ライフストーリー

公開日 2016.6.24

Story

「結婚もひとつの人生経験だと思っています」

仲人士 久保田 悦子さん

先輩に恵まれて

企業社会でデザイナーとして生きていた30代の頃の久保田は「生意気というかすごくイケイケ」だった。

とにかく売り手が強かった当時のこと。人ありきではなくものありき、「業績が上がれば営業マンの手柄、業績が下がればデザイナーの責任」と見る向きが多い社風が大きな原因だったのだろう。会社に使い捨てられるかのような労働環境に嫌気がさして辞めていったデザイナーを、久保田は両手では足りないほど見てきた。久保田自身、「おまえの代わりなんかいくらでもおる」というニュアンスのことを言われたときには真剣に転職を考えたこともある。

たとえ同じことをしていても、ペアとして組む営業担当者の出来不出来によって契約を打ち切られたり、評価が下がったり。デザイナー職を取り巻く報われない環境を変えたいと、自身の思いや考えを必死になって上司に語っているうち、いつの間にやら口論のようになることも何度かあった。最後にはいつも、理性を置き去りにして昂ぶった感情を表す言葉のかわりに涙が頬を濡らしていた。

それでもギクシャクした空気を長くは引きずらなかった。翌日には「昨日はちょっと取り乱してしまいました」「冷静に考えたら、僕もあなたの言うとおりやと思うわ」などと和解するのが常だった。

「(女が)泣くのは卑怯やろ。泣いたらアカンわ。かわいそうやから、これ以上はやめとこうと男の人は思うやん」熱くなった自身の頭を冷やそうとする久保田の胸には、先輩から言われた言葉がこだましていた。
「そうやって指摘してくれる人がいなければ、そのまま変わらなかったでしょうから、いい先輩に恵まれたなと思うんです」

別の先輩との思い出もある。おなじく出産後に復帰した会社での一コマだ。

仕事に忙殺されるような日々の中で、いつからか、子どもを保育園に預けたその足で会社に向かい、会社の隣にあるドトールでコーヒーとサンドイッチを買って出社、朝礼後にデスクの上で朝食を摂る、というのが朝の習慣となっていた。

ある日、久保田は悪気なく行っていたその習慣を3つほど年上の女性社員から注意される。忙しさにかまけて化粧すらしていない久保田とは対照的に、一分の隙もなく整った身だしなみで出社してくる彼女は、育児と仕事を両立するワーキングママの鑑のような女性だった。
「あんたさ、遅刻はしてないけど、始業後に机の上でご飯食べるのはあかんで。あんたが子どもを預けて会社に来てるのはみんなわかってる。だからといって、そうしていいという理屈はない。あんたがしてたら、みんなしてるやろ。それだけあんたは人に影響力あるねん。だからこそちゃんとせなあかん。あんたは次の人らに教えなあかん立場やねんで」

久保田は回想する。「きついなこの人と思ったけど、それは正しかった。良薬は口に苦し。いまも私の胸に響いてるってことは正解なんです。実際、それ以降、私はその習慣を辞めたし、そうしてる同僚がひとりもいなかったことを思えば、身をもって人に教えなあかんということを彼女が私に教えてくれたんやなと。

当時は社内でダントツに営業成績をあげている部署にいたし、よくあれだけ仕事してたなと思うほど忙しく仕事をしていたから、知らず知らずのうちに、それくらいやってんねんからええやろ、という感覚になっていたのかもしれません。

そもそも企業に勤めるデザイナーは、一般の女子社員と違って、営業の人間と連れ立って得意先に行き、飲みの席で接待したりされたり、海外出張に行ったりもするから、特別なことをしているかのように錯覚しちゃうところはあるんです。

そんなふうにのぼせ気味になっているところに冷たい水をかけられたみたいで戸惑ったけど、彼女から注意されたことはすごくプラスになりました。お孫さんがいる今も現役で働いている彼女に当時のことを話すと「そんなん言うたん覚えてへんわ。いけず(意地悪)なおばはんやな、私」と笑いながら言ってますけどね(笑)」

 

人と人をつなぐ

「30代の頃の私は鼻持ちならない人間ではあったけど、喧嘩するほど損なことはない、とはずっと思っていたんです。争いごとは嫌。声を荒げたりするのもその場に居合わせるのも絶対に嫌なんです」

娘の学校の保護者会で役員を務めていた頃のこと。「ふだんの子育てを任せきりにしているぶん、せめてこの時くらいは、との思いで、保育園や学童保育、小中高の育友会や中高の部活動には保護者として積極的に関わってきた」久保田は、点在する島のようにグループ化する保護者の仲を取りもつべく動いてきた。

