ライフストーリー

公開日 2015.5.1

Story

「体力がつづく限り、第一線でやり続けたい」

チャイニーズレストラン CAREN オーナーシェフ 荒木 徹弥さん

豊かな感性を

ただおいしいだけではなく、料理が運ばれてきたとき、お客さんが見た目の美しさに驚いたり、心を揺さぶられたりするようなものを作ることにも、荒木は心をくだいている。

一部の例外を除いて、料理を載せる皿を白色に統一しているのは、皿が個性を主張しないようにするためである。かぼちゃの黄、黒豆の黒、人参の赤、パセリの緑……。白いキャンバスに見立てた皿の上に、野菜を始めとした食材によって色を散りばめていくことで、見た目が華やかになるだけでなく、必然的にバランスよく栄養が摂れる――という意図があるからだ。

荒木が提供する中華料理は、モダンチャイニーズというジャンルでくくられたりもする。ターンテーブルの上に大皿に盛られた料理が載せられていく中華の王道とは異なり、フランス料理のように前菜からデザートまで一品ずつ提供していくスタイルだからである。実際、客からはよく「フレンチみたい」という感想をもらう。

それもそのはず。荒木はもともと、フレンチ志望だった。荒木を料理業界にいざなったのは、フレンチの盛り付けの美しさや繊細さでもあったのだ。

中華へと路線変更したのは、専門学生時代のこと。学校では、和洋中から製菓、デザートまで一通り学べるカリキュラムが組まれていたのだが、調理実習で作って食べたとき、一番おいしい、一番自分に合うと感じたのは中華だったのである。フレンチにしようか、中華にしようか……。しばらくの間、荒木の心は揺れていた。

そんなある日。荒木は、西洋と中華が融合された新しいスタイルの中華料理「ヌーベルシノワ」と出逢う。80年代、イギリス領の香港で生まれたものが、折しも日本に持ち込まれ始めた頃だったのだ。盛り付けはフレンチのように綺麗で、味は中華。「これだ!」そう直感するやいなや、荒木のなかで迷いは吹っ切れていた。

美しいものは、昔から好きだった。というより、美しいものに反応する心を昔から持っていた。

山形のなかでも田舎の方で生まれ育った荒木は、約1kmの道のりを歩いて小学校に通っていた。登下校中、入道雲が夏の青空にニョキニョキとのぼり立っているさまには心惹かれた。稲妻が落ちたり、空を横切ったりするさまには怖さを感じる一方で、そのきれいさに見とれるように空を眺めていた。幼い頃、婦人雑誌をよく眺めていたときも、ホールケーキのデコレーションなど、見た目のきれいさに惹かれていたところもあったのかもしれない。

大人になった今、毎年春、サラダに使う新物のグリーンレタスをちぎっていき、エメラルドグリーンに輝く中心部の葉っぱと対面するのは愉しみのひとつである。雑誌で綺麗に撮られている料理の写真を見れば、無条件に心が奪われる。あまりの綺麗さに、料理ではないんじゃないか、と疑いの目を向けたくなることもしょっちゅう。夕立とともに訪れる稲妻を飽きずに眺めているときの心模様も、子どもの頃と変わらない。雲や月を眺めてきれいだなぁと感じ入ったり、四季ごとの空気の違いや、風のあたたかさを感じたりと、美に対する心のアンテナは常に立っている。
「何事に対しても感じる心を磨いておかないと感動できないし、自分が感動できないとお客さんに感動を伝えられないかな……とかっこいいことを言っちゃいますけど、感じる心はふだんから大事にしていますね(笑)」

2013年、開店10周年を節目に、荒木は店をリニューアルした。テーブルや椅子を一新するほか、もとは白色だった一部の壁を赤色に塗ったのは、芸工大の学生が描いた絵画を展示するという構想を温めていたからである。コンセプトは『空腹だけでなく、心も満たすレストラン』。

現在、大小あわせて5枚の絵がカレンの店内を彩っている。荒木は東北芸術工科大学の作品展などに足を運んだりして、自身が気に入った作家から絵を借り、3ヶ月周期で新しい作品に掛け替えている。この企画も、自身の感性を豊かにするためにやっていることでもあるという。

 

プライドを胸に

何をやるにつけ、人と同じなのは嫌というへそ曲がりな性分を自覚したのは、思春期の頃だったろうか。中学高校の頃から、群れるのは嫌いだった。クラスメイトから「いつもおまえは一匹狼だな」と言われたこともある。といっても、学校内で孤立していたわけでもなく、友人もいた。
「群れの中に入って「個」が消されるのが嫌なんでしょうね。いつも「自分」というものを出しておきたいタイプなんだと思います」

就職したレストランで下っ端として働いていた時も、へそ曲がりは健在だった。
「僕は素直じゃなかったし、素直になれなかった。(笑)いつも、おれだったらこうやるのにな、と思ってた。本当はいけないんですけど、何かと反発していました。そもそも、上から命令されるのが好きじゃないんです。(笑)

和食に比べれば中華は多少ゆるいようでしたけど、この世界は上下関係の厳しい縦社会。素直なところも必要だけど、何くそ、今に見てろよ、くらいの気持ちがないと続かない。素直で従順なだけでは、プレッシャーに押しつぶされてしまいますから。実際、僕は毎日のように「うるせぇ!」と心の中で叫んでたけど、独立してやっていくためにはそれくらいのエネルギーは必要だと思います」

