ライフストーリー

公開日 2015.8.8

Story

「自分のために生きている感覚はあまりないんです」

ごはん屋 Umui サトウ エミコさん

Profile

1972年生。群馬県出身、山形県新庄市在住。イタリアンや和食の店などで働いたのち、2011年4月、東京都内に自然食カフェ「Umui」 をオープン。14年5月、Umui を閉店し、家族で新庄市へと移住。現在は、山形県内で開催されるマルシェに出店するほか、「東京・神奈川巡業」と称し、伝承野菜や郷土料理のみならず、物語や生活も伝えるごはんの会を開くなど草の根的な活動を展開している。大学時代から飲食業に携わること20年以上。2人の息子の母でもある。Facebookページ
※ 約15,500字

Umui のはじまり

大学1年のときから20年ほど居続けてきた飲食の世界からいったん身を引こう、とエミコが飲食店の仕事を辞めたのは2010年のことだ。オーバーワークにより、医師からは「心臓の筋肉が下がっている」と言われるなど、エミコの身体はボロボロだった。精神的にもめっきり疲れていた。結婚して子供を産んでからも仕事を続けていたエミコにとって、毎日家にいる生活は初めての経験だった。

当時、二人の息子は11歳と8歳。家にいるようになると、見ているつもりだった彼らの様子を見ていなかったことがわかった。身体の成長が悪く、身長も伸びていない。箸もきちんと使えていなければ、肩肘をついてご飯を食べるなど、行儀も悪いのだ。

外にいられないことに不満はあった。しかし、子供たちは「ただいまー!」と弾んだ声で帰宅したりするなど、母親が家にいることを喜んでいる様子が手に取るようにわかるのだ。きちんと食べさせるようになると、食欲もどんどん出てきて、身長も大きくなっていく。夫の慢性的なメタボも緩和するなど、家庭円満になっていくさまを見ながら、エミコは食事で人は変わっていくことを実感していた。

「オーガニック」の存在を知ったのはその頃だった。次はそういう食べものを扱う店で働きたい、といくつか店を当たってみた。しかし、エミコは当時30代後半。時間の融通が効かないこともあり、どこも採用してくれなかった。なかには返事をくれないところすらあった。採用する立場にいたこともあり、店側の意向は理解できたが、いかんせん心は沈んでしまうのだった。

そんなときに参加し始めたのが、WWBジャパン(女性のための世界銀行日本支部)主催の女性起業家を支援する起業スクールである。「まったく飲食経験のない主婦だったけど、たまたま店を任されたことがきっかけとなり、自分のアレルギーを治すために作ってきたものを料理として提供している」そんな経験談を話す女性から勧められ、乗り気になったのだ。

初級コースから受講し始めたエミコだったが、当初は啓蒙するような空気が好きになれなかった。しかし、講師として来る女性起業家たちの具体的なエピソードを聞いたりするうち、自分もやってみよう、実践コースに進んでみようという気持ちが湧いてきた。

食べることで心も体も元気になる、素材を大切にしたお母さんの味を提供したい――。地味であることに不安はあったとはいえ、もとより大枠は定まっていた店のコンセプトも、セミナーを通じて確立できた。『無農薬・無化学肥料の国産野菜や穀類、天然醸造の調味料、飼料にこだわった肉や卵、近海ものの魚など、安全・安心な食材でつくったおいしいご飯を次世代に継承し、生産者と消費者を結ぶアンテナショップになる』

そうして流れと勢いに任せるような感じで起業へと向かいつつも、二の足を踏んでいたエミコは、オーガニック系の飲食店の採用面接を受けた。面接を担当したのはロックミュージシャンの顔も持つ店主だった。
「あんた、こんな経歴使って何したいの?」
「お店をやりたいんです」
「お店をやりたい人間っていうのはね、勢い出すんだよ。あんたみたいにね、やりたいやりたいって言ってる人間は、いつまで経ってもやらないんだよ。ほんとにやりたい人間は行動に移すんだよ」