その調整能力を裏付けるのが、役員仲間からよく言われた「文句言う人と仲良くなれるのが信じられへん」という言葉である。「人付き合いが苦手」という自己評価とは裏腹に、「八方美人やね」「付き合い上手やね」と言われたことも少なくない。
「かといって、その人にだけいい顔をしているわけじゃない。彼女たちとの距離を縮めることによって、文句が言いづらい体制になるんです。たとえば「あそこだけ仲良くしてる」みたいに文句を言うのは、なにかしらこちらに興味があるという証。お互いに文句を言い合うだけでは解決にならないですから。

ひと手間かけるってすごく大事やと思うんです。この人嫌やなぁと思って距離を置いていたら、いっこうにその距離は変わらない。もしかしたら変わるかもしれないし、近づいてみて嫌だったら離れたらいいだけ。相手のことがよくわからないまま、勝手なイメージで決めつけたり、遠巻きに批判したりするのは嫌なんです。

それぞれの素顔みたいなものに目を向けていると、「人の輪の中には入ってこないけれど、二人きりで話すと、辛辣でおもしろい意見を言う」みたいな持ち味が見えてきますから。そういうことに目を向けるようになったのは、長いあいだ、転校生生活を送っていたことが関係しているのかもしれませんね」

父の仕事の都合で、久保田は小学校から高校まで住む土地を転々としている。関西エリアで転校すること3度。同じ学校で3年間ないし6年間を過ごしたことはない。行く先々において人間関係を短期間でゼロから構築していくことが、子ども時代の久保田にとって最大のテーマだった。

「人の名前を覚えたり、その土地の方言を積極的に使ったり。あるいは、その場所で流行っているものを一番に取り入れたり。みんなと仲良くするため、環境に適応するために、無意識のうちに心理学でいうところのラポールを、誰に教わるでもなく実践していたんです。

それはけっこうつらいものだったし、やらなきゃいけないと思ってやっていた。だから、健気に頑張っていたなという見方をしていたけれど、きっと動物の本能的な行動なんでしょうね。私は適応能力が高かったというか、それがたまたまちゃんとできる子だっただけで、できない子もたくさんいてる。実際、3きょうだい(私と弟2人)の中でも違いはありましたから。

いずれにしてもそういう生活がなければ、おそらくいまの私はいなかった。そこで回数をこなしたおかげで、「初めまして」に対するかさぶたは綺麗に剥がれるタイプになったのかなと。だからいま、新しく入会する会員さんと面談するときも、緊張もすれば、あらかじめ段取りを決めて臨みはするけれど、着地点はわかっているからなんとかなるやろ、とわりとゆったり構えていられるんです」

現在久保田は、後援会の役員として、かつて娘が所属していた吹奏楽部の活動をサポートしている。県内有数の強豪校として名を馳せているためか、公立高校ながら越境入学者もいる同校の吹奏楽部の部員は現在100名以上。共通認識として持っているのは、「子どもたちのバックアップをしながら、彼らの保護者のバックアップをすることが自分たちの役割。出すぎたまねは絶対にしない」こと。

とはいえ、大会の会場に向かう交通費などすべて自腹で出して追っかけをしているだけでは物足りない。せっかく楽しんでいる人たちが集まっているのなら、自分たちも楽しんで、なおかつ子どもたちにとってもプラスαになるようなことができないものか……。そう思案して、市民まつりに参加するようになったのは3年前のこと。出店した模擬店では、むかし勤めていた会社からゆずり受けたサンプル商品を販売。自分たちも楽しみつつ、そこで得た収益を楽器の修理代など、部の活動費に充てるというWin-Winの関係を作り出した。
「いつしか100人を超えた後援会メンバーのなかには、「後援会命」で楽しんではる人も多いんです。会員どうしの親睦や結束も深まり、後援会の存在意義が出てきたかなと。10数年前、部員の数は少なく、今ほど強くもなかった時代に後援会を立ち上げた人たちの想いを次代につなぐことが役割だと思って取り組んでいます」

見えてきた自身の核

ここ最近、久保田に変化が生まれている。人の悪いところを見るにつけ、それは直したほうがいいよ、とすぐに手を出してしまう癖を直そう、ブレーキをかけようという意識が芽生えてきたのだ。直接的なきっかけは、心理学やカウンセリングを学びはじめたことだった。
「ついやってあげようという気持ちが出てきてお節介を焼きそうになるけど、自分で気づいて変わるほうが、大きく変わることに気づきました。だから、見守る、見届けることを心がけています」

「行動的でひとところにとどまれない。うまくいかないときも、何かしら手を打たないことには気がすまない性分」というのが久保田の自己分析だ。小学校時代の通知簿には、教師が模写でもしているかのように「落ち着きがない。もうちょっと考えてから行動するようにしましょう」という文言が低学年の頃から並んでいた。
「その時点で性格が決まってるんですね。最後まで話を聞いたり、もうすこし状況判断してから動いたらいいのに、いいなと思ったら即行動に移していたんでしょう。両親はそういうタイプじゃないから、はたして何がそうさせたのかはわからないんですけどね」

