ライフストーリー

公開日 2014.4.29

Story

エネルギーシフトの実現に向けて1 〜東雲の期〜

東北芸術工科大学 建築・環境デザイン学科 教授 三浦 秀一さん

夢はエネルギーシフトの実現

「未曾有の大災害」と呼ばれる3.11。東北ではまだまだ冬の名残が色濃いその時期に電気・ガス、水道が数日間ストップしたことで、自宅に薪ストーブを導入することを本気で検討する人は増えたかもしれない。文明に浸りきっているという現状を肌で感じた人も少なくはないだろう。とにかく3.11を機に、思考や価値観、行動が変わった人は多いのではないか。エネルギーの専門家である三浦もその一人だった。
「やっぱり、3.11でスイッチが入ったところはありましたよね。今まで穏やかに進めてきたものも、本気でやんなきゃいけないな、闘わなきゃいけないなという気持ちにはなりましたから。すべてではないけれど、電力会社の弊害って大きいわけです。原発に限らず、エネルギー全体に対して。

今回は福島が犠牲になったけれど、地方というくくりで言えば山形も同じ。これまでずっと地方の弱みにつけこむようなことをされてきたわけで。専門家にせよ、原発がよくないってわかっていても「よくない」って言わなかったじゃないですか。でも本当は「よくないものはよくない」って言わなくちゃいけないし、地方がもっと主体性を持って自立できるように闘わなきゃいけないと思うんです。

その点、ヨーロッパでは一人ひとりが自立していてたくましいですよね。だから、コミュニティとしてもたくましいし、たとえ小さくとも国としてもたくましい。自分の生活に関わることであれば、自分でできることは極力自分でやっていくというのがおそらくヨーロッパの人たちの生き方だと思うんですよ。ある意味、ゼネラリストとして生きているというか。

一方で、人任せにしちゃうのが、私自身も含めた日本人の脆さだと思うんです。研究者はその最たるところですが、ちょっと専門分野から外れた途端わからなくなるわけです。でも、それは研究者に限ったことではなく、一般の生活者にも当てはまること。自分はエネルギーの専門家ではないから、原発のことはわからない…みたくなってしまうわけで。だから、3.11はある意味、助け合いも含めて、自分たちで何かをやんなきゃいけないんだって気づかされた機会でもあったと思うんです。

政治だってそうじゃないですか。人任せにするから暴走するわけですよね。だから、全て人任せにしないこと。自分に関係することは自分でやること。少なくとも関心を持つこと。それは、研究者であれ、一般の生活者であれ、考えなきゃいけないことだと思っています。

でも、それが大昔からの日本人の国民性であり、気質かと言うと、そんなことはないと思うんです。変わり目は、おそらく高度経済成長期が終わり、低成長時代に入ってきてから。目標が明確だった当時は個々が役割を決めて、それに向けて突っ走ればよかったわけですよね。だからたとえば、薪割りのようなことをやらなくてもよかったわけです。

それはつまり、生活を自分で組み立てることを現代生活においては、まったくやらなくなってきたということ。だけど、もう今はそういう時代じゃない。きっと今は時代の転換期。生活って何だろう、幸せって何だろうってことを個々が考えなきゃいけない時代であり、個々が自立していくことを求められる時代なんだと思います」

20世紀初頭、夏目漱石は「道楽と職業」という題目の講演にて、「大きくいえば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むのだと評しても差支ないのであります」と語っているが、高度経済成長期はまさにその打ち崩し具合がフェラーリ並の加速度で進んだ時代だったのかもしれない。人類の歴史から見れば、高度経済成長期以降の5、60年はまさに“異常事態”と言えるだろう。3.11などの大災害はそういった“異常事態”への警鐘だったのかもしれない。
「自立を求められることは、すなわちやらなきゃいけないことが増えるということです。でもそれは必ずしも義務感で動くだけではなくて、やってみると意外と楽しいものだったりする。自分で畑を耕して食べ物を作る人が増えているのもその一例だと思います。料理を作ったり、弁当を作ったりする男が少しずつ増えてきたという傾向にしても然り。昔は「男子、厨房に立たず」という言葉があったわけですからね」

