Profile
※ 約6,000字
雨やどりした場所で
さいしょは雨やどりのつもりだった。
年の暮れも押し迫った2011年冬。アルバイトとしてミニッシュに入社した27歳の金城の脳裏に、正社員として働く未来は描かれていなかった。
軒先から目を移ろわせていたのは、建物の設計に関わる仕事だった。その1ヶ月ほど前、ハローワークが提供するAutoCAD(2D、3Dの図面を描けるパソコンのソフトウェア)の無料講座を受講した金城は、そのスキルを生かせるような職場を探していたのである。
だが半年も経たないうちに、「設計」という道標は視界からかすんでゆく。「職場の雰囲気は明るくて、いちアルバイトの自分にもかまってくれるし、仕事もちゃんと教えてくれる」ミニッシュの居心地は最高だったのだ。なんてあったかい会社なんだろう―—。生まれてはじめて味わう感覚は、歳も歳だし、この会社で身を落ち着けてもいいかなという思いを育んでいった。
そんな金城がミニッシュの正社員となったのは、入社後約半年が経った2012年春のことだ。「社員になれへんのか? なりたいんやったら社長と一度話してみたらええんちゃうか?」社員旅行に参加した折、専務の藤尾からそう提案されたことがきっかけだった。
「10代の頃から相次いで、人間不信になるような職場環境やできごとに遭遇してきたからでしょうね。ちゃんと対話してくれるこの会社がよけいに居心地よく感じられたんだと思います」
梅雨空の下で
高校を卒業した金城がさいしょに選んだ道はパチプロだった。
「絶対勝てるで」と親戚の兄に連れられてパチンコ屋に行ったことがすべてのはじまりだった。その日、これまでにない厚みに膨らんだ財布をポケットに入れて家路についたとき、すでに泥沼へと両足を突っ込んでいたのかもしれない。
決定打となったのは、その翌日から1週間、勝ち続けたことだった。以来、毎朝5〜6時から店の前に並んで“打つ”生活がはじまった。規制が緩かった当時のこと。店がわかるように示してくれていた勝てる台さえ確保できれば、労せずして毎日10〜20万の金を稼ぎ出せたのだ。むろん負ける日もあったが、全体的な収支で見れば、余裕で看過できるほどの勝率を維持していた。
折しも、これから就活を始めるという時期に差し掛かっていた。苦労してきた両親を楽にさせてあげたいという思いで、「儲かる仕事だ」と聞いた建築士の道を選んだはずだった。高校入学後、志を実現させるために黙々と勉強に励んできたはずだった。だが若さも相まってか、一度覚えた快楽の味はしだいに冷静な思考を奪ってゆく。
こんなに勝てるんや。これやったら、べつに就職せんでも生きていけるやん……。まばゆい光に酔いしれながら生きる身に、求人誌に掲載された「給与:15〜16万/月」という条件はくすんだ色に映るだけ。3社ほど面接を受けたとはいえ、もはや地道に働こうという気持ちは失せていた。
以後、親戚が営む飲食店でアルバイトをしながら、パチプロとして生計を立てること約2年。規制により以前ほど勝てる台と勝てない台がはっきり区別されなくなった、つまり以前ほどやすやすとは勝てないようになったため、金城は足を洗うことを決意する。
就いたのは知人に紹介された、建築資材を塗装する家族経営の会社だった。
改心するつもりで正社員として入った会社である。少々のことなら、我慢してでも仕事は続けるつもりだった。しかし1年、2年と勤めても給料はまったくあがらず、ボーナスもなし。何らかの役職に就く、などというキャリアパスも一切描けないままなのだ。おまけに、仕事を丸投げされるようにして部署の責任者を任されるなど、雇用主から「雑な扱いを受けている」としか受けとれない職場環境でもある。そもそも体力仕事だから、長く続けられても50代までだろう……。幾重にも重なるネガティブな側面に、不安は募るばかりだった。
知り合いに紹介された会社を辞めてしまうことは後ろめたくもあった。だが「未来の見えない会社」で働くことに限界を感じた金城はある日、社長に「辞める」意思を告げる。
そのとき、自身を引き留めようとする態度を微塵も見せない社長の態度に、金城は落胆せずにはいられなかった。3年間働いてきたのに、そんなものか。もし何らかの未来を提示してくれていれば、留まる理由にはなったかもしれないのに……。
胸を埋めつくすさびしい気持ちがしかし、辞めるという決断を後押しする。後輩たちに事情を説明した金城は、彼らが仕事をやりやすいように引き継ぎをして会社を去ったのである。
次に勤めたのが木型屋だった。前職とは打って変わって、職場の人間関係はすこぶる良好。社員の教育にも力を注いでおり、勉強会も定期的に開催されるなど、辞める理由は見当たらなかった。
その反面、体力的には苛酷な仕事だった。アルバイトながらに、勤務時間は10:00から翌日の午前0:30、1:00まで(遅い時には2:00まで)。さらには刃を扱うため、指や手を丸ごと失ってしまう危険性と常に隣り合わせなのだ。5,6針縫う傷なら「その程度で済んだ」と言えるほど危険度の高い仕事である。怪我をするのは決まって集中力が落ちた夜の時間帯。最悪の事態は避けたいと金城に辞職を決意させたのは、立てつづけにケガをして両腕に包帯を巻いた自身の姿だった。
当時金城は27歳。パチプロをやめてからは、まっとうな仕事をして自活していくことを第一義に置いて生きてきた金城の胸裡に、建築士の夢は置き去りにされたままだった。そんな折、人づてに聞いた「AutoCADの扱い方を学べる無料講座をハローワークが提供している」という話は自身の原点を見つめなおすきっかけとなる。
2011年秋、金城は再スタートを切るべく、設計事務所に事務職として入社する。これまでの仕事で事務スキルを一切身につけていなかった金城はユーキャンの資格を取るなど、独学でWordやExcelを勉強。面接時には「事務作業ははじめてなんですけど、大丈夫ですか?」「いいよ、教えるから」という口約束を交わしたはずだった。
しかし現実は想定を大きく裏切った。直属の上司からほったらかしにされたのである。しかも、何を学んでいいのかすらわからず途方に暮れる金城を「なんで自分で学ぼうとせぇへんの?」となじる上司がいた。質問をしに行っても、鬱陶しがられるばかり。まわりも誰ひとりとしてフォローしてくれないような状況に、金城は肩身の狭い思いを感じずにはいられなかった。
よほど金城のことを嫌いだったのだろう、その上司は「あいつ使えませんよ」と社長の前でもくさしていたらしい。入社してまだ半月も経たないうち、金城は社長に呼び出されてこう告げられた。「ろくに仕事も覚えようとせぇへんねやろ? 君は向いてへんな」
理不尽に過ぎる扱いに悔しさがふつふつと沸き上がってきた。とはいえ、その悔しさをバネに見返してやろうという気にもならなかった。「今までで一番ひどかった職場」に対する憎しみまじりの嫌悪感を胸に退社したのち、流れ着いたのがミニッシュだったのである。
「ここは今まで出逢ったことのない会社なんです。社長もすごくあたたかい人で、たとえば最近、忙しさと暑さで体調を崩していたときも、一社員の僕に「体調大丈夫なんか?」というメールを送ってくれました。社長だけじゃなくて、デリバリー部門の社員の人たちもやさしいですしね。
この会社に入ってわかったのは、仕事内容より職場の人間関係のほうが僕にとっては大事だということ。ここは僕の価値観を変えてくれた場所なんです」