ただでさえカチンときているところに、相手は畳みかけてきた。
「だいたい独立したい人間っていうのは、人の言うことを聞かないもんなんだ」

さらにカチンときた。が、結果的にエミコの意思を固めたのはその怒りだった。後日、採用通知が届いたが、意思は揺らがなかった。「ある意味恩人(笑)」との出逢いがエミコの背中を押したのである。

半年ほどかけて東京じゅうを駆けずり回ったエミコは、店を開く場所を世田谷区の池尻大橋に決める。当時、エミコの住まいは横浜にあった。にもかかわらず東京で場所を探したのは、誰ひとり知り合いがいない土地でやると決めていたから。友人などがやってきて、なれ合いになるのが嫌だったのだ。

そして、2011年3月1日に施工を始めた矢先、起こったのが東日本大震災だった。

店をやろうか、やるまいか、エミコは逡巡した。引こうと思えば引ける段階である。そうはいっても、自分一人が辞めたところで、死んだ人は生き返らないし、起きた地震は元に戻らない。だったら、ふつうに今を生きるしかない――。エミコは再び開店準備に取りかかった。

折しも、JALの子会社に勤めていた夫は、JALの経営破綻のあおりを受け、リストラの対象に入っていた。続けてやるという選択もできた。だが、給料が格段に下がること、仕事にやりがいを持てていなかったことなどの理由から、自主退職した夫とともに、エミコは店を始めた。2011年4月2日のことである。

 

Umui の3年

当初より出していた「やさいのさら」は、主役となる野菜のおかずに玄米ご飯と味噌汁がつくUmuiの主力メニューである。

野菜料理や自然食などが市民権を得はじめたのは、つい最近のことである。当初は、外で店の宣伝をしていた夫に、「葉っぱだけで900円とんのか?」「やめなよ。絶対お客さん来ないから」と言う人もいた。

とはいえ、自分は野菜を出したいのだ。人に言われたからといって、意志を曲げるつもりはなかった。やれることは地道にやるしかない。そんな思いで黙々とやっていると、不思議とご縁がつながってくるのだった。

ある日のお昼どきのことである。店の前でピザの宅配先の住所がわからず困っている様子の青年がいた。パソコンを持って出て行った夫が、住所を調べ、一緒について行ってあげると、彼はたいそう喜び、その日のうちに、友人を連れて店に食べに来てくれた。おまけに、後日、貸切パーティーを開いてくれたのだ。そんな偶然がちょくちょく続いていった。

「Umui」とは、沖縄の言葉で「想い・思い」を意味している。エミコは、折に触れて「土に触って、旬のものを食べていくだけで変わっていくよ」という話をするなど、客に自身の思いを伝えてきた。

肉の話題になると顔をしかめるようなベジタリアンの人が来店したときには、「野菜だって生きている。野菜こそ踊り食いだよ、放っておいたら芽が生えてくるんだから。それを炒めるのは、火あぶりの刑にするようなもんじゃん」と冗談めかして話すこともあった。

わかってくれない人はわかってくれないけれど、わかってくれる人はわかってくれる。そういうスタンスで続けていると、客の数も増えた。エミコの個人的な悩みを聞いてくれる常連さんも出てきた。雑誌などで何度か取り上げられるうち、似たような店をやり始める人たちもちらほら現れ始めた。
「雑誌を見て、めっちゃうちと似てるわ~と思って、店の創業年数を見れば、マネをしているのがわかるわけです。(笑)でも、ただ作っているだけでも、種は蒔かれているんだな、蒔かれていた種が芽を出しつつあるんだなと思ったんです」

同業店の多い場所をリサーチしたうえで出店したこと。起業セミナーを通じて営業理念を確立させていたこと。資金計画の立て方を一から学べたこと。そういった段取りが功を奏したところもあったのか、オープン2ヶ月目から黒字を計上するなど、商売としてはそれなりに順調だった。

