ライフストーリー

公開日 2014.7.11

Story

「念ずれば、花ひらくんです」

近畿大学泉州高等学校 野球部監督 清水 雅仁さん

Profile

1962年生。兵庫県出身。神戸村野工業高校を卒業後、大阪経済大学を経て、大阪市信用金庫にて22年間勤務。終盤の7年間は、得意先課にて営業マンを務める。その傍ら、同社軟式野球部にて39歳までプレー。3度の国体優勝を経験。選手生活引退後には、仏教大学の通信過程で教員免許を取得。07年4月、大阪産業大学附属高校教員、野球部コーチに就任。13年4月、近大泉州高校に国語科教諭として赴任、野球部コーチとなる。同年8月より監督に。小学校から始めた野球に関わること、のべ43年。

※ 約13,000字

チームの今

「100人おったら99人が太成勝つと思っているやろ。先生(僕)も負けると思っている。うちが勝てると思ってるんはおまえだけや。でも、それはそれで面白い。ひとつでかいの食おうや」

近大泉州高校が清水監督率いる新体制で動き出して間もない2013年8月17日。翌年のセンバツ出場権を争う秋季大会の組み合わせを決める抽選会の結果、1回戦の対戦相手が太成学院大学高とわかると、清水はチームの主将にそう伝えた。そして、部員たちにも言った。
「絶対にあいつら負けると言われたら、絶対はないことを証明しろ。出てくるモンスターを必ず倒すんや」

その後、打倒太成を目標に練習に励んだ部員たちは接戦の末、8-7で勝利。終盤には同点2ランが飛び出すなど、劇的な試合展開だった。
「バットを振れというような具体的な指示は出していません。彼らの中の反骨心がそうさせたんだと思います。家庭の食卓でたとえるならば、僕は味噌汁からデザートまで子供の目の前に配膳して「はい、食べなさい」というやり方はしていません。彼らの目の前には料理を並べずに、食べたいものは自分たちで取りにいかせるバイキング方式です。その代わり一切残すな、もう無理って言うくらいまで食えというのが僕のスタンスですから」

その後、2回戦も勝利した近大泉州だったが、3回戦にて当たった大商大堺に僅差で競り負け、部員たちは悔し涙を流した。そこで清水は彼らに伝えた。「泣かんでええ。お前らはまだ出だしや。新しい歴史を作ってくれ。来年の春の大会は勝つ。最低でもベスト8まで行こう」

いつしか部員たちの練習態度にも変化の兆しが見えるようになった。学校の校舎に併設された寮の前でティーバッティングやウェイトトレーニングができるようにスペースを手作りで確保。学期中、20時30分に終える全体練習後、1時間以上の自主練習をするようになった。また、昨年の冬期間は雨の中でも練習を休まず、オフは一日もとっていない。日付が変わる頃までバットを振り続けていた部員もいたと清水は振り返る。
「コーチ時代からこの子らを見てきてまだ1年も経っていないけれど、変わりましたよ。きっと、努力したら強くなると思い始めたんじゃないかな。でも、彼らには言っています、今は近大泉州レベルでよく練習しているのであって、全国クラスや大阪の上位クラスと比べたらまだまだ足りひんよと。

はっきり言って、うちの選手に甲子園の常連校の選手たちのような力はありません。ならば甲子園に届かないかというと、そうとも言い切れない。でもそれをなし得るためには、やっぱりイスに座っていたらダメですよね。立ち上がってジャンプして、時には人の手を借りながらなるたけ高いところに手を伸ばすという姿勢が必要でしょうし、そうすればきっと甲子園にも手が届くはず」

 

部員たちに望むもの

昨年8月。秋季大会が始まるに当たり、監督となった清水は初めて背番号を選手に渡すという経験をした。その際、清水が選んだベンチ入りメンバー20人のうち2人に与えた背番号は“努力賞”だった。
「彼らは技術面では劣っているかもしれません。でも、ここ一番という時には使おうと思っていました。野球の神様が打たせて(抑えさせて)くれるかもしれませんから。実際には残念ながら使えなかったけれど、彼らは今でも努力します。それに伴って技術も格段に向上しています。

他にも、今まで野球を楽しいと思えなかった子が「野球が面白い」と言ってくれるようにもなりました。ボールを遠くに飛ばすコツが自分なりにわかるようになったからでしょうか。自主練習を毎日やっている姿も目にするんです」

ところが、努力を怠る選手に対して清水は一転して厳しい姿勢をとる。
「一生懸命プレーできない子を見るといらだちを感じます。あきらめる子はここにいりません。競争からスッと身をひく子を見ると、お前みたいな根性ない奴はじめてやと怒ります」

近大泉州高校野球部の練習には緊迫感が漂う。これまで清水は部員が出している声が響いてこないとみるや、「なんで心入れへんねん!もっと魂こもらんか」と幾度となく檄を飛ばしてきた。
「ポーズをとっていれば怒られないと思っているんでしょう。でも、こちらはすぐにわかります。実際、心がこもっていると、トーンから表情まで絶対変わってきますから」

