Profile
※ 約8,000字
わからなかった身の程
おれはこんなもんじゃない、まだまだやれるはず―—。
20年以上前、19歳の藤尾は、いくらがんばっても成果の見えない職場で働くことに失望しながら、埋もれてしまいそうな不安と闘っていた。
府立高校を卒業した藤尾が、新卒で大手飲料メーカー・A社に就職したのは1994年のことだ。与えられた業務は、トラックに積んだ缶・ペットボトル飲料を担当地域の自動販売機に入れていくルートセールス。課せられたノルマに追われ続ける日々のなかで、「仕事を辞めたい」と思うようになったのは入社してから半年ほど経った頃のことだった。
「僕の頑張りが足りなかったのかもしれないし、そんな環境でもやりがいを見つけられない自分が弱かったのかもしれない。事実、病院やパチンコ屋に足を運んで自販機を設置してもらえないかと営業に回る、市場開発部という部署に志願して行くこともできたわけです。なのに僕は、その道を選ばずに管を巻いているだけだった。
でもそれは後になってから気づくこと。当時の僕は、まず社長の顔が見えない環境、モーターではなく歯車にしかなれないピラミッドの末端で働くことに嫌気が差していたんです。
目立った評価を得られていない自分が嫌で、リセットしたいという思いもありました。今もしタイムマシンでその時に戻れるなら、「いやいや、そんなもんやで、おまえ。力出し切っとるよ」と言うでしょう。でもそこに尽きると思うけど、自分の実力を過大評価しているという自覚はまるでなかったんです」
それでもA社で5年半勤め続けられたのは、男子校さながらの職場環境における人間関係がよかったからだ。金曜日の夜は毎週のように飲みに行ったり、多いときは週に2度のペースで合コンを開催したり……。公私を問わず多くの時間を共にした職場の同僚たち(10名ほど)とは、夏の飲み会に冬の旅行と定例イベントを開催するなど、辞めてから20年近く経った今でも関係性は継続。すでに藤尾のことを知らないA社の後輩たちが徐々に増えてきようがお構いなし。藤尾は唯一の部外者ながらに、支店長や課長など要職に就いている元同僚の黒歴史を暴いたりしつつその場に溶け込んでいる。
仲間とともに過ごす時間を大切にするようなところは学生時代から持ち合わせていた。
生まれ育った大阪市生野区の公立中学ではトップ10〜20が定位置だった藤尾が進学したのは、進学校とされる大阪府立住吉高校(通称・住高)だ。だが、主に近隣の学区から出来のいい連中が集まる住高に入るやいなや戦線離脱。住高に入ってふつうに勉強していれば、難なく神戸大学や大阪市立大学にも入れるだろう―—。自身の学力の天井を悟った藤尾のなかで、甘い人生設計は脆くも崩れ去っていた。
気づいたときには、負のループの中心部に身を置いていた。急降下した順位に引っ張られるように、気持ちは一気にたるんでいく。毎朝、定時に間に合うように自宅を出るも、その足で向かうは学校近くにある喫茶店だ。ラグビー部の友人たちのたまり場と化したその店でたわいもない話をしたのち、2,3時間目になって登校する毎日だった。
制服もなく、自由な校風を売りとする住高では、タバコを吸っているのがバレたところで呼び出されて注意を受ける程度。そんな規律のゆるさは怠惰な日常を助長させるだけだった。
ラグビー部に所属し、部活には休まず参加していたとはいえ、緩んだ心のネジが締まったのは、欠課が多すぎるあまり留年の危機にさらされた2年生の時くらい。部活中も隙あらばしゃべっていた藤尾は、主将の上嶋敦(現・シューズミニッシュ 営業)から叱られてばかり。練習内容も、部活の伝統として代々受け継がれているものを踏襲するだけで、個々の練習についての意義など考えたこともない。熱を入れて練習に励んだ覚えもなければ、そもそも勝ち負けには関心がない性分でもある。みんなとワイワイやれる楽しささえ味わえれば十分だった。それがどうして、高校3年の秋、引退が決まった公式戦を終えた後、身元不明の涙が藤尾の頬をつたっていた。
「確かなのは、負けたのが悔しくて流れた涙ではないということ。おそらく、3年間、時間を共にしてきた仲間といったん解散してしまうことが悲しかったんでしょうね」
無縁だった主体性