下積み生活は長かった。入ってから3年ほどの間にやらせてもらえた仕事といえば、鍋洗いや野菜の皮むきを中心とした雑用のみ。とはいえ、ただ雑用をこなしていただけではない。厨房から洗い場に飛んできた鍋についたソースを舐めたり、料理長が料理を作る手順を洗い場から見たりするのも勉強だった。かつては、「仕事は見て盗むもの」というのが職人の世界における常識であり、先輩からもそう教わった。荒木はいつも盗んでやるんだという気構えで仕事に臨んでいた。
「僕らより少し下の世代からは、「仕事は先輩が教えてくれるもの」という考え方に変わっていったようです。今はどこの厨房でも、学校のように懇切丁寧に先輩が教えないと、下の人間はついてこないと聞きます。時代が変わったんでしょうけど、人から教わるのと、自分からとりに行くのでは、身につく度合いがまるで違ってきますよね」

14年間働いた中華レストランに荒木が入ったのは80年代後半、ちょうどバブル景気が興った頃だった。クリスマスとなれば、ホテルはどこも高ランクの部屋から埋まっていき、予約すらとれないような時代である。クリスマスディナーは一人当たり1万円を使うのが当たり前。雑誌やテレビで頻繁に取り上げられるなど、大阪では人気店だったこともあり、料理長は月数百万の給料を稼いでいるのだ。下っ端として桁外れの忙しさに追われながらも、荒木は未来に希望を抱いていた。

だが、そんな景気のいい時代はほんの2、3年のこと。90年代に入ると景気は下り坂に突入。バブルがはじけてからは、パタッと客足がやみ、売上は激減した。当然、給料も減り、ボーナスもなくなった。同業者の中でも、バブルが崩壊するとはつゆほども思わず、店舗を増やしたり、店を大きくしたりして失敗した人をたくさん目にした。

いつまでも景気がいいわけではない。いい時もあれば、悪い時もある。天井が高ければ高いほど、底も深いんだ。調子がいいからといって浮かれることなく、兜の緒を締めておかないと痛い目を見るぞ――。商売の怖さを直に体験したことで心に刻みつけられた戒めは、今も荒木のなかに息づいている。

オープン以来、荒木はアルバイトスタッフを雇っているが、料理は最初から最後まで荒木自身が担当している。以前には、ランチの営業時間が終わる15時からディナーが始まる17時半までのクローズタイムも働かなければ間に合わないほど、来客が多い時期もあった。それでも独立前から今に至るまで、――経済的、空間的な問題もあるが――料理人を雇おうとは考えたことがない。
「職人のプライドみたいなのがあって、人に任せることができないんです。人にいくら教えたとしても、自分が思うままのことをその人はできないですから。自身にも、料理長の下で働いているときに、それを試みたものの叶わなかった過去がありますしね」

かといって、店を大きくするという展開にも乗り気にはなれなかった。
「20席くらいの店舗規模だと、すべて僕の手を経た料理をお客さんが食べられるし、僕の目も行き届く。過去には、百人単位のお客さんに出す料理も作ってきましたけど、そういう料理がうまいはずはないし、作りたくもない。だから、今のような感じがちょうどいいのかなと、現時点では思っていますね。

強いてあげれば、客席に顔を出して、お客さんと会話する時間を持ちたいという思いはあります。いかんせん、忙しくて出来ていない現状がありますから。

何にしても、今になって思うのは、子ども心に描いた夢が現実になっている僕はすごく幸せだなということ。レストランで自分の好きな料理を出して、やりたい企画をやりながら、飯を食えているわけですから」

むろん、その過程では努力もしてきた。

リピーターが多いとはいえ、ずっと来てくれることが約束されているわけでもない。いい意味で期待を裏切れるようにしたいという思いはいつも胸中にある。中華にこだわらず、和食やフレンチなど、色んなところに食べに行ったり、調味料にもこだわらず、イタリアンのオリーブオイルやバルサミコ酢を使ったり。柔らかい頭でおいしいと思うものは何でも取り入れながら、新しい料理を開発することにも荒木は精を出している。

今も、定休日である水曜日を除いた週6日間の営業日は、朝7時には店に入り、遅い時には深夜1時頃まで仕事をする。定休日とて、仕入れなど仕事がらみのことをやる必要はあり、ろくに休むこともできない。かたや、世の中は週休2日なのだ。
「馬車馬のように働いているというか、なんでこんなにおれは働いているんだろう、時給換算したら一体いくらになるんだろうと思うことはあります。(笑)でも、好きでやっているからしょうがない。今の自分には満足しているし、幸せだなと思っていますね」

荒木は今年48歳。寄る年波には勝てず、体力は今後も衰えていく一方だという未来は目に見えている。いつまでこの仕事を続けていられるのだろう、という不安もないわけではない。二人の息子に「後を継げ」と言うつもりはなく、自身の身体が動かなくなったり、気力がなくなったりすれば引き際だと思い定めてもいる。

それゆえ、荒木は仕事終わりにジムに行ったり、休みの日にはジョギングをしたりする。「身体が資本」と健康に気を遣いながら過ごす日々に張りをもたらしているのは、自分の代わりはいないという状況認識である。
「人に任せて楽を覚えるとダメなんですよ、人間って。組織の中で後進を育てていくためには、やむを得ない部分もありますけど、たとえば料理長になって下の人間に仕事を任せるようになってしまうと、料理人としては終わりかなと思うんです。

僕はそうなりたくないし、ふんぞり返っていたくもない。人一倍働いて、人を納得させるくらいのことをしないと、人はついてこないでしょうから。これからも、体力がつづく限り、第一線でやり続けたいですね」