以前、練習試合前のノック練習中にこんなことがあった。

ノックの打球をはじいたらはじきっ放し、パッと拾ってファーストに投げないというプレーを繰り返す部員たちがいた。本気度を感じさせない練習態度をとる彼らを反省させるべく、清水は練習から外した。手持ち無沙汰となった彼らはしばらくすると、清水の下に近寄りこう言った。「すみません、謝りに来ました」

そこで清水の堪忍袋の緒が切れた。「もうええ。今日一日、絶対おれの前に現れんといてくれ」その日試合を観に来た保護者連中が見守る中でも態度が軟化することはなかった。清水は保護者に「連れて帰ってください」と告げ、2年生のほとんどを帰らせたのだ。
「技術如何の問題ではありません。心ある奴なら「一生懸命やるので、もう一度練習に入れてください」とでも言いませんか。きっと彼らはそれまで「すいません」と言えば事が済んできたんでしょう。そしていつしか、謝ることを覚えたんでしょう。でも、僕はそういうのは受け入れられませんでした。

だって、三振するために、あるいはエラーするためにグラウンドに立つ奴はいませんよ。大事なのはその後。ミスをどうカバーするか。そういうことはとにかく徹底して言ってきましたね。まぁ彼らはいち早く理解してくれるようになったので、良かったかなとは思っていますけど」

「蓋を開けてみれば、野球以外のことを教えている時間の方が長いんです」そう語る清水は監督就任以来、時には部員たちを厳しく叱ることもあった。時には親子の勉強会を開いたりもした。
「高校野球に携わるようになって、もう辛抱することばっかですよ。(笑)おれこんなに辛抱強かったかなと思うほど。実際、小言を言う機会も少なくありません」

そんな清水の厳しさには理由がある。
「人造人間を作りたくないんです。人造人間を作ってしまうのは高校野球の積年の罪。それでは子供らがかわいそうすぎます。だから僕は、怒る時も「なんで失敗したん?」と質問形式にするんです」

09年夏、兵庫県の関西学院高校が70年ぶりの甲子園出場を決めた際、清水はその秘訣を監督の広岡に尋ねると、こんな答えが返ってきたという。「何もしていないんですよ、実は。勝因はめちゃくちゃ頭良い子、勉強できる子が多かったこと。ピンチになっても自分が何したらいいか自分らで考えよったんです」
「それでピンと来たわけです。監督は不在でいいんです。子供らにも「うちは監督はいらない」と言ってます。マネージャーも、監督の小間使いのようなポジションではなくて、コーチだと思って接しています。もちろん彼を怒る時もあるけれど、ある程度は彼のやりたいことを尊重しているつもりです。グラウンドの草むしりも自分でやりますし、嫁には「おれはグラウンド整備のおっさんや」という冗談を飛ばしたりします。(笑)むろん監督責任を放棄しているわけではなく、トップダウンの組織ではないという意味ですけどね。とにかく、監督である僕が満足するような1日はいりません。結局、答えを出すのは子供らですから。

そうは言っても、ミーティングの場などで僕の考えを話したりはします。陰でマネージャーやキャプテン相手に伝えたりもしています。「子ども主体」ってすごく聞こえがいいけれど、一歩間違えたらただ子どもらに任せているだけのそこらへんのおっさんになりかねないという怖さはありますから。

そういうことも踏まえた上で僕がやるべきなのは、新しい練習を提案したりというように自身の経験をもとに引き出しを作ってあげることなのかなと。引き出しにしまったものを出すか否か、自分でコントロールできる人間になってほしいなと思っています。

子供らにも話していますが、大学では(勉強で入った人であれ、スポーツで入った人であれ)放ったらかしにされるのが一番怖いところですから。そういう環境では目の前にある機械や設備をどう活用していくかを自分の頭で考えながら、自分の弱点を把握して強化しないことにはおそらくやっていけない。だから、違う自分をもう一人作って、自分の今ある状態でいいのかどうか常に確かめる目を持ちなさいよと」

そういう清水の考えは、どんな経緯をたどって形作られてきたのだろう。清水雅仁という人間は、どんな人生を歩んできたのだろう。

 

今に連なる過去

清水の野球歴は43年。野球一色だった高校、大学時代を筆頭に、人生のうち多くの時間を野球に費やしてきた。だが、すんなりここまで来たというわけではない。高校時代と大学時代の2度、野球から逃げており、「おれは野球でいくと覚悟するまでにはそれなりの時間を要した」という。

清水が高校生の頃の70年代後半、高校野球は根性論と精神主義に支配されていた。極めて軍隊式な練習のさなかにもっとも重視されたのはとにかく数をこなすこと、いわば質よりも量だった。
「後々振り返れば、実に無駄な時間がたくさんあったなと。練習も長時間することが良しとされ、夏場となると平日の練習は23時半までに延び、帰宅する頃には明日になっている日が続きました。また、試合に負けた場合など、罰という名目でダッシュ100本・ベースランニング60本というメニューが組まれたり。うさぎ跳びを2時間半やったこともありました。

当時は、なんでおれは野球だけやってんねやろ、こんな練習ばっかりやっててほんまに甲子園行けんのか、度々湧いてくるそんな疑問を掻き消しながら苦しい練習にも耐えていました。だから、充実感は伴っていません。ただ毎日惰性で練習しているだけ。誰のために野球をやっているのかもわからなくなっていましたし、それこそ魂なんてこもってなかったですから。