1975年生まれの藤尾は、高校入学とともにバブル崩壊が始まった世代である。バブル崩壊の煽りをもろに受けた藤尾家では、息子を大学に行かせる経済的な余裕はなくなっていた。とはいえ、そもそも大学進学には魅力を感じていない身である。奨学金制度の存在自体知らなかったのもあるが、仮に知っていたとしても就職の道を選んだだろう。家計を助けるためにも自分は働こうとの思いを胸に、学校から紹介された大手日系企業数社のうち選んだのがA社だった。
「その選択に、主体性とか意思はまったくなかったんです。情けないことに、母親から事あるごとに言われていた「働く=勤めること」「大企業に就職すべし」という価値観を鵜呑みにしていただけ。帰省した時だけ会える、大好きだったおじいちゃんからも「大きい会社のほうがいい」と言われたことが決定打になったように思います」
A社を辞めた際も、「I(私)」と分かちがたく結びついた確固たる意志のようなものとは無縁だった。おれはこんなもんじゃない、という熱い気持ちこそあれ、具体的なビジョンや目標はその輪郭すら捉えられてはいなかった。
だとしても、歯車にしかなれない場所に戻るつもりは毛頭なかった。以来、アルバイトとしてキャバクラのキャッチを半年、パチンコ屋で働くこと1年半、そしてパチプロとして生計を立てること1年3ヶ月。のべ4年間の「堕落した生活」と振り返る藤尾だが、親のすねを齧ったことは一度もなく、家にお金を入れることだけは絶やさなかった。18歳で社会人になって以来、親から1円たりとももらったことはない。幼い頃から家庭の経済状況を肌で感じてきた藤尾にとって、そこは越えてはならない一線だった。
とはいえ、稼ぎに大きな波があるパチプロという仕事も一生できるようなものではない。一時の気の迷いだったのだろう、飲食店で働いた経験も人脈も持たない28歳の藤尾が描いていたのは、バーのような店を開きたいという夢物語だった。
そんな藤尾を現実世界に引き戻すかのように、人手を欲する高本泰朗(現・シューズミニッシュ代表取締役)から「うちで働かないか」と声がかかったのは2003年秋のことである。
高本は藤尾にとって中学時代からの友人だ。高校のラグビー部時代、喫茶店で時を過ごした仲間のひとりでもある。藤尾がA社に就職してからも、スノーボードや麻雀など、たまに遊ぶ友人としてその関係性は途切れることなく続いていた。
とはいえ、仕事の話はしたためしがない。多いときには週に2度ほど遊びに行ったこともある高本の実家は「タカモトゴム工業所」という家族経営の会社だとおぼろげに知っている程度だった。
2016年8月現在、アルバイト・パートを含めて100名以上のスタッフを擁するミニッシュだが、当時は高本の両親、いとこの兄と姉、そして高本の5人だけの小所帯。6人目の社員となる藤尾だが、会社の事業内容や安定性、将来性などを含めた会社の魅力は一切天秤にはかからなかった。
高本から誘いを受けてから返事を伝えるまでの1週間、パチンコに通いながらも藤尾の心は揺れていた。心に灯るこのままではいけないという黄色信号を自覚しつつも、満喫してきた自由を手放したくはないという気持ちも拭いきれないままだった。胸の奥底には、A社での苦い経験によって植えつけられた組織に属することへの抵抗感がこびりついていた。
それでも最終的に就職することを決めたのは、あえて言うならば、小さい組織を作り上げていけることにおもしろみを感じられそうだったからである。友人と一緒に仕事をするという「未知の世界」に足を踏み入れることに胸が躍ったというのもあるだろう。
あるいは、「社会不適合者」という檻から抜け出したいとの潜在意識がはたらいたのかもしれない。確かなのは、堕落した生活を送る自分に対して、どこかやましさや後ろめたさを抱えつづけてきたこと。事実、A社を辞めて以来、藤尾の胸には「僕みたいな人間が結婚して家庭を作り、子ども持ったら絶対あかん」という決意めいた思いが宿っていた。
ともあれ、昼夜が逆転した生活サイクルの影響で1時間程度の睡眠しか取れないままにミニッシュへと出社したのが2003年10月25日。以来13年近く、高本とは血縁関係にないスタッフの最古株である藤尾は、ミニッシュ、そして高本の紆余曲折を経ての躍進を傍で見てきた。手放しでは喜べない複雑な心情を胸に抱えながら―——。