ライフストーリー

公開日 2015.10.26

Story

「日常の中に自然を連れてきたいんです」

(株)空から蝶 代表・蝶使い 道端 慶太郎さん

Profile

1975年生。奈良市出身、在住。北海道大学農学部卒業後、幼い頃から好きだった生き物と関われる仕事に就きたいと環境コンサルタントになる。野生動植物の調査に13年間従事し、2012年に退職。「第4回 ならソーシャルビジネスコンテスト 2014」で大賞を受賞し、2015年1月には(株)空から蝶を設立。同年3月、アサギマダラという蝶の幼虫の飼育キット「虫とりのむこうがわ」の販売を本格的にスタートさせる。人と自然が共生する社会づくりを目指している。

※ 約6,000字

道なき道を

「ほんとは、新宿のビル街なんかも森にしたいんです。でも、ひとっ飛びには行けないから、近づくための一歩として、蝶を呼ぶ場所づくりを進めているんです」

そう語るのは道端慶太郎、40歳。株式会社「空から蝶」の代表であり、蝶使いでもある。

物心がつくかつかない頃から、生き物が好きだった。理由などない。幼稚園の頃には、たとえ整列中でも、視線の先に少しでも動くものを捉えれば即座に追いかけ、先生たちを困らせた。自身の記憶からは抜け落ちているが、ダンゴムシを鼻に詰めて病院に連れて行かれたこともある。

バスケットボール部の活動に熱中していたため、人生において生き物ともっとも遠く離れていた中高の6年間を過ごしたのち、道端は北海道大学農学部に入学。ふたたび生き物たちの世界へと近づいてゆく。だが研究室にこもる時間が長い大学での日々はつまらなかった。フィールドに出て行って、生き物たちと触れ合いたかった。

そんな道端にとって、野生動植物の調査をおこなう環境コンサルタントの仕事はおあつらえむきだった。その存在を知るやいなや、道端の心は決まっていた。

実際、仕事は愉しかった。大規模な工事を行う予定のどこかの地域などで、1年間かけて生態系を調査し、その結果を取りまとめて作った報告書を製品として国土交通省に提出するのが具体的な仕事内容だ。日本各地で、子どもの頃、図鑑で見ていた憧れの生き物などに出逢えるのだ。それでいて生活していくだけの収入を得られもする。当初の頃は辞める理由など何もなかった。辞めるという発想すら芽生えなかった。

しかしあるとき、道端は気づいてしまう。たとえ絶滅しそうな生物がいると知っても、調査結果を国土交通省に伝えるだけで終わり。現状に歯止めをかけ、回復させる仕組みをつくる専門家はいないのだ。
「医者で言えば、病名を突き止めるまではするけど、治療は施さない、みたいな感じですね。でも、地球や生き物は物を言わないから許されていたんです

2007年頃、有機農家と出会ったことで道端の心は大きく傾いていく。社会の一面しか見ていない自分に気づくとともに、社会にはいろんな課題があると知り始めたのである。

農家になることを考えなかったわけではない。自給率の低さへの懸念も農家と共有でき、友人からは「農業したら?」と勧められた。だが自身が農業をやっているイメージは湧かなかった。感覚は「おれには他にやらなきゃいけないことがある」と訴えてもいる。自分が農業をやったとしても農業者が一人増えるだけ、もっと根本的なところを変えなければならないとの思いもあった。

これまで積み重ねてきた調査のスキルをフイにしてしまうのがもったいなかったというのもある。人より秀でていることでしか社会の役に立てないのだ。元来、道なき道を歩く方が好きなタイプでもある。だとすれば、自分の強みは生き物しかなかった。

具体的なアクションを起こしたのは2010年のこと。道端は自宅の庭で野生の植物を育てはじめた。
「生物多様性のピラミッドの最底辺には分解者としての土壌動物がいて、その上に生産者としての植物がいる。さらにその上に昆虫、鳥類と続いていって、一番上に猛禽類がいるわけです。だからやっぱり、キーは植物。植物が増えない限り、昆虫などの生き物も増えないんです。

庭に木や草花を植えたり、育てたりすることは珍しくないけれど、庭木として市場に流通している植物の種類は限られています。植木屋さんや造園屋さんでも、たぶん野生の植物はほとんど扱えない。それでは野生の植物が減っていく、接点がなくなってかけ離れていくのは当然かなと思うんです」

目指しているのは、アグロフォレストリー。同じ土地で樹木と農作物の栽培を行う、すなわち農業と林業を組み合わせた「森林農業」と呼ばれる世界を構築することだ。ほかの生き物と共生する環境を目指すつもりなのは言うまでもない。
「とくに都会では土地が不足しているからこそ、集約的に土地を活用して生き物にとっても人間にとってもいい場所を作りましょう、という提案なんです。人も生態系の一部ですから」

