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豊かな食卓をめざして
「!」「!」「!!」「!?」「!!」「!」「?」……。
なじみとなった幼稚園に野菜を届けたとき、園児たちの言葉にならない心の声が、教室をつつむ歓声を縫うようにして植田の耳に届いてくる。先が二股に分かれた大根、葉っぱつきの玉ねぎ、外葉を纏った大きめのキャベツ……。目を輝かせる園児たちの視線を一身に集めるのは、植田プロデューサーの一存によって脚光を浴びた変わり種の野菜たちだ。
大阪府最北端の能勢町で暮らす植田は、週に一度、その時々にとれる5種類の野菜を詰めた「わくわく野菜宅配便(以下、野菜宅配便)」をみずから注文客のもとに配達している。出荷期間は、おおむね5月の頭から2月の終わりまで。宅配日は週に2日。注文客が増えてきたおかげで、10時~20時、21時までずっと車に乗りっぱなしというのが現状だ。もっとも遠い配達先は自宅から40kmほど離れているが、作ったものをみずから届けるプロセスは省きたくないという。
「野菜宅配便」によって届けられる野菜は年間を通して約60種類。トマトや大根、にんじんなど誰もが知っているものから、スイスチャードやかつお菜、スナップエンドウなど、耳慣れないものまで。さらには、球レタスにサニーレタス、半結球レタスにロメインレタスと、レタス4兄弟も顔をそろえる豊富なラインナップはべじぱの売りのひとつである。
配達する5種類の野菜の内訳はおまかせのため、注文客から「何が届くかわからないので楽しみ」という声もあがる。開けるまで中身のわからないお楽しみ袋のような“野菜のアソートパック”に「!」や「?」は詰まっているのだ。
「一般的な農家さんは、糖度や収量など、野菜だけの価値で比べてしまいがち。でもぼくは、能勢の風景やバラエティに富んだ品目も含めて、トータル的にお客さんに楽しんでもらいたいと思っています」
べじぱのコンセプトは「野菜発見!」だ。
「自ら育て、加工して。
美味しさ発見。育て方発見。疑問を発見。
それを皆にも知って欲しい。
昨日も今日も野菜が気になる。」
「いろんな野菜があることを知ってもらうこと、おいしいと思ってもらえることで、生活にメリハリが出たり、食卓での話題が豊富になったりすると思うんです。生産現場と食卓を近づけることで、食べる時間の密度は濃くなりますから。
一方で、それがどんどん離れていくと、食事が他人事のように思えてきて、結果的に食べることに興味がなくなっていったり、「野菜がきたない」というようなクレームにもつながっていったりするのかなと。
だからぼくは、定期便のなかに「楽しい」とか「おもしろい」とか「発見がある」とか、いろいろ詰め込みたいなと思っているんです。理想は都会で暮らしていても、想いを馳せたりしながら田舎の雰囲気を楽しめること。みんなが田舎に住めるわけでもないですから。
お客さんは当然、うちの野菜だけでは日々の食材のすべてを賄いきれないでしょうけど、それでいい。スーパーとかから買う野菜の中に、週1日、入れてもらえれば、スーパーの野菜からも、もうすこし人間味を感じられる気はするんですよね」
既成概念から飛び出したくて
高校卒業後、植田は立命館大学経営学部に進学している。しかし、まともに通ったのは最初の半年間だけである。その後、中退するまでの1年半のあいだ、学生生活の大半を居酒屋のアルバイトに割いていたこともあり、植田はほとんど学校に行っていない。実質的な身分は、大学に籍を置くフリーターだった。
この仕事は一生続けていく仕事ではない。そんな思いで居酒屋を辞め、「遊べる本屋」ヴィレッジヴァンガードの販売員となったのは20歳のときだ。時給は相当安かったが、かねてからよく通っていた好きな場所で働いてみようという気持ちが勝ったのである。
「本や映画、音楽に雑貨など、多様なジャンルのものに触れられることが楽しかったんです。販売員だったけど、接客らしい仕事はほとんどしなかったですね。今はわからないけれど、当時のヴィレヴァンでは、一風変わった店員が仏頂面でレジにいる、みたいな感じでよかったんです。ひとことで言えば、サブカルの世界ですよね」
