Profile
※ GHTとは、グレート・ヒマラヤ・トレイルの略。2011年10月に開通したネパールのトレッキングルートを指す。ヒマラヤ山脈を貫くロングトレイル、総延長1,700kmの山岳ルートと総延長1,500kmの丘陵ルートがある。
「GHT Project 」とは、GHTを踏査し、GHTのみならず、知られざるネパールの辺境地域の魅力を日本国内に紹介するというプロジェクト。主な目的は、日本のアウトドア愛好家に新たなヒマラヤの魅力を伝えること、観光客の増加による僻地の経済発展に寄与すること。
新たな人生を歩み始めて
今から約10年前。飯坂の人生は転機を迎えようとしていた。
「世界を見てきた人たちの言葉や表情に憧れてというか、こんな人間になりたいという思いが僕の出発点だったように思います。いわば、何者かになろうとして走り始めた時期なんです」
大学3年、21歳の時 、飯坂は初めて一人旅をした。行き先は石垣島。そこでは、同じく旅をしていた人をはじめとした「普段の生活では絶対会わない人たち」との出逢いが発端だった。
一人旅のおもしろさに気づいた飯坂は、22歳の時、初めて長期の旅に出る。カメラを片手にアジアを中心に回ること7、8ヶ月。軍資金はアルバイトで調達した。日本を発ったのは大学4年の2月。秋学期の最後の期末試験が終わった日の翌日だった。
卒業式の日、飯坂はネパールの山の中にいた。電話で「卒業おめでとう」と伝える母は泣いていた。
「日本を出発するときは遺言を書いて行くくらいの気迫がありました。だから当時はよく言われたんです、「見ててヒヤヒヤする」と。親や友達には心配をかけたと思います。きっと自信があったんでしょうね。自分が危なっかしいというか生き急いでいるという自覚もありましたけど」
写真で生きていくと決めたのはその旅のさなかだった。
「旅に出て写真を始めたことでそれまでの人生がすべてリセットされたんです。かといって、「それまでは自分じゃなかった」という言い方もイヤなんですけどね。僕にとってはある意味「旅や写真を始めた時期=自分一人で歩き始めた時期」。以降、旅をして出逢った人や被写体となった人の言葉や人生観に触れて「(人生は)こうあるべき」「こうありたい」というものを徐々に形成していったんです。
なかでも一番大きかったのは、死生観というか死ぬことを認めたこと。死が怖くないと言えば嘘ですけどね。
ただ、死は自分で選ぶものじゃないし、いつ訪れるかわからない。それを知った自分の中に「今日は後悔しないように生きよう」というパワーが生まれてからは、色々とつまづいたりすることがあってもすぐに元に戻るというかポジティブになれるようになった。だから、ほんとに強くなりましたよ」
写真を始めて10年。当初、掲げた目標は一度もあきらめたことがない。その「強さ」の礎は大学時代に築かれたものでもあった。
法政大学経済学部に在籍していた飯坂は、丸4年間準硬式野球部に所属していた。
「自分にとって追い込んでやりきりたいものは、小学校の頃からずっと野球だったんです」
飯坂は中高時代ともに、とりたててスポーツに力を入れているわけでもない学校の野球部に所属。中高ともにレギュラーメンバーに名を連ね、高校時代には主将を務めた。
(高校では)完全燃焼できていないから、このままでは終われない…。そんな思いが、大学でもチャレンジしようという意志を飯坂の中に生み出した。
「僕は甲子園に出ているわけではないし、一般で大学にも入っている。かたや、大学の野球部のメンバーのほとんどは甲子園を経験している。レベルの差を実感しました。初めて「控え」も経験しました。屈辱とまではいかないけれど、悔しいというか耐えなきゃいけない時間でした。
でも、そうなることも頭に入れた上でのチャレンジだったんです。実際、チームで一番練習しました。諦めずに努力を続けた結果、ちょこちょこ試合に出られるようにもなりました。自身の強みとして伸ばした脚を買われた代走での出場が中心でしたが、公式戦でホームランも2本打つことができました。
95%は自分の理想からかけ離れたけれど、残りの5%くらいは叶ったんです。その経験を通して「自分を信じてやり抜くこと」の大切さを知りましたし、すごく大きな支えにもなっています」
「外」から「内」へ
長期の旅に出るため日本を発つ時、飯坂の目はどちらかというと「外」に向いていた。
「もっと世界を見たい、確かめたい。そして、世界がよくなるようなことを何かしたいと思っていたんです」
国際貢献のようなことに興味のあった飯坂は、大学時代にJICAの試験を受けようとしたこともある。
「当時は日本や東京、自分の近くにいる大人に対して若干ネガティブになっていたんですよ。実際、「世界はいい。世界はいい」という言い方もしていました。
でも、旅をしたことによって、その時の感情を短縮した言葉では語れないけれど、「(人に)何かをしたい」という考えを根本から覆されたというか、出逢った人々からエネルギーをもらったんです。それが悔しかったというか、この人と同じくらい自分もいい顔をして生きたいと思うようになったんです。
ただ、(人道的なこととかを通じて)誰かの役に立ちたいという思いは薄れてはいても、消えたわけではありません」
22歳の飯坂が大きく人生の舵を切ってゆく直接的なきっかけは、ずっと一緒に暮らしていた「祖母の死」だった。
「写真を撮る際、自ずと関心が向いたテーマは死生観で、被写体として自然と心惹かれたのは一生懸命生きようとしている人。写真と出逢ったことで写し鏡を持てたんです」
幼い頃に父を亡くし、母は働きに出ていたため、祖母は飯坂にとって母親代わりの存在だった。大学時代は、祖母の介護に多くの時間を費やし、最期には「あんたは、あんたの人生を送りなさいよ」と笑顔で告げられた。そんな過去は、「帰国後は医療ソーシャルワークや介護関連の仕事をしよう」という漠然としたビジョンへとつながってゆく。旅という選択をしたのは、「誰かからの相談や援助に答えられるだけの人間的な幅や引き出しを持ちたかった」からだ。
実際、飯坂は帰国してから半年強の間、老健施設で介護職員として働いている。
「写真と出逢ったので軌道修正する形になりましたけど、やらずに通り過ぎていくのはイヤだったんです。
でも、働いているとどこか「共依存」状態に陥っている自分がいました。失くした存在をリンクさせながらというか、過去を整理し切れていないまま仕事をしているような状態でした。仕事を辞めたのは、このままでは自分が壊れてしまうかもしれないとも感じたからです。人の命を預かっている重みというか、常に自分を出し切って向き合っていなければ、対峙できなくなるくらいに壮絶な現場だったなと。
とはいえ、未だにいい仕事だと思っていますし、写真と出逢っていなければ今も続けていたかもしれません。今すべきではないと思うからやっていませんが、いつでも再開できるとは思っています」
「写真家になるんで辞めます」との言葉を残して老健施設を辞めた飯坂。その際、飯坂は施設の利用者たちから思わぬ後押しを受け、人生で初めてうれし涙を流した。
写真で生きることは決めていたものの、どういう写真を撮るかは定まっていなかった。
「フォトジャーナリストや戦場カメラマンみたいな仕事にずっと興味がありました。(今もあります。)そういう方向で行くか行かないかずーっと迷ってきました。最近少し落ち着いているのは、「日常」や「生活」を撮りたいとより強く思うようになったからでしょうか。
この世に戦争がなければ戦争カメラマンの仕事ってないじゃないですか。大学の頃から戦争を含めた世界情勢に関心を持って見続けているけど、どうしようもなんなくて無力感に苛まれるみたいなことを繰り返しているうちに、日常を撮ってみんな同じ人間なんだというか、みんなに日常があるんだということを伝えられるメディアになりたいなと思うようになったんです。その方が僕にとっては大切なドキュメンタリーだなと。
やっぱり、自分がまず生きていることが前提。これまでも親や友達からは「危ないところに行ってくるのは辞めてね」と何度も言われてきました。下手をしたら自分の命も一瞬で吹き飛んでしまうというリスクを負ってまでやりたいという熱意みたいなものは僕にはありません。とはいえ、今年もヒマラヤに行っていますし、一切のチャレンジを控えようというわけでもないのです。
実際、チャレンジしようという精神自体は10年前からずっと変わっていません。変わったのは、リスクヘッジができているかどうか。20代前半頃は、自分に対して盲目的で、悪気はないけど自分のことしか見えていなかった。一方、今では危ないかどうか、経験を糧として冷静に状況を判断するもう一人の自分を立てられているんです」
アジアを旅する中で、「外」に向いていた目が徐々に「内(日本)」へと向くようになっていたことも理由のひとつだ。
「途上国もそうだけど、まず自分の国を知らないなと。それが悔しかったんです」
24歳の時、飯坂が3ヶ月かけて自転車で日本を縦断したのも日本を知るためだった。
「でも、そんなのじゃ何にもわかんないわけですよ。もっと深いところに入っていかなければわかった気にもなれない」
その後、アウトドアメーカーで2年働いたのち、縁あって飯坂は山形県飯豊町に通うようになった。26歳の夏には約2ヶ月間、飯豊山の山小屋(避難小屋)の管理人も務めた。「田舎(地方)で生きるとはどういうことなのかをまず見てみたい」飯坂の胸の裡にはそんな思いがあった。その2ヶ月間の滞在をきっかけに「長く付き合っていきたい」場所へ。何度か通ううち、「ライフワークとして撮る」場所へ。飯坂の中で、「山形」の持つ意味は時とともに変わってきた。
「初めて一つの場所に深く入り込み、撮らせてもらった場所です。地元の人たちとのつながりがあるから、長く関わっていられる。今も地元の若者たちは「いつ戻ってくんの?」と声をかけてくれます。実際、影響力はあったのかなと思うし、自分たちがもっと考えなきゃいけないんじゃないかという問いを彼らに課せられたとも思います。
自身のルーツをたどれば、東京生まれの埼玉育ち。(両親の生まれは地方だったりするけれど)ふるさとのような場所を持たない僕にとって、田舎に生まれ育ち、守るべき伝統や文化がある人たちがすごく羨ましかった。僕は土くさいとかって評価されたりするものがかっこいいと思っているし、信頼しています。今も手がけている地方の広告写真などを通して、そこに生きている人たちの温度を撮って、伝えていきたいですね。
とはいえ、田舎に育った人が東京に出たくなる気持ちももちろんわかります。だから、田舎を美化するつもりはないですし、ちゃんと現実の厳しさと向き合った上で伝えていきたいなと」
飯坂は今年10月半ばから11月末まで、ヒマラヤを歩いてきた。「そこで生きる人々の生活を撮る」という目的は、山形を訪れるときと変わらない。
「なくしたものを追いかけているわけじゃないけど、「地方」や「家族の風景」といった自身のテーマは、かつて手の中になかったいわゆる「普通の生活」への憧れからきていることは確かでしょうね」