ライフストーリー

公開日 2015.8.8

Story

「自分のために生きている感覚はあまりないんです」

ごはん屋 Umui サトウ エミコさん

「地道に」を心がけて

2014年6月30日に一家4人で新庄に移住してきてから1年が経った。
「いまだになぜ山形を選んだのかはわからないし、新庄にずっといるつもりはこれっぽっちもない。同じ最上地方ならむしろ、真室川町や鮭川町のような僻地の方が好き。生活は大変といえば大変だけど、自然を感じたいからそっちの方がいいかなと。

「3年経てば違う」と言われるかもしれないけど、どれだけ雪が降っても雪のある景色は好きなんです。たしかに不便だとは思うけど、不便だからこそ知恵は湧くのかなと」

育った家が貧乏だったため、食卓には同じ料理が並ぶことも多かった。洋服もお下がりだった。結婚当初は、それこそ薄給で何とか生活をやりくりしていた。しかし、だからこそ、ホワイトソースやデミグラスソースが買えなければ作ればいい、という気持ちを胸に工夫で乗り越えてきたのだ。
「不便なら工夫すればいいじゃん、雪があれば雪を楽しめばいいじゃんという発想にしかならない。昨年、初雪が降った日に道を歩いていたとき、雪が積もった池の水の中で生き物が生きているのを見て、あ、雪を嫌だと言っているのは人間だけなんだ、ほかの生き物はがんばって耐えて生きているんだと思うと感動しちゃいましたから。

春になって、植物が一気に芽を出したり、動物たちが元気になっていったりするのを見ると、雪が降る意味ってあるんだなと思うんです。雪が降らない関東では、みんなすごくせわしなく生きているし、冬も作物を植えれば土地が休まる暇もない。一方、雪国は土地が休まる時間があるからこそ、食べ物がおいしいし、知恵を使って生きていくんだろうなと。山形で生きている人たちの暮らし方を見ると、おこがましい言い方ですけど、日本人に欠けているものが何となく見えてくる気がするんですよね」

山形に来てから、農薬や化学肥料に対する考えも変わった。現場を見るうちに、それらを使うようになった背景に目が向いたのだ。東京で店をやっていた頃、エミコは無農薬や無化学肥料で栽培したものに限定して食材を仕入れていた。
「たとえば無農薬、無化学肥料、自家製堆肥で作った味噌を使うとして、原料となる大豆を作るまでがどれほど大変か、なおかつそれをする人間がどれほどいないのか。労働量あたりの賃金は東京と比べれば半分程度。手を真っ黒にしながら、週に6日働いてそれだけの給料しかもらえない人たちが作った無農薬の大豆を、都会の人たちが「これがいいです」と言っているのはおかしいだろう……と思うようになったんです」

最近では客に対しても、「無農薬や無化学肥料のものはいいかもしれないけど、まずは自分でそのやり方で作ってみてください。その大変さを知らなければ、食べる資格はないです」と忌憚のない意見を口にすることもある。
「添加物にしても同じ。絶対にいけないと思うけど、完全に排除して生活するのは無理じゃないですか。ジャムを例にとれば、高度経済成長期、子供たちが喜ぶようにペクチンとか色んなものを使って、本物に似せたものを作ろうとしてきた背景がある。今は豊かだから手に入るけど、その文化が残っていることを無視しちゃいけないと思うんです。

でも、最終的な目的は、無農薬、無化学肥料、添加物のない食材でみなが健康になるような世の中にすること。私がその人に直接作らなくとも、周りが包み込むような世界にしていきたいなと思っています」

Umuiを閉店する際、エミコは山形を一時定住の場所としてしか考えていなかった。常連客にも「3年で東京に帰ってきます」と話していた。だが、暮らし始めて早々に、エミコは前言を撤回せざるを得なくなっていた。
「1軒の農家さんだけでも尽きない魅力がある。彼らから話を聞いたり、料理を教わったりするだけでも十分におもしろいんです。そんな人たちが山形のあちこちにいると思えばワクワクしちゃう。かといって、山形に固執しているわけでもないんです。青森や秋田、岩手など東北の他の県にも足を運びたい。いずれにせよ、当分、東北からは離れられないだろうなと思っています」