奈良県出身の植田は「父親がサラリーマン、母親が専業主婦という典型的な昭和の家庭」のもとで生まれ育った。ちゃんと勉強していい大学に行くのがいいという方針のもと、親の意向で塾通いをはじめたのは小学校高学年の頃のこと。不合格に終わり公立中学に通うことになったが、私立中学を受験した。進学校の私立高校に入ってからも予備校に通うなど、10代の時間の多くを敷かれたレールの上で過ごしてきたのである。
植田の胸には、早くからその流れに乗ることへの反発心がくすぶっていた。そこから脱出したいという一心で机に向かい、好きでもない受験勉強に励んだ、といっても過言ではない。滋賀にある立命館大学を筆頭に、志望校をみな遠方の大学に設定したのも、家から出る口実が欲しかったからである。
よほど溜まっていたのだろうか。「みんなと会えてよかった」「文化祭、体育祭が楽しかった」などという内容が並ぶ高校の卒業文集に「大学に受かってよかった」と書いたことを、植田は今でも覚えている。
「大学受験に失敗して、浪人が決まっている人もいるわけやから、あとから思えば最悪ですよね。(笑)当時の自分の眼中には友達のことなんて一切なかったんです」
立命館大学経営学部「起業家養成コース」に入ったのも、「サラリーマン」の対義語として「社長」を思い浮かべたからだった。しかしいざその世界に身を置いてみると、違和感を覚えた。ベンチャー企業のインターンシップで社長のカバン持ちをしたときにも、描いていたものとは違う現実に幻滅する。傍目には好きなことをやっているように見えるけど、株主や銀行、お客様を優先して自分は犠牲にならないといけないのか――。
まだ20歳にもなっていない頃のことである。ビル・ゲイツや孫正義など、功成り名を遂げた人物の伝記を読みつつ膨らませていたたわいない夢は彼方へと吹き飛んでしまった。しかしそれに取って代わるように、たとえば商店街の一角に店を構える、小さなお店の店長になりたいという青写真が浮かび上がっていた。
当時、いずれ雑貨屋のような店を開きたいとおぼろげながら思い描いていたことが、その後、ヴィレヴァンで働くようになった理由のひとつである。かつては言葉にならなかった好きなことを仕事にしたいという思いも、意識の表層に浮かび上がってきた頃だった。
それから10年あまり。べじたぶるぱーくの屋号をたずさえて、個人事業主に近いかたちで仕事をしている今、当時の思いをそのまま現実世界でかたどったような生き方、働き方をしている植田だが、能勢に移住して本格的に農業をはじめた頃は、そんな過去のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
そもそも植田は「農業」をやりたかったわけではない。23歳くらいの頃、宅配ドライバーとして勤めながら、週に1、2度のペースで、能勢の有機農家のもとに通いはじめたのは、家庭菜園をやりたかったからだ。ヴィレヴァンでの販売接客、宅配ドライバーの経験を通して、「販売」「流通」の源にある「生産」にたずさわりたいと思うようになっていたのである。
しかし途中で気づいたのは、週末農業のようなやり方では作物を育てるのが大変だということ。まいにち面倒を見られるうえに、自分が食べたいものを誰かに届けられるのはええことやないか。そんな単純な発想で、植田は25歳のとき、2年半ほど勤めた宅配業者を退職。べじぱの礎となる「食べものをつくり、届けること」を生業にする流れに向かっていったのだ。
「だから、生産から販売まで一手に担おうという意思や戦略性があって、こうなったわけじゃない。農作物を市場に卸して流通させるという一般的な農家のやり方はわからなかったし、考えもしなかった。でも逆に言えば、形とか先入観にとらわれていないぶん、できたことだったのかなと。とはいいつつも、慣行農業はやりたくないと心のどこかで思っていたのかもしれません」