ところが、家庭では長男が不登校になるなど、屋台骨はぐらつきはじめていた。忙しさにかまけて、子どもたちのことは見て見ぬふりをしていたのだ。彼がある日、漏らすように言った「ふつうの家庭になりたい」という言葉にエミコは胸を衝かれていた。

加えて、だんだん自由がなくなってきているような感覚もあった。店の窓から街の人通りを見れば、震災直後の頃とは明らかに変わっている。震災直後にはできていた放射能やTPPの話も、宗教じみた感じで受け取られることが増えていた。

息子が保育園の頃(2000年代前半)に縁のあった山形の農家などとの出会いを通じて、ものの見方が変わってきたというのもある。新庄市まで足を運び、田植えを手伝ったときには驚いた。

関東で田植えを手伝ったときは膝までしか入らなかった。一方、新庄では、田んぼに足を入れると、あっという間にパンツが濡れるほどの深さまで身体が沈んでいったのだ。かといって、水っぽいわけではなく、ちゃんとぬかるみがある。また、関東では「(根っこが短くて)切れてしまうから、大事に持ってください」と言われ、恐る恐る入っていった。一方、新庄では、張りめぐらせたかのように伸びている根を切るように指示された。切れた根っこが栄養をたっぷり含んだ層にあることで、苗は生えようとがんばり、倒伏しにくくなるのだという。

目からうろこだった。今まで見てきた田植えって何だったんだろう、自分がおいしいと思っていた米って何だったんだろう。そういえば花屋で働いていたときは、水を吸い上げやすくするために、茎を切ってから水中に挿していた……。過去を思い出しながら、エミコは原点回帰をさせられていた。

東京の拝島で暮らす農家のもとを訪れたときにも驚いた。10年かけて作り変えた畑の土の上に乗れば、足がずぼずぼと埋まっていくのだ。尋ねれば、適度な空気が入っているからだという。「人間関係もそうだろ。適度に穴が空いているから、いい関係を保てるけど、ぎつぎつの中でやったらそうはできないだろ」と、彼は言う。農家さんほど生きていくことの真理みたいなものがよくわかっているんだな……と思いながら、エミコは我が身を振り返っていた。
「在来種を使ってます」と言ってお客さんに料理を提供しているけれど、在来種とは何か説明することができない。雪国に住んだこともなければ、在来種の作物を作ったこともない。そんな自分が偉ぶって言ったり、雑誌にもてはやされていたりしていいのだろうか……。エミコはいつしか、東京で店をやっていることに疑問を感じるようになっていた。

エミコが両眼複視になったのは、そんな折のことである。両目で見たとき、ものが二重に見えたり、視界がぐらついたりする症状だ。遠近感が測れず、目の前にある皿から5cmほど離れた場所に食材を置いてしまうことも度々あった。それでも、エミコはだましだまし仕事をしていた。

折しも、いくつかの雑誌に取り上げられ、客が押し寄せていたときである。病院に行くと、「ヘルペス」という診断が下された。だが、検査入院をしても原因はわからずじまい。1日8錠のステロイド剤が薬として処方された。

薬の効果はすぐに表れたが、副作用も出た。毎日のように飲んでいるうち、仕事中、脳内で水がパシャンと跳ねるような感覚に襲われることが出てきたのだ。誰かが自分に向かって水をかけたのではないか。そんな錯覚もやがて、ステロイドにより血流が良くなりすぎているのではないかという疑いに変わった。このまま続けていたら血管が破裂してしまうかもしれない……。身体から発せられた赤信号だった。

そういったいくつかの問題や疑問が同じ時期に重なったのである。店を守りたい思いはあれど、自分が店を辞めさえすれば、すべてが丸く収まるのだ。もう辞めるしかなかった。2014年5月31日。エミコは Umuiを一時休業のような形で閉店させたのである。

 