今の時代を一言で表すならば「自由」であろう。善かれ悪しかれ、自由なのだ。かつての日本に生きた一般庶民と今の日本に生きる人々が決定的に違うのは、ゼネラリストとして生きること、自立して生きることが選択肢の一つであることだ。ネット社会が広がり続け、「情報過多」と言われる現代社会。実際に思考を推し進めるか否かは別として、私たちはかつてより圧倒的に多くの情報という思考の“種”を与えられているのではないか。

そういった時代の変化とともに、求められる人間関係の形も変わってきているはずだ。中央集権体制に象徴され、大企業でも軒並み適用されていたトップダウン型は今後下火になっていくのではないだろうか。いや、組織が大きくなっていけばいくほど、効率的に組織運営をしていくためにトップダウン型にせざるを得ないのだろう。だが、自らの手で何かを生み出すことの喜びを知った人間は、その所属の枠組みの中であれ、外れたところであれ、自立した生き方を選ぶことはごくごく自然な流れではなかろうか。
「とはいえ、現実的に考えて、日本がヨーロッパの国のようになれるのかは正直わかりません。ものすごくしんどい闘いなのかもしれないし、もしかしたら努力が実らないかもしれない。だとしても諦めるわけにはいかないなと。やれる限りはたくましくならなきゃなと。そこで諦めたら、人間としての尊厳を捨て去ってしまうことになるんじゃないかというくらいの思いはありますから。実際、それくらい地方は厳しい状況になってきているんです。

やっぱり、エネルギーシフトは実現させたいですよね。自然エネルギーだけでやっていけるような町なり村を作ること。それが今の私の夢です」

 

バイオマスと出逢って… 2

高校時代の三浦は、反社会的、反体制的なメッセージが歌われたパンクロック系の音楽を好んでよく聞いていた。1980年代前半の日本は経済成長期。世界の国々からジャパン・アズ・ナンバーワンと称された時代において、高校生だった三浦にとっても社会的に不安定な要素など何もなかった。
「だから、ただのファッション感覚だったのかもしれません。でも、失業率が高いイギリスなどのヨーロッパの国で若者たちの反体制的な動きが社会的に大きなムーブメントとなっていることが、当時の私にはかっこよく映っていたんです。平和でつつがなく流れていく日本社会につまらなさを感じていたからでしょうか。同時に学生運動が盛んだったかつての日本、活気づいていたであろう当時の社会の様相に思いを馳せたりもしていましたから。とにかく、社会と何らかの形で関わりたい、影響力を持つようなことをやりたいという思いは強かったんですよ」

そこで、理系だった三浦が選んだ分野は建築だった。でっかい建物を造ることで社会に何らかのメッセージを訴えかけられるんじゃないか。そんな思いを抱いた三浦は、日本の中心である東京を見てみたいと生まれ育った関西を離れ、「在野精神」が校風としてあった早稲田の理工学部へと進学する。「在野」に惹かれたのも、体制側に立つのではなく、現状を打破して新しい社会をつくる側に立ちたいとの思いがあったからだ。

だが、三浦は建築を学ぶうちに気づいてゆく。実際のところ、建築は単なる建築でしかなく、デザインに左右される部分も大きいのだと。それに伴って、ハコを造っているにすぎないという限定的な世界に行き詰まりを感じるようにもなっていった。

そんなときにめぐり逢えたのが、研究室の指導教官・尾島俊雄だった。著書である『東京大改造』に象徴されるように都市計画という大きな視点でメッセージを発信していた尾島との出逢いにより、三浦の中でそういったスケールの大きな仕事をしたいという憧れに再び火がついた。そして、尾島研究室では、建築物単体としてではなく、都市や街と絡めて考えるという視点を学ぶ。
「今、バイオマスというテーマを通して、自治体や地域住民たちと協同でプロジェクトなどを推進しているのは、やりたかったことというか、やりたかったスタイルに近づけているような気がしています。でもそれは、やってみて初めて気づいたこと。目の前にある問題や、社会的なニーズに都度反応しながら、人と一緒に何かをやっていくという過程で掴めたものなんです」