とはいえ、前向きに捉えられるなってきたのはつい最近のことだ。今年の1月頃までは、山形はエミコにとって二度と帰りたくない場所だった。どうして、人のプライバシーに土足で上がり込んでくるようなことを平気でしてくるんだろう。こんな閉鎖的な土地は嫌だ……。慣れ親しんできた都会生活とのギャップも手伝って膨らんだ嫌悪感のあまり、家族を捨ててでも、帰って来たくないと思うことすらあった。

そんなことをFacebookで愚痴っぽくこぼしていたとき、山形の人たちからは共感やアドバイスのコメントが届いた。後日、そのうちの一人から直接「私は友達だから。これまで何度もエミコさんの料理を食べさせてもらっていてよくわかってる」と言われたとき、思わず涙が溢れてきた。彼女の言葉は、閉じて固くなっていたエミコの心をやわらかく溶かしていった。
「どこも一緒なんだろう。自分が変わらなければ、周りも変わらないだろう。そうとわかった上で来たはずなのに、忘れてしまっていたところがあったのかなと今になってみれば思いますね」

エミコの人生RPGにおける“山形ステージ”はまだ始まったばかりだ。今年からは、借りた畑で大豆などを自ら作りはじめた。6月には東京、神奈川巡業も無事に終えた。現在のミッションは「山形じゅうを回って、山形の伝承野菜やそれを作っている農家さんの存在を伝えていくこと」。
「頭のほんの片隅にでも留めておいてくれるだけでいいから、いつか繋がるときがくればいいから、私はただ黙々とやっていきたいなと。

たとえば、まける米ツアーをやっている新庄の高橋さんたちは、「オーガニック」という言葉が世に広まる前から、オーガニック的なことをやっていたわけです。でも、今やメンバーの高齢化により、どんどん衰退してきてしまっている。彼らのように地道に続けている人たちや、このままでは衰退してなくなってしまうようなところの方を、私は手伝っていきたいなと。華々しくやっているところやすでに自分の世界が出来上がっているところには、黙っていても人が来るでしょうから」

地道にやっている人びとの姿を見て思い起こすは、小学校時代のことである。

6年間を通じて、エミコは通信簿に「あなたは地道な努力をしなさい」と書かれ続けていた。勉強も運動も、図工や音楽であれ、さほど努力をせずともある程度のレベルに達することができた。そのせいか、教師曰く、自分より能力が低い人のことを見下す癖があったらしい。悪気なく思ったことを率直に言い、相手を傷つけたことは一度や二度ではない。しかし、エミコにはまるで自覚がないため、直そうという発想にもならなかった。

癖を自覚したのは、小学校6年生のときだった。直接言ったわけではなかったが、何の気なしに口にした一言が目の前にいた人の逆鱗に触れた。馬乗りになった相手から髪の毛をひっつかまれ、何発か殴られた。教師から「これが、お前が地道に努力していないことの結果なんだ」と諭すように言われ、ようやく気がついた。率直であるあまり、TPOをわきまえない発言をしてきたことを自覚したのも、その時のことである。

中学生、高校生になると、小学生の頃に比べて、人による出来不出来の差が顕著に表れてくるものである。エミコも周囲との違いを気にするようになるにつれ、おぼろげながらクラスや学校において自分はどの位置にいるか、客観的に把握できるようになっていた。とはいえ、実感にはほど遠かった。「自分はできる人間だ」という前提を疑うに至ることは一度もなかったのだ。

現実を突きつけられたのは30代半ば頃。再度、料理をしようと飲食店でアルバイトを始めてからだった。大手カフェチェーン、惣菜メーカー、ピザチェーンと、職人が勤めていない店で経験を積んできたエミコは、人生において初めて目の当たりにする職人の技に愕然とさせられていた。料理に対する姿勢が違うことは言うまでもなく、包丁さばきひとつとってもまるで違うのだ。そのときエミコは人生ではじめて「できない自分」と出会っていた。上には上がいるんだ。これまで私はできたつもりになっていただけなのか……。できない自分を思い知らされるたび、エミコはいたたまれなくなるほどの恥ずかしさに襲われるのだった。

もっとも、その経験はエミコの胸中に地道な努力をしようという明確な意思を生んでいた。以降、かつらむきをするときなどには、念仏を唱えるかのごとく「地道、地道……」と言い聞かせるようになった。実際、せっかちな性分ゆえ、すぐに手が滑ってしまうのだ。しかし、苦手意識があるからこそ、かつて抱いた意思は今もエミコの胸に生きつづけている。「地道にやっていくことが何より大事」というつぶやきは、急いてしまう心を落ち着かせるために欠かせない“呪文”なのだ。
「世の中の大きなブームに乗っちゃうのが怖い、というかブームが去ったときが一番怖いというのもありますね。華々しくて、楽しいことも大事だけど、もっと地道にやることの大切さを見ていかなくちゃいけない……と自分に言い聞かせているんです。たとえ日の目を見なくとも、背中を見たときに、子どもや他人が何かを感じて、種がまかれていくような生き方をしていくべきなんだろうなと思っています」

