ライフストーリー

公開日 2014.11.28

Story

「心の平穏が、ここしばらくの自身のテーマなんです」

石島気療塾 代表 石島 直樹さん

心穏やかに…

30代半ば頃。病気から回復し、気の力を体得した石島は新たな”自己開発”を始めていた。
「うつを発端とした一連の経験を通して、人体のしくみのようなものははっきりわかったと。ならば、どう過ごせばよいのだろうかと考えたんです。

思い返せば、昔の自分は掲げた何らかの目標や理想に向かって努力を積み重ねていくことが成長するための最良の道筋だと思っていました。そして、その道筋をなぞるような生き方を実践し続けていました。

ただ、理想というものは抱き続ける限り、現実とのギャップは埋まらない。乗っているときはよくても、疲労してくるときつくなってくる。それでも、体のことを考えずに無理をする…。

そこがうつの原因だったかなと考えると、勉強や仕事以前に自分の体調をいかに一定に保っておくかが幸せになる一番のカギじゃないかと。だから、無理したなと感じたら、休んだり、邪気の量を自分で測って抜いたりしながら体調を戻すようにしてきました。そして、目標などを決めずに、目の前のことをやりきるという感じで日々を送るようにしました。

最近は、心が乱れることをすごく嫌う自分がいます。というのも、イヤなことを言われて落ち込んだりすると、ストレス物質が出て、それを処理するために「気」も含んだ大量のエネルギーを使わなくてはなりません。そのエネルギーの老廃物こそ、いわゆる東洋医学でいうところの「邪気」なんですよ。それはもったいないので、他人の言葉に耳を傾けはしても、体と心にまでは影響を及ぼさないよう心がけてきました。

「心の平穏」はここ8、9年くらい自分のテーマとしているんです。それにともなってか、若い頃に比べたら楽になりましたよね。かつてはちょっとしたことでもイラついてしまう自分がいましたが、最近ではよっぽどのことがない限りそういう気持ちも芽生えなくなったし、さほど心が乱れなくなりました」

石島は、音楽にせよ、気にせよ、「ほぼ独学」で体得してきた。ギターの”道標”がほとんど教則本のみであれば、気功や瞑想の”道標”もほぼすべて関連書籍だった。
「音楽に関して言えば、自分より上手いミュージシャンはアマチュアの方の中にも山ほどいます。

なぜその差が生まれたのかを考えた時、普通は有名なバンドや好きなバンドの曲をコピーして、それを蓄積させることで上達に結びつけていく一方で、自分はあまりそういうことをしてこなかったことに気づいたのです。今でも人の曲は頭からすぐ消えてしまうし、ほとんど弾けません。

振り返れば、自分が出したい音、作りたい曲を含めた「自分の音楽」を模索し続ける方へと自然と足が向いたような気がします。プロのミュージシャンを目指したのも、自分の曲を世に出すためで、職業ミュージシャンになりたいわけではなかった。とはいえ、最終的には自分が最高にいいと思った曲を世間から認めてもらいたいという欲求もありましたけどね。

だから、 28歳の時、トントン拍子でコンテストの最終審査まで勝ち上がったとはいえ、プロデューサーの力に拠るところが大きかったので、素直に喜べない自分がいました。レコーディング中も、彼は私が何年もかけて作った曲をさらっといじる(音色などを変える)わけです。自分でも異常だと思うんですけど、それだけで気持ちが萎えてしまった。たとえるなら、描きあげた絵に筆を加えられるようなもの。だから、仮にそれでいい曲になったとしても、嬉しくなかったんですよね。

そういう意味では、妥協しなくていい、つまり自己完結できるであろう絵描きの方がうらやましく感じます。と同時に思うのは、人の力を借りなければならない音楽は自分に向いてなかったのかなということ。ボーカルにメロディ、ドラムのアレンジと全てやっていたけれど、自分の力だけでは絶対に完成まで至らないことがもどかしかったですから。

その点、今の仕事は、自己完結ができるという意味で、最高の仕事だと思っています。すべて自分で決めた通りにやれるので、ストレスはないんですよね」

2014年4月より、石島は仕事のかたわら仙台にある赤門鍼灸柔整専門学校に通っている。柔道整復師の資格を取るためだ。
「あくまでも、「健康」や「病気」の本質的なところをより広範囲に発信していくための手段です。

今では、肩書きがないと不安になるというか、裸ではいられない感じがまったくなくなりました。何も目標がない、目指していない自分に不安を覚えることもなくなりました。

でも、それはきっとこの世界に入ったおかげ。落ち着くところが見つかったうえに、本当にいいものに出逢って体得できましたから。

ひるがえって、山形に戻ってきて本屋に通っていた時は、失った音楽の代わりとなるような自分のテーマを早く見つけなきゃと焦っていたし、あがいてた。うつを患っているところに自身が何者であるかを証明するための心の支えがなくなるというダブルパンチを食らい、自己嫌悪の塊と化していた。当時は、「気療師を目指す」ことを立ち直るためのよりどころにしていましたから」

自身の変化にともなって、ロックに対する捉え方も変わった。
「若い頃は、ロックは怒りだと思ってたんです」

24歳でアメリカに渡った時、石島は日記に「ロック(の本質)は怒りだ」と書いた。
「遡ると、中学時代、いわゆる管理教育的な学校の先生の理不尽な態度には、内心強い反発心を抱いていました。でも、内申書の点数が響く受験のことを考えると表立ったことはできない…と抑止力をはたらかせている冷静な自分もいたんです。事実、不良になったり荒れたりすることはありませんでした。でも、心の中はまさしく、当時流行っていた尾崎豊の歌詞のまんまでしたから。

そんな風に持て余していた激しさをぶつけられて、かつ昇華できる場所がロックだったのかもしれませんね。大人になっても怒りやさみしさといった、ネガティブなところはずっと追求していたし、追い込めば追い込むほど、いい曲が作れるんじゃないかと思ってた。精神を病んでしまったのは、音楽と体調がリンクしながら自身を負のスパイラルにどんどん引きこんでいった結果じゃないかなと。だから、決して楽しくはなかった。

そんな過去を経てきた今思うのは、ロックは愛だなと。愛がないと何の解決にもならないなってこと。音楽に限らず、すべての基本は愛。そんな答えにたどり着いたんです」