「大学の先生らしくない」とは、三浦と協同でバイオマスの利活用を進めている地域住民の声だ。決して上からの押しつけではない、“在野精神”が宿った三浦のスタンスは、きっと地域住民にとっても心地よいものなのだろう。「新しい土地で自分をリセットし、その場所や状況に合った自分自身を作り上げていく」という三浦の生き方は、関西人でありながら関西弁をあまり話さないところにも息づいているのかもしれない。「聞き上手だ」と地域住民から評されているのもうなずける。

三浦の研究テーマを過去からざっくりと辿ってみると、社会と関わりたいという欲求から建築に入り、興味の対象は都市計画を経て、都市計画とエネルギーの関連性へとテーマは広がっている。新天地・山形では、地球温暖化問題から始まり、自然エネルギー全般を経て、バイオマスエネルギーをテーマとしている今がある。
「なので、どちらかと言うと、その場しのぎでやってきたという感じですよね。すべては成り行きまかせ。(笑)その場のニーズをしっかり見ながらやっていきたいという意志があったからなのか、それしかできなかったのかはわからないけれど、いずれにしてもそういうスタイルでやってきたことは確かです。10年後は、20年後は…というような自身の人生設計は立てたことはあんまりないんです。だから、女房からは言われるんですよ、「もっと計画性を持ってやってくれ」と。(笑)

自身のことはともかく、環境問題のような話では、大学にいる立場としても、身の回りの人の利害関係を考慮に入れつつ、長期的な視点をもって計画を立てるようにします。「問題」と称せば後ろ向きに聞こえるかもしれません。でも、知らないことを知るのは面白いし、問題を解決したいとも思います。自身、山形に来たくて来たわけではないけれど、課題が見えると放っておけないんですよ。その過程で見えてきたものはおもしろくなるし、見えてきたものは放っておけない。だから、計画性がなくなり、「いずれ帰る」と言い続けて20年以上経っている今があるのかもしれません(笑)」

日本では「何をやるか」ではなく「何であるか」、すなわち職業や肩書きが重視される傾向がある。だが、職業は可変的であるという側面を持つ。職業は時代の産物であると同時に、過去の遺物ともなりうるものなのだ。極端な例だが、小学生の頃なりたかった職業が、いざ社会人にならんとする時にはもうないということだってあり得る。そう考えると、三浦の辿ってきた道はある意味“自然”だと言えるだろう。(大学で教鞭をとっているという点では不変だが)

だが、三浦のような旅人的な生き方は、どこかに根を張ることとはあまり相性が合わない。ミツバチと花でたとえるならば、三浦はいわば受粉を手助けするミツバチなのだ。
「実際、バイオマスに出逢うまでは、もっと都会で研究したいという思いは胸を去来していましたから。三浦家の長男でもあるので、いずれは実家のある関西に戻ろうという考えも頭の片隅にありました。都会志向の人たちと同じように、「田舎には田んぼや畑しかない」という見方をしている私もいました。けれども、バイオマスと出逢ってから、分断された山と人との関係を逆につなぎ直すことの意義やおもしろさを知り、さらに新たなつながりが広がっていく可能性も強く感じ、学生時代に思い描いた理想に近づいてゆくうちに、いつしか都会の魅力はすっかり霞んでしまっていましたから。だから、私にとってバイオマスとの出逢いは人生の中ですごく大きなできごとなんですよね」

人が何かと出逢って、人生が変わることは決して稀少な話ではないだろう。それは、一冊の本かもしれない。一本の映画かもしれない。あるいは一人の人間なのかもしれない。その契機となるものは、おそらく千差万別だ。一方で、そこに通底しているものがあるとと思う。それは、内面に変化が及ぼされ、世界の見え方が変わることだ。まさに三浦が「山が“宝の山”として映るようになった」と語っているように。

三浦は学生の頃からずっと社会と接点を持てる術を探していたのだろうか。この社会に自身が存在する意義を確かめたかったのだろうか。バイオマスはそんな人間にもたらされたプレゼントだったのかもしれない。今後の山形におけるバイオマスエネルギーの取り組みの動向に注目したい。