 

Umui はずっと

エミコの根底にある思いは、Umuiをオープンした2011年から変わらない。

「悲しい時には元気が出て 不安な時にはほっとして 嬉しい時には笑顔が溢れる 毎日のごはんを」名刺に書かれている文言は、エミコ自身の実体験から紡ぎ出されたものである。

34歳になる2006年は厄年だった。働いている和食のチェーン店にバイクで通勤していたエミコが、その年に遭った、あるいは起こした交通事故は6件。急ブレーキにより、滑って顔から地面に転んだ6度目の事故では、前歯を3本折っている。

店のために何かをしてあげたい一心で身を粉にして働いているときだった。だが社員からは言われた。
「その頑張りは美しいかもしれないけど、正しくない。してあげたいという気持ちが強いのはダメだ」

まるで納得できずに、「だったら、なぜ会社の方針を変えないんですか? どう考えても、この仕事量に対して、人や時間が足りないですよね?」と反論しても、「仕事の効率を上げたり、簡素化したりすればいい」と突っぱねられた。

ゴールデンウイーク中も、エミコはまだ小さい子どもたちを実家に預けて働いた。しかし「店が空いているから」と早上がりをさせてもらえるのは、アルバイトの自分ではなく社員なのだ。理由を尋ねても、肝心なところははぐらかされてしまうのだった。

飲食業界は特殊な世界。男社会であり、労働時間が長いのは当たり前。そのことを踏まえたとしても、納得がいかなかった。結局、干されるようにしてエミコは店を去った。

どうにかしたくともできない歯がゆさやもどかしさをエミコは消化できずにいた。事故の影響により、味覚に異常も出てきていた。自身を支える生きがいをごっそり奪われたような状態なのだ。何を食べてもおいしいと感じられず、自分が生きている意味も見い出せず、あてもなく街を徘徊する夜もあった。事情を知る夫は、あえて探したり、口を出したりしなかった。

死んだところで何かよい結果を招くとも思えない。かといって、このままずっと生きていても、ただ時間が過ぎ去っていくだけ。もう死にたい、死んでもいい。そう思いながら、駅のホームに佇んだこともある。だが、いざ列車が滑り込んでくれば、足がすくんでしまい身動きがとれなかった。死ねない自分に対するふがいなさに、エミコの心はさらに沈んでいった。

しかし、料理への想いを断ち切れないエミコは、かつて自分を自由に働かせてくれた上司の店を訪ねた。これ以上落ちようがないところまで落ちている精神状態だったからだろうか。そのとき食べた1杯のご飯の味をエミコは忘れることはできない。家庭で食べるようないたってふつうのご飯である。にもかかわらず、おいしさは格別だった。

噛みしめるようにして食べるご飯にこれほど元気づけられるのか。生きていてよかった――。エミコは心がよろこびで満たされていくのを感じていた。

思えば何も食べないこともあったけれど、どんなに辛くとも、どんなに悲しくとも、人は生きている以上、食べなきゃいけない。明けない夜はないように、苦しい時期が続いたとしても、いつかそこから抜け出せる時はやってくる。だから、しっかり食べて、体力をつけて、笑って生きていかなきゃいけないんだろうな――。名刺の文言を運んできたのは、1杯のご飯だった。

やがて復活したエミコは、2011年に開いた店に「Umui」と名づける。これまで料理に乗せてきた「想い」のなかには、辛さを抱えていた自分を救ってくれた1杯のごはんの思い出が宿っている。

エミコは店の取材に来たとある雑誌の若い女性記者からこう言われたことがある。
「Umuiさんの存在意義は、都会にこそあると思います。ちゃんとした食事を摂れていなかったり、さみしい思いをしていたりする、都会に出てきた若い女の子たちにとって必要な場所だと思うんです」

