ライフストーリー

公開日 2015.1.18

Story

「生きつづけること自体、本能なんです」

長本兄弟商会 代表 長本 光男さん

Profile

1940年生。熊本県出身、東京都在住。中学卒業後、単身で上京し、東京の高校に入学。高校2年頃より、新宿の喫茶店「風月堂」に出入りするようになる。大学入学後間もなく中退。その後、10年間の放浪の旅、ヒッピー仲間とのスナック「ほら貝」の運営を経て、75年、仲間とともにトラック一台から無農薬野菜を扱う八百屋を始める。翌年、西荻窪「ほびっと村」ビル内に店舗としてうまいやおや「長本兄弟商会」を持つ。01年には、同ビル内にあったカフェ「ほんやら洞」を前経営者から引き継ぎ、階下の八百屋の野菜を食材として活用するカフェ・レストランBALTHAZAR(バルタザール)としてリニューアルオープン。著書に『就職しないで生きるには⑤ みんな八百屋になーれ』(1982・晶文社)。

※ 約15,000字

ヒッピーから八百屋へ

「生きていくうえで、「いい大学に行って、いい会社に行って、偉くなる」こと以上にもっと大事なものは一体何なのか」

入学早々に大学をドロップアウトした長本がその答えを知りたいという思いを胸に、全国放浪の旅をスタートさせたのは今から50年以上前のことだ。

1940年に生まれ熊本の田舎で育った長本は、「田舎にいちゃダメだ」との思いを抱き、高校に入るため単身で上京。新宿にある高校は東大進学者を多数輩出する、いわゆる進学校。長本も、いい学校に行って、いい会社に就職するという“通念”にのっとり、東大を目指して受験勉強に取り組むようになった。

転機が訪れたのは、高校2年の頃だった。高校のある新宿近辺をうろつくなかで、偶然「自分と感覚的に近いものを持つ変な人がいっぱいいる場所」を発見。それがのちに出入りするようになる喫茶店「風月堂」だった。
「そこで会った人たちの様子は、普段学校とかで会ってる人たちと全然違いました。芸術や生きることについてディスカッションをしたりしていて、カッコよかったし、生き生きしてたんです」

その中の一人の「かっこいいおじさん」に、長本は強く感化される。
「年の頃は40。短パンを履き、ひげを生やし、いかにも「おれは違う」って顔をしてたんです」

話題が学校のことになれば、彼はこう言った。「学校なんておもしろくないだろ。学校はダメにするよ、人間を」

“生活”とは無縁、旅が人生だった彼はよくこう言っていた。
「若いおまえは生活のことを考えるな。みんな生活のことを先に考えるから、ダメになってるんだ。生きることを一番に持ってこい」

そんな世界に身を浸していくにつれ、長本は変わっていく。本をたくさん読むようになり、好きな詩人や作家ができた。自身でも詩を書いたり、絵を書いたりするようになった。
「人間というものについて、どうも表現し尽くされてない気がしていたんです。真実とは何かを勉強している宗教学者や哲学者に比べて、それまで出会った小説家や詩人はどちらかといえば悲しみも喜びも中途半端なところで留まっていて、僕ら人間が持っている欲望などのすべてのことを吐き出せるようなパワーをあまり感じない。それから、同じ「欲望」でも、エログロナンセンスはすごく表面的だから惹かれない。そんな中で、パワーと文学的価値を兼ね備えているように感じたのがランボーやドストエフスキーだったんです」

それでも、「ドロップアウトしようかしまいかという葛藤から抜け出せずにいた」長本は、勉強が嫌いではなかったこともあり、受験をしてそれなりの大学に入学。当時の学生の多くがそうであったように、納入した1年次の学費はアルバイトで調達した。

ところが、長本は春学期が終わらないうちに大学を中退。放浪の旅に出た。「このチャンスを逃したら、旅はできないと思って」の決断だった。
「結局は、風月堂にたむろしていた連中に「こっち来いよ、おもしろいぞ」と手を引っ張られた感じはしますよね。とはいえ、なんで旅をするのかは、自分でもよくわからなかった。でも、色んなところに足を運んでその場所について知るなかで、自身のことも知れるだろうと。「生きる」という意味では、学校に行くよりもずっといいだろうという考えはありましたね」

その後約10年間。長本は20代後半頃まで放浪の旅を続けた。
「僕が目覚めた時期というか、生きてるって感じたのはそこが最初かな。当時、飲んだくれの仲間たちとは哲学的なことばかり話してたから、女の子になんて全然興味が湧かなかった。それが自身の潜在的なところである程度蓄積されたんじゃないかとは思うんです」

旅に一区切りをつけるきっかけとなったのは、友人であるアメリカの詩人ゲーリー・スナイダー(1930~)からのある提案だった。スナイダーとは、74年に詩集『亀の島』でピュリッツァー賞を受賞した詩人である。

1950年代半ばから60年代末まで日本(主に京都)に滞在し、禅を学んでいたスナイダー。一緒に旅をしたこともある長本曰く「すごくシンプルで、詩人の中ではエコロジーのことなどもっとも気にかけていた」彼は、長本たちに向かってこう投げかけた。「みんなあちