ライフストーリー

公開日 2014.9.1

Story

「小国町で生きてきたことに、後悔はないんです」

森林インストラクター 舟山 功さん

「われ先に光を求めて、水を求めて…と自然界も人間社会と同じように競争によって成り立っている部分がほとんど。人間社会では「蹴落として」と表されることが自然の仕組みのひとつとして「自然」に行われているのです。

森の中には、真っ直ぐ天に向かってすらっと伸びているスギのように、何の苦労もなくて育った木もたくさんあります。一方、雪にいじめられて、痛めつけられながらも、競争に打ち勝って大木となった木もある。その中でも当の水楢は、一般的に育ちにくいと言われるブナの原生林の中で、ブナと比べれば雪に弱い(重さに負けて折れやすい)というハンディキャップを乗り越えて強く大きく育っています」

そもそも、舟山が暮らす小国町は全国的にも有数の豪雪地帯と言われている。舟山がよく「会いに行く」水楢が生えている付近においては最高5mの積雪を観測する。
「やっぱり、まるっきり自然の中で育つというのは大変なことですよ。だからこそ、たくましく生きてきた木に対してはひと際思い入れがあります。敬意を表したいとも思います。ヘコんでいる時にはほっとするのと同時に、自分なんてまだまだだな、見習わなきゃなと感じさせてくれます。悩んでいる時には「何やってんだ、大したことねぇべ、きっとうまくいく」と語りかけてくれるから、自身の悩みのちっぽけさに気づいてアホくさくなる。

いや、若い頃も「ミズナラ」の存在は知っていたし、当時もスゴい木だなとは思っていたんです。でも、病気をした後とそれ以前では思い入れ具合が違うんですよ。

だから、「うつ」になったことは私の人生における転換点。逆に言うと、それまでがあまりにもトントン拍子にいきすぎていたのかもしれませんね(笑)」

2011年3月、会社を定年退職した舟山は、翌12年からNPO法人・ここ掘れ和ん話ん探検隊にて勤務するようになった。だが、昨年(2013年)には頸椎の特定疾病に罹患。個人ガイドなどの野外活動を休止し、所属していた組織もいくつか退会した。
「病名を聞いたときは愕然としました。さぁこれからという段階で腰を折られた感じでした。でも、今後も変わらずガイド活動を続けます。「源流の森協会」「地域の体験活動」「セラピー」の三本に関しては辞めるつもりはありません。それに加えて、若い人の育成にも取り組みたい…ということは昨年病気になったことがきっかけでより強く思うようになりました。現在、私は63歳。長くやってもあと6、7年でしょうから」

 

小国で生きてきた日々

「昔は今のように好きなことをできませんでした。というのも、長男として、ここにいて家を引き継いでいくのが使命みたいなものでしたから」

遡れば舟山は、姉と弟、二人のきょうだいを持つ長男として生まれ育った。舟山家は代々農林業を営んでいたが、祖父と父が早くに亡くなったことにより、母は女手ひとつで三人の子供を養うことを強いられ、舟山も「労働力」として小学校の頃から家の仕事を手伝っていた。そんな中、舟山は長男として家を継ぐために、中学卒業後、山形県立農業経営研修所(現・県立農業大学校)に入学。1年間の学びの後就農し、水田1.2ha、山林12haを管理するようになった。1967年、16歳の時のことである。

だが、折しも当時、急激な経済成長に伴う産業構造の変化と共に、農業を取り巻く環境も大きく様変わりしようとしていた。機械化の進行とともに、大規模化、効率化の波が襲来。専業では生活が成り立たなくなっていった小規模経営農家は「機械貧乏」を避けるため、軒並み大規模農家に土地を貸すようになった。ちなみに、1960年には日本全体で208万戸あった専業農家も、65年には122万戸、70年には83万戸と急速に減少している。

そんな中、舟山家が管理する田んぼでも(機械化にあわせて)基盤整備が実施されることが決定したのを機に、母は息子にこう告げたのである。「功や、このままで将来飯食ってけんのか、考えてみっちゃ。企業に身を投じて、弁当ひとつでお給料を頂けるのが一番いいんじゃないか」

事実、サラリーマンとして生きる者には、強い追い風が吹く時代だった。その後舟山が入社する東芝グループの(株)東芝セラミックスでも規模拡大に伴う大量の若年労働力の確保が行われていた。
「母親が苦労して子育てしているのを私はずっと傍で見てきたわけです。だから、感謝の気持ちをこめて、お袋の言うことをまずは聞き入れたんですよね。

お袋もやっぱり憧れていたんですよ。自分は手作業で田んぼの仕事をやってしんどい思いをしているのに、かたや近所の人は勤めに出ていてラクそうだと。当然会社に勤めれば大変なことはあるんだろうけど、彼女には(私自身も)そういうことが見えなかったんでしょう」

そんなこんながあって、舟山は地元で少なくはない「農家からの転向組」の一人として兼業農家の道を歩み始めることとなったのである。
「私有林の中には植林してまだ2、3年という場所があったし、手入れしないとダメになってしまうところもありました。長男としての責任を果たすためにというか、「先祖が残してくれたものを次の世代に引き継ぐ」ことは当時の“常識”。だから義務的にというか、しかたなくというか。22、23歳の頃に結婚したのも、親父がいないから早く身を固めなきゃならないとの思いがあったからです。

その後3人の子供ももうけ、世間並みの幸せは手中にありました。本業の仕事においても、それなりにモノづくりが好きな性分も手伝って、順調でした。

ただ、「長男であることの使命」に甘んじていたところもありましたよね。確かに、家業はつい後手後手に回りがちだったものの、ないがしろにもできないとそれなりに一生懸命やっていました。でも、家に残ることは自分で決めたこと。本気で家を出てやりたいことをやろうと思えばできたし、自分はやれなかったわけです。裏を返せばそこまで情熱を持てるものがなかったとも言えます。よく言えば責任感があった、悪く言えば意気地がなかったということでしょう。(笑)

とはいえ、あの時あぁしとけば…というような未練や後悔はないし、今ではそれもそれでよかったんだなとは納得できています。

20年前も「うつ」になったことで、いわば出世街道から足を踏み外したわけです。今なら笑って話せますが、部下50人(うち8割が20代の若い女性)を束ねるとなるとほんとに大変でした。ただ、やっている人はやっているわけで、私にはそれだけの度量がなかったと言わざるを得ない。(笑)

でも、そこでつまづくことがなければこういう道には入っていなかったはず。まぁ、どっちがいいかなんてことは言えないかもしれないけれど、今ではそれでよかったのかなと思いますね。こういう分野で自分自身を使えたわけですから」

舟山が小国町で生まれ育った子供たちと自然体験活動を通じて付き合うようになって約15年が経つ。今では、高校や大学を出て就職した者もたくさんいる。体験活動中、舟山はいずれ大人になる彼らによくこう話すという。
「都会で働くようになっても、疲れたら必ず帰って来い。小国町でモノを食べたり何なりして休んでいけ。欲を言えば森の中に入れ。癒されるし、心が浄化される。するとまた働く意欲が湧いてくるから」