Umuiの営業時間は11:00~22:30(22:00ラストオーダー)。開店当初より、業界ではアイドルタイムと呼ばれる客足が見込めない15~17時の間も休まず営業していた。自身がサービス業で働いていた経験を踏まえて、チェーン店のラーメン屋やファストフード店しか空いていないような時間にもちゃんとしたごはんを食べられるようにしたかったのだ。夫からは反対されたが、エミコは「やっていることに意味がある」と頑として譲らなかった。

実際、食生活の荒れた若い女性をはじめとして、求める客は少なくなかった。なかには、エミコを「母」と慕って相談を持ちかける女性もいた。不思議なことに、相談を目的として来店する人がいれば、仕組まれたかのように必ず店が空くのだった。そして、ごはんを食べ、心の重荷を軽くしたあと、「ここでごはんを食べて、ほんとによかった」という言葉を残して元気になって帰っていく。そんな女性たちの背中をエミコは何度も見送ってきたのである。
「言霊なのかな、名刺に書いたこと、自分が信じていることがそのまま現実に起こるというのは。悩みを抱えたお客さんに限らず、たいていのお客さんは笑顔になって帰っていったことを思えば、店の名前も文言もあるべくしてあったような気もしてくる。店を畳んだ今でも「Umui」の屋号を使い続けているのは、その想いは変わらないから、常にそうありたいからなんです」

客から「どうしてこういう味を出せるんですか?」と尋ねられたときには、エミコはこう答えている。
「不特定多数の人や自分のために料理を作っても絶対においしくない。だけど、食べてくれる人が目の前にいれば違う。その人が「おいしい」と言って笑ってくれる顔を思い浮かべながら、料理を作れば絶対おいしくなりますよ」

30代後半頃、オーガニックに興味を持ったことをきっかけに、エミコは徐々に生きる活力を得ていく。農家さんが作った安心・安全な食べものを届けたい。食べものの背景を知ってほしい。事故で死んでもおかしくなかったのに私は生きているのだから――。生産者と触れ、つのる想いが自分の使命に変わっていくなかで、いつしかエミコは完全に息を吹き返していた。

商売を始めたとはいえ、利益はいつも神様からのおこづかいと考えていた。たとえ閉店時間を過ぎていても、切羽詰まった様子で「まだやってますか?」と尋ねる客が来れば、食材が残っている限り断ったことがない。彼ないしは彼女のために弁当を作ったり、店で料理を提供したりして、日付をまたぐようなこともザラだった。しかし、思いが深いぶんだけ、伝わらなかったときのつらさは耐えがたかった。開店した当初、出した料理をまるっと残されたときには涙が溢れた。今ほど味にクセがなく、客を選ばないような料理を提供していただけに、ショックはなおのこと大きかった。

ともあれ、身を削ってでも客を優先する様子を見かねた夫からは、事あるごとに「休め」と言われた。だが、働いていないと気が済まない性分のエミコには馬の耳に念仏。料理を通して誰かに尽くすよろこびと仕事に忙殺される日常がもたらす充足感は、何物にも代えがたいものだったのだ。

しかし、ツケはどこかで回ってくるもの。身体に鞭打って働きつづけた3年間で、知らず知らずのうちに疲労が蓄積していたのだろうか。山形で初めて過ごした昨年の夏、エミコは暑さをまったく感じなかった。血がめぐっていないかのように身体は冷たく、汗もかかなかった。疲れがようやく抜けたと感じたのは最近のことだとか。

生産者との出会いを求めて、今日もエミコは山形のどこかを飛び回っている。極力、畑や直売所に足を運び、生産者と直接言葉を交わしたうえで食材を仕入れることは、東京で店をやっていた頃から変わらないモットーだ。心を傾けられる「誰か」との出会いはエミコにとって大きな原動力なのだ。かつて人生のどん底にいた頃、宙をさまよっていた虚ろな心のなかには、顔を思い浮かべられる「誰か」は不在だったのだ。
「忘れられない恩人から受けた恩に報いたい。その人のために何かをやりたい、私のやっていることがめぐりめぐってその人に伝わればいいというのが私の出発点。だから、自分のために生きている感覚が私にはあまりないんです。生きている実感を得られるのは、誰かを想ったり、誰かに尽くしたりしているとき。というより、誰かを想ったり、誰かに尽くしたりしていないと、生きている実感が得られない。それを得る手段が私には料理しかないんですよね」

 

【参考資料、引用資料】
・『cafe sweets vol.129』「店主への道」(柴田書店・2011年12月号)
・『cafe sweets vol.158』(柴田書店・2014年5月号)

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