性格として捉えていた自身の一面に、心理学の学びがもたらしたのは新たな視点だった。
「わたしって実は、落ち込むことがすごく怖いんやと思うんです。よく新しいことに手を出したり、いつも動いたりしているのは、落ち込んだり不安になったりするのが嫌だからじゃないかなと。今の仕事がそうだというわけではないけど、心の底からやりたいわけじゃなくて、潜在的にひとりがいや、おもんないのがいや、楽しい方がいい、と思っているからやっているんじゃないのかなと思ったりもします。

一人ぼっちの転校生になりたくなかった自分が知らず知らずのうちにラポールをマスターしていたのもそう。こじつけないと生きていけなかったのかもしれないし、それが自分が傷つかない理由だったのかもしれない。新しい土地でも友達をちゃんと作って、この子はうまいことやってると親に安心させたかった自分も必ずいたでしょうし。

もしかしたら、本来の私はすごく臆病で怖がりで自信がない、そんな自分を認めたくないがために「元気に明るく」ふるまうことで、自分自身を騙してきたのかもしれません。

人のことを知ろうとしてカウンセリングの勉強をするうち、そんなふうに自分の核となっている部分もすこし見えてきたような気がします。そしたら、他人の中にある「人には指摘されたくないけど、すごく悩んでいる部分」も見えてきた。相手の悩みを聞いているときに、必要以上に探りすぎても、言い当ててもダメ。自分ができるからといって「あんたもこうしたらええねん」という関わり方では解決にはならないことがだんだんわかってきたんです」

 

人ありきの人生

久保田には忘れられないワンセットの思い出がある。従姉妹と一緒に書道とピアノを習っていた小学校低学年頃のこと。大人から子どもまで、幅広い年齢層に人気の書道教室に久保田を通わせた母には「落ち着きがない娘の行儀がよくなるように」との思いがあったという。

おじいちゃん先生から「いとこの◯◯よりも上手や」とくり返し褒められる書道教室が、久保田は大好きだった。好きこそものの上手なれ。身を入れて練習したおかげで、小学生のうちに5段をとるまでに腕前はめきめき上達。小学校6年のときに転校してその土地を離れてからも、書道教室には通いつづけるなど、書道にまつわる思い出はいまも肯定的な色合いに満ちている。

かたや、先生から手厳しく指導されたピアノ教室にはいい思い出がない。先生や母から怒られるたびに意気消沈、いつしか練習することも、教室に通うことも嫌になっていた。そんな久保田の様子を見かねた祖父母が「そないに嫌やったら辞めたらええねん」と助け舟を出したこともたびたびあるが、母は許してくれなかった。自身も、すぐにでも辞めたい気持ちと、熱心に取り組むいとこのように上手に弾けない自分への悔しさやもどかしさの狭間で揺れる思いを抱えていた。幼心に抱いた葛藤は、50年近く経った今もそのかたちを留めている。

「今でもいい思い出が手伝ってか、墨の匂いを嗅ぐだけで気持ちが洗われるというか、心地よくなれる。一方で、引っ越しでその土地を離れるときには、もうピアノをやらなくていいんやと思ってホッとしましたから。(笑)

思えば、うまくいったことには必ず人が絡んでいるんです。逆に、うまくいかなかったことも人が絡んでいるから、そいつが悪いと勝手に思っています(笑)。きっと私の人生において、“人”は大きなウエイトを占めているんでしょうね。

出産後に14年勤めた会社では、デザイナーとして大事に扱ってもらっていない感じこそあったけれど、人間関係には恵まれていたからそれだけ働きつづけられたんやと思うんです。厳しく指摘してくれた先輩にしても、自分のことを客観的に見る機会を与えてもらったという意味では、とてもラッキーでした。だからやっぱり、人ありきなんです」

久保田が仲人士という仕事に出逢って6年が経つ。百組を超えるカップルを成婚に導いてきたベテラン仲人の「わたしが生きてきた証がそこに残っている」という言葉が、久保田の胸には残っている。
「自分のまわりの人間が幸せになっていくことが、いちばん幸せ。もちろん私だけの力じゃないけど、私がきっかけとなって、みんなが幸せになっていく姿をそばでずっと見ているのは、自分がいた意味を確認できるような気がしてうれしいんです。私のところから結婚していく人たちが、20年後、30年後、人生は波瀾万丈でいろいろあるなぁと感じるところまで、そっと遠くで見守っていたいなと思っています。

誰かと生きるのは大変やけど、やっぱりひとりで生きていては味わえないものが結婚にはある。だから女の子には言うんです、「子ども至上主義はやめなさい。子どもはかけがえない存在やし、産むに越したことはないけど、それよりもまず大事なのはパートナーやで」と。たとえ50歳になっても60歳になっても、したいと思ったときに結婚はしたらいい。結婚もひとつの人生経験だと思いますから」