しかし相手は植物である。思い描く形に至るまでは、20年ほどの年月を要する見込みだ。ならば別のことを並行して進めなければならない……。模索する日々だった。

NPO法人・ETIC主催の社会起業家支援プログラムに道端が参加しはじめたのは、折しも東日本大震災が起こった頃のことである。震災後、道端の身近にいたのは大きく分けて、被災地に向かう起業家たちと、九州や沖縄など西に逃げていったエコを重んじる人たち。起業家になりたいとはっきり自覚したのは、そのときだった。

仕事を辞めるのには勇気がいった。だが葛藤は膨らんでいく一方なのだ。直接的に誰の役に立てていないことにも虚しさは感じていた。今やらなければ、この状況が何十年と続いていくだろう。自分を含めた「自然環境調査屋」が、生き物が消えていく様子を永遠にレポートしつづけることになるだろう。もうレポートしている場合じゃない。「守ろう」という啓発だけでも何も変わらない。気づいた人間がやらないと始まらない――。道端が安定した生活を捨てたのは2012年、37歳のときだった。

道端に人と自然をつなぐアイデアをもたらしたのは、自宅の庭で育てていた木に飛んできた蝶だった。人を惹きつけるものとして、蝶はうってつけではないか――。

その発想は「虫とりのむこうがわ」と名づけた蝶の飼育キットの販売へとつながっていく。キットには、蝶の幼虫3匹に加えて、飼育用のガラスケースや幼虫のえさ・餌つくりセットなどが同梱されている。扱っている蝶の種類はアサギマダラ。幼虫、成虫ともにインパクトのある外見、それから距離にして2000km以上、季節に合わせて日本列島縦断の旅をするのが特徴だ。日本を旅立った個体が台湾や香港で確認された例もある。
「食っていけるかどうかの瀬戸際を生きているからこそ、絞り出されたアイディアだったと思うんです。調査の仕事でやっていた専門分野の昆虫と、専門外だけど独学で勉強した植物に関する知識のスキルセットも活かせるとの思いもありました」

試験的に販売を行った1年間で手ごたえをつかんだ道端は、2015年3月から本格的に始動。北海道から中国地方まで、「虫むこ」を送り届けてきた。アサギマダラはいま、「空から蝶」において人と自然をつなぐ入り口として大きな役割を担っている。

 

ふたたび、自然を日常の中に

道端は「自然環境回復屋」を自称している。定義は「人と自然の関係性の再構築を考えながら、庭や校庭、社有地など人々の日々の生活の中に自然を再配置し、各々が地球との一体感を感じながら心豊かな日々を過ごせるようにする人」。
「今、キャンプや森の案内で人を「自然に連れて行く」人はけっこういますよね。でも、それだとイベントごと、要は非日常だから、自然は夢見心地な世界にとどまってしまうのかなと。僕は「自然を連れてくる」ことで、自然を日常の暮らしの中に取り戻したいんです。

昔の里山とかでは、人々はそうやって生きていたんでしょうけど、現代に生きる人たちがみな、昔のようにもう一度、薪で暮らすわけにはいかないですよね。だったら、現代の生活に合うようにアレンジした新しい里山を庭の中に作ることができればいいのかなと。放っておいたら、それこそ絶滅していくのを見守るだけになってしまいますから」

メダカが環境庁(現環境省)によって「絶滅危惧種2類」に指定されたのは1999年のことだ。アカハライモリは2006年、トノサマガエルは2012年に「準絶滅危惧種」と指定されている。
「ふだん生活している中で生き物と出会うことがなければ、おそらく守るという発想すら生まれない。住宅街とかで生活していて遊び場もなく、出会う機会もなければ、ゲームに向かうのも当たり前かなと。だから、まず出会う場所を作らないといけないんです」

幼少期に生き物と触れ合ってきたという原体験を持つ、上の世代の造園屋の人たちからは「さびしい」という声も聞く。当面の優先課題は「地球とつながる庭づくり」だ。企業とのコラボをぐっと進め、ゆくゆくは企業の庭で苗を育てる場所を確保し、周辺の個人宅の庭に移植する――。「かつては身近にあった自然が懐かしいから」と、奈良市内でカフェを営む夫婦から庭づくりの仕事を依頼されたのは半年ほど前のことだ。
「いずれはそういう形が主流になるんじゃないかなと思っています。企業はいま、社会貢献活動として植林活動をしたりしているけど、山のある場所も遠いし、植えている樹木も植木屋で用意したものだから種類も限られている。企業にとっても、時間はかかるけど造園ほどコストはかからないし、付加価値も上げられる。つまり、Win – Winの関係が築けるんです。そこさえ理解してもらえれば、一気に趨勢は変わっていくのかなと」

