二の舞を演じることはなかった。あるとき、自分を偽ってまで存在承認を得ようとする自分自身にふと気づいたのだ。自分を裏切ったのは仲間ではなく幻だと自覚したそのとき、塙阪は23歳になっていた。

そんな自分から脱皮したくて、他人をあえて遠ざけながら父のもとで働くこと約2年。年を追うごとに不況の煽りを受けて仕事量が減ってきた状況が幸いしたと言うべきか。このままでは仕事が続かないし、いまの自分自身にも納得できていない……。身体を浸していたぬるま湯から抜け出させたのは、そのとき芽生えた危機感だった。

かくして平日の夕方からは飲食店で、日曜日は朝から晩までガソリンスタンドでアルバイトをしたりと、塙阪は家業の仕事が減ったぶんの生活費を補填するために働くようになる。

その流れのままに、自分で道を拓いていかなければと、風前の灯となった父の会社をきっぱり辞めたのは20代後半頃のこと。アルバイトとして就いた仕事は、マグロなどの鮮魚を配達する運送会社のドライバーだ。朝5時から働く日もあれば、深夜2時から働く日もあるなど、不定期な労働時間の中で、大阪や京都を中心として走ること200km/日以上。いまの「仕事にストイック」な塙阪が産声を上げたのはこの頃だったかもしれない。

ドライバーの誰もが「道が複雑すぎて、絶対に覚えられない」と口をそろえる京都の道を覚えたことはその一例だ。運転する先輩ドライバーが話したことを助手席で逐一書き留めながら描いた目的地の周辺地図は、目にした同僚が一も二もなく納得するほど緻密で正確だった。塙阪が京都のみならず、仕事に必要なすべてのルートをいつしか完璧に覚えていたのは、メモとメモの確認をなおざりにしなかったからだろう。とはいえ、塙阪自身には特別なことをしている感覚はまるでなかった。それでもなお京都の道は難しいと感じていた塙阪にとって、メモをとらずに頭で処理しようとする周囲のやり方では覚えられなくて当然だった。

能力面はもとより、仕事への姿勢も評価されていたからだろう。社長や先輩からかわいがられていた塙阪は、誰かが休んだときには穴を埋める役割として存在感を発揮。1週間ほぼ休みなく働くなど、会社には欠かせない人材になっていったのである。

「お金をもらうのであれば、それに見合ったことをせなあかん、という気持ちはありましたね。いまでも、必要な情報はノートに書くか、ボイスレコーダーに録音するかして、絶対に残す習慣は続けています。だから、会社の若い子らにも「人から聞いたことはちゃんとノートに書きや。同じことを訊くのはやめよう。人間っていうのは寝たら忘れるもんやから」とよく言っているんです」

だが塙阪は、その会社を2年ほどで退職する。会社に対する不満はこれといってなかったが、一生やりたい仕事だとは思えず、もやもや感が絶えずつきまとっていたというのが大きな理由だった。

自分のやりたいことを探す旅は続いていた。そこでマリンスポーツを始めたのは、趣味をやりたいことにしようと考えたからだ。同じ趣味を持つグループのメンバーと、毎週土日、三重や高知、冬は日本海などに行き、いろんな人と交流するのが楽しかった。それでも5年ほどで離れたのは、リーダー的存在と相容れないものがあったからである。「しんどい仕事をして溜まったストレスを趣味で発散する」という彼の価値観が肌に合わなかったのだ。

「もちろん人それぞれの考え方があるので否定はしませんが、好きなことを仕事にするのが普通と考えていた僕とは、仕事観が根本的に違っていたんでしょうね。だから正社員になろうと考えて仕事を選んだことはありません。ミニッシュにアルバイトとして入社したのも、インターネット関連のスキルを身につけることが目的でしたしね」

見つかった「やりたいこと」

高校時代に得られた仲間との関係性は中学時代、鉄仮面の下で描いていた理想が体現されたものだったのかもしれない。幼い頃より、心の奥底ではたえず望んでいたものが手に入ったのかもしれない。仲間たちとの関係性を続けていたのは、目の前の幸せを壊してしまうのが惜しかったからだろう。

「雇ってもらった以上、頼んでよかった、おってもらわなあかん存在になりたい。ミニッシュに入社したときもそう思っていたけど、存在承認は僕にとって大切なテーマなんでしょう。「おはようございます」「おやすみなさい」といった挨拶にしても、ルーティンとしてするものじゃない。相手から承認を得るためにする、意味のある行為だと思っています」

そんな塙阪について高本は言う。「細やかでかゆいところに手が届く、いわば優秀な部活のマネージャーのような存在です。機転が利くタイプではなかったけど、一度やったことは確実にものにしていくし、こちらが欲しいものを先回りしてサッと用意してくれるようにもなった彼を見ていると、40歳でもまだまだ成長するんやなと思わされます。休みの日も必ず会社にいるし、たとえ時間はかかっても手がけたことは何とかしてやり遂げる、侍のようなサイボーグのような奴でもありますね(笑)」

父の会社で働いていた20代の頃、5mmの寸法ですら誤差を許さない父とはよくぶつかった。そのくらい目をつむってもいいじゃないか、と思っていたからだ。

「でも、今ならその5mmにこだわる父の気持ちがわかります。むしろ父親以上にこだわるかもしれません。そういった自分への厳しさも、この会社で働く中で身についていったものなのかなと思うんです」