生き方と料理と

長男の一言は、エミコに子どもの気持ちに思いを致していなかった自分を省みさせた。母親として自責の念に駆られていた当時は、「そういう性分だから無理」とは言えなかった。

最初は実家のある群馬に行く予定だった。ただ、群馬であれば、往復4,000円ほどで東京に来ることができる。子どもたちのためを想い、すぐには東京に来れない場所としてひらめいたのが山形の新庄だった。

ところが、いざ暮らし始めてみると、子どもたちのため、家族のためと「私」の存在を押し殺し、家庭で「母」として生きる日々はある意味苦行だった。家事を完璧にこなさなくたって別にいいじゃん。なんでこんなところで私は一人でいなきゃいけないの……。そんな思いが芽生えてきたが最後、エミコはイライラしたり、意気消沈したりせずにはいられなかった。

少しでも暇な時間ができれば、エミコはFacebookを開かずにはいられない。 Facebookで「動いている」友人の近況を見たり、人づてに入ってくる誰かの情報を耳にしたりすれば、たちまち焦りや苛立ちは掻き立てられる。動きつづけ、前進しつづけてはじめて、充足感を得られるエミコの心は安らぎも平穏も求めていないのだ。人からはよっぽど動いているように見えても、エミコにとっては停滞しているに等しいのである。

金銭と身体が許す限り、飛び回っていたい――。結局、エミコは自身の心と身体が発し続ける声に蓋をすることをあきらめた。山形に移住してから半年ほど経った頃、エミコは子どもたちに謝った。「お前たちのために山形に引っ越してきて、家にいるようにもしてきたけど、やっぱり無理」

「子どもたちには「ママが家にいるとうれしいけど、機嫌悪くなるからいや。外に出させて」と言われるし、主人にも「家にいてほしいと思ったけど、いると不気味だよね」と言われる。(笑)何をもって自由と言うのかはわからないけど、「もっと自由にさせてよ」と主人に言ったら、「十分自由にしてるじゃん」と言われたりもする。

人生をRPGとすれば、私は色んな場所で修行をしまくってレベルを上げていくタイプなのかなと。だって、無理なんですもん、どこかに留まり続けることは。

だから、主婦業をやっている人たちのことはほんとに尊敬します。朝、旦那を見送って、子どもたちに朝ごはんを食べさせて、洗い物をして、昼はママ友と一緒に食べて……というように、毎日同じような生活サイクルのなかで生きている彼女たちはもはや神に見えますから。(笑)授業参観に行って、子どもの成長を見て、ホロっときちゃうとかも絶対無理。

ワクワクしないこと、気持ちが乗らないことはしたくないし、しないんです。山形に来てからは、どこに行ってもすべてが新しいから、興奮して鼻血が出そうになってしまうくらいワクワクする。(笑)私の周りには旅好きの人が多くて、「どこそこに移住した」という話を聞くと、触発されるし、羨ましくなっちゃう。

そんな私の姿は、他人の目には無邪気と映ったりするらしいんですけど、自覚としてはまったくないんです。ただそのままで生きていますから。でも、それが良くもあり、悪くもあるんだなってことは、最近身にしみてわかるんです。(笑)TPOをわきまえて、言うべきか言わないべきかわかろうよ私、と思うこともありますね。

思ったことや言いたいことは、口に出したくなっちゃうんですよ。だから隠し事ができない。たとえば、長男と主人には内緒で、次男と二人で外食したときに「内緒にしてね」と言っておきながら、家に帰ったら私がしゃべってて子どもから怒られる、みたいなことがよくあるんです(笑)。

社会人として組織で勤めていた頃も、あれこれ物申して弾かれることは多かったかもしれない。TPO云々よりも、自分の正義を通す方を大事にしているのかな。1年間、正社員を経験して、自身が組織には向いていないことがわかりましたしね。そういう点では、店をやっているときは楽だったかなと思います」