並行してすすめている子どもたちへの環境教育プログラム「わくわく蝶査隊」は4年目に入った。
「子どもの頃に蝶を飼った思い出って、絶対忘れないはず。原体験として、天空の城ラピュタみたく地球で生き物と共生しているイメージを持つことはすごく大事だと思うんです」

いわゆる広場のような場所にした企業の庭で、近所の子どもたちが遊んだり虫を捕ったりしている。そんな光景を思い浮かべる道端の脳裏には、田んぼの脇道の通学路を、毎日のように虫を追いかけながら歩いて帰ったかつての記憶が蘇っている。

とはいえ、道端にとって「虫むこ」や「わくわく蝶査隊」はあくまでも「庭づくり」というゴールへ向かうための入り口なのだ。
「そのためには仕組み自体を変えなければならないし、どこまでも社会に歩み寄らなければいけないなと。わかってくれる人だけでいい、というスタンスでは「調査屋」だった頃と一緒かなと思うんです」

現に実験的に庭づくりを進めている実家の庭では、子どもも楽しめるようにと、木と木の間にトンネルを作るといった工夫も凝らしている。
「スタイリッシュでカッコよく、子どもも楽しめるような庭にしていかないと、ターゲットとしている都会ではなじまないし、活動も広がらない。だから今後、ランドスケープデザイナーなどとコラボして、“自然よりいい自然”を作ってみたいなと思っているんです」

はやる気持ちを抑えつつ、道端は「2、3年後には仕組みを完成させ、調査員の仲間たちを呼ぶ」という未来を見据えている。
「今は道がないだけ。口にするかしないかは別として、当時の仲間たちはみんな絶対どこか心が折れてるんです。だって、好きな生き物が減っていくのをただレポートするしかないなんて、切ないじゃないですか。結局は自然開発に加担している立場でもありますしね」

地震によって世界が変わってしまったんじゃないか、もう花は咲かないんじゃないか……。2011年3月、道端は不安に苛まれていた。しかし早春、例年通り春の野草が花を咲かせているのを見かけたときにはホッと胸を撫でおろした。
「春先に蝶を見かけるということは、蝶が生息できる環境がある証です。その事実に安心するんですよね。1年ぶりにまた出会えてうれしい、という感覚もあるかな。

おしなべて僕たち「自然環境調査屋」が持っているそういった感覚を一般の人たちにも持ってほしいなと思うんです。生物の行動や自然の仕組みが理屈としてわかっていたら、愉しみは増すんじゃないかなと。蝶々は理由なく飛んでこないですから」

道なき道を歩いていくのは、そうたやすいことではない。ましてや社会起業の仲間などから「市場の失敗の最たるもの」と口々に言われてきた自然環境の分野で勝負を賭けているのだ。スピーディーな時代の変化に追随すべく、生き物たちは歩調を合わせてはくれない。そんななか、社会起業の仲間たちはひとり、またひとりとメジャーになっていく。それでも腐ることなく、その悔しさを原動力に踏ん張ってきた結果なのだろうか。ようやくビジネスモデルの骨格を形成し、企業として成り立ちそうな目処が立ってきたという。

ひとつの突破口となったのは、今年(2015年)8月、シロスジカミキリが実家の庭に現れたこと。一般的に里山の指標種とされている昆虫だけに、喜びもひとしおだった。
「住宅地でも環境さえ整えてあげれば生き物は来ることが証明されたので、自信を持って人に提案できるようになりました。トノサマガエルに蝶、そしてシロスジカミキリらの生き物がいるという事実は、オーガニックであることの証明にもなりますしね。樹の材部を食べるシロスジカミキリは樹に穴を開けるので、そこから出る樹液を餌にするクワガタムシが次にやってくるはずです」

同時期に大阪府の造園業者から造園の仕事を依頼されたことも、道端に自信をもたらした。生活の糧を得るために続けていた調査の仕事を受けなくていいようにもなった。
「調査自体は今でも好きだし、行くたびに「なんでこの仕事を辞めたんやろ?」と思います。「自然環境調査屋」だったときは、竜宮城にいたようなものなんですよね」

高山から南の島まで、日本各地の自然を歩き回ること13年。日本の自然環境の大枠をつかむことはできた。会いたい生き物にも会ってきた。危機感や問題意識とともに“地上”に目が向いた道端は、居心地のよい竜宮城を去り、「自然環境回復屋」として人に伝えていくという次のステージへと進んだのである。
「『野生生物が減ったところでどういう問題が出てくるの?』という声もあるでしょう。まず人間のためだけに世界を作るというスタンスがおもしろくないし、極論として家畜と農作物しか存在しない世界ってなんかさびしい。人類はほんとうにそれでネクストレベルに向かえるのかなと。すごく高性能なロボットは作れるのに、生き物を守れないのはおかしいと思うんです。だから僕は日常の中に自然を連れてきたい。地球で生き物たちと一緒に生きていることを感じられるときっと愉しいし、豊かにもなるでしょうから」