といっても、塙阪も人の子である。初めての海外に浮かれていたのだろう。2011年7月、ミニッシュのブランドであるカヌーがラスベガスの展示会に出展するに際し、事前の下調べなどの準備をほとんどすることなく、視察に同行していたのだ。

そのとき塙阪は、いつしか自分で切り拓こうという意志がなりを潜め、人に機会を与えてもらう状況にあぐらをかいている自分を自覚した。と同時に、自分で考えることをしなくなると成長が止まる、という危機感を覚えていた。

「意欲のある人にはどんどんチャンスを与えようとする高本の意図に気づかなかったんです。そういう自分の経験から思うようになったのは、成長できない人は誰かに依存しているか、自分で限界を決めているか、あるいは仕事を選り好みしているということ。で、(この会社で)それに該当する人はいずれ居場所がなくなって退職するだろう―という哲学は、自分への戒めとしても日頃から心に留めているんです」

それゆえ、甘えや依存心を感じるスタッフにはこう注意することもある。

「この会社は雨やどりするところちゃうで。成長するのは会社もそやけど、自分のためでもあるやろ? お金を貰っているだけが人生じゃないんじゃないの?」

『「どうしたらいいんですか?」と訊いてくるんじゃなくて、あなたはどうしたいか、もうちょっと考えた方がいいんじゃないの?』

塙阪は言う。「そこは口酸っぱく言っていますし、自分にも言い聞かせています。そんな僕のことを人は「ストイック」だと言うけど、僕にとっては当たり前のこと。だからかどうか僕には友達がいないし(笑)、それぞれがちゃんと自分の足で立っている戦友というか仲間さえいればいいのかなと思っています。そう考えると、中学時代の「孤独」という呼び名は、的を射ているのかもしれませんね」

RegettaCanoe代表の日吉慶三郎は言う。「リゲッタカヌーを立ち上げる際に、僕の右腕としてサポートしてくれた彼は、僕とニコイチのような存在です。どちらかと言うと、ちゃらんぽらんでどんぶり勘定な僕とは対照的に、いい意味で潔癖症な彼は、ある意味僕の一番の引き立て役かもしれません。その一方で、僕ら(のような目上の人間)には見せないお茶目なところも若いスタッフには見せていると聞いています」

「若いスタッフからは、そういう僕の姿はギャップが激しくて戸惑うと言われます。すごく情に厚くてあたたかい“ウエット愛”の持ち主である日吉とは違って、僕のは“ドライ愛”。(笑)そんな二人が経営陣にいることで、この会社はうまくバランスが取れているように思います。僕は情に流されると会社が潰れてしまうと考えているけれど、それが必ずしもいい方向には働かないことも念頭には置いているんです」

2007年に入社した塙阪がミニッシュで過ごす日々は、10年目を迎えている。

「履物を通してお客さんに喜んでもらってることがひしひしと伝わってきて、もっと喜ばしたい、喜んでもらいたいという気持ちが自然に湧いてきたんです」

とりわけ印象深く残っているのが、2014年春、4ヶ月の期間限定で出店する吉祥寺パルコ店(東京)のスタッフとして即売会で接客したときのことだ。自分に合った靴を探しあぐねているという盲目の客が、試し履きしたサンダルの履き心地に感動し、即座に購入を決めたのである。

「目が見えている人以上に感覚は敏感であろうその方に感動してもらえたことがとても嬉しかったのと同時に、感動を与える商品をもっともっと発信していかなければならないと感じたんです」

業務の一つとして知的財産の管理を担っている塙阪だが、ブランドを守るべく素人なりに知的財産権について勉強しはじめたのも、「偽物を正規品だと勘違いして買われた人の気持ちを想うと、何とかしないといけないと思ったから」。リゲッタカヌーの前身・カヌーの売上が飛躍的に増加するにともなって、知名度が上がっていった当時は、国内外問わずコピー商品が大量に出回っていた時期だった。

「この会社で10年ほど働いてきたのは、まだ『あしもとから世界に喜びと感動を◯◯◯』という企業理念が定められていない段階より、それと合致するような目的を見出していたからなのかもしれません」

若かりし頃の塙阪が、アルバイトを転々としながら求めつづけた「やりたいこと」の実体は、自分の働き方、そして生き方への納得感だったのかもしれない。幾つかのアルバイト先の会社から「正社員にならないか?」と声をかけられても気持ちが動かなかったのは、それを望んでいない己の心に正直だったからなのかもしれない。

「鮮魚の運送屋で働いていたときしかり、マリンスポーツを楽しむ人たちのグループに混ざっていたときしかり、まわりは僕のことを認めてくれていたかもしれないけれど、胸にあったのは、なにかが違うという言葉にならない違和感だけでした。

その答えがようやくわかったのは、ここ最近のこと。やっぱり、人は人によって磨かれていくんでしょうね。僕が求めていたものは具体的な職業でもなければ、何らかのスキルでもない。生まれた以上は死ぬまで学びつづけ、学んだことを次世代に伝えていきたい、という生きる指針であり目的だったんです」