幼い頃から周囲に合わせていくことは苦手だった。エミコが自身を「変人」だと自覚したのは小学校の頃。中学、高校、大学時代と、集団に溶け込もうと努めたが、ことごとくうまくいかなかった。高校時代、同じ部活に所属していた女子たちから総スカンを食らったりと、いじめの標的にされたことも何度かある。なぜか同性にはモテることも彼女たちの反感を助長したのだろうが、エミコ自身にはまるで心当たりがないのだ。エミコにとって、人間関係は頭から離れることのない悩みの種だった。今でこそ「変人万歳」と笑いながら言うエミコだが、それを受け入れて楽になったのはここ数年のことだとか。

30代半ば頃、勤めていた飲食店から干されたのも、その性質と無関係ではない。その後、働くようになった単価1万円クラスのイタリアンの店では、ひたすら仕事に追われていた前の店とは違い、手持ち無沙汰な時間も多かった。「女」という不利をはね返し、厨房に立ったり、アルバイトリーダーとして人に指示を与えたりするなど責任ある立場を任されていた前の店とは違い、葉っぱをちぎることしかやらせてもらえないのだ。なんでこんなことをやっているんだろう……。勤務中、ふいにボロボロと涙がこぼれてきた。

そのとき突然、言葉が降ってきた。

〈種は違えど、根は同じです。己を信じて。答えと真実はつねに自分の中にある。謙虚と感謝と向上心をあわせ持つあなたにできないことはありません。前を向いて笑顔で〉
「そのときに限らず、不思議だけど、ターニングポイントごとにポツリポツリと色んな言葉が降ってくるというか、ポコーンと浮かんでくるんです。胸に沁みてくる歌のフレーズ一つひとつが何度も頭の中でリフレインしてきたり、電車の中吊り広告でパッと目に付いた言葉からインスパイアされたり。ある方向へ流れていく雲を眺めていると、「その方向に行きなさい」との言葉が浮かんできたこともある。だから、アンテナを常に立てながら、感覚で生きることは大事だなとつくづく思うんです。宗教は信じないけど、神様は信じているんですよ。

生き方自体が即興というか、行き当たりばったりなんでしょうね。行き先を決めずに、その時々の感覚にまかせて歩いて行く方が私は好きだし、実際、これまでもそうやって歩いてきました」

エミコの生き方は、料理に取り組む姿勢にも映り込んでいる。
「『レシピがしっかりしていますよね』『豆の味がしっかりしていておいしいですよね』と、計算ずくでやっているように見られたりするけど、自分としてはただ目の前にあったものを入れただけだったりするんです。たとえば、きんぴらにバルサミコ酢を入れるのも、入れたらおもしろいんじゃないかと思えるから。

大事にしているのは、インスピレーションや感覚で生み出すこと。実際、その時々の部屋の室温や水の違いによって、感覚も違ってくる。これまでの経験からしても、セオリー通りに作れば絶対に失敗するんです。私には感覚で作る感覚しかない。いつも塩梅でやっているから、レシピを出してくれと頼まれても出せないんですよ。

だから、材料の配合が決まっているお菓子作りはできないし、たぶんパンも作れない。生地をこねて、発酵させて……みたいな地道な作業はできないだろうなと」

だが、山形に来てはじめて芋がらを調理した際には、オリーブオイルやスパイスを使うといった持ち前の自由な感覚が失われてしまっていた。エミコは山形(最上地方)に感化され、「芋がらは醤油と砂糖で……」という知識やセオリーにとらわれてしまっている自分を自覚したのである。
「たとえ型にはまっていなくても、それはそれでいいと考えていかないといけないなと思っています。即興的に生きるのが自分なりの生き方なのだから、そういうところが料理に出てこないと、たぶん私らしくなくなっちゃう。

こう思っちゃいけないのかもしれないけど、料理はあくまでも自己表現するための作品。今の自分を皿に載せるわけだから、あるやり方に固執してしまえば、そういう料理しか並べられなくなってしまう。だから、自分が考えていることを逐一チェックしながら、作っていくことが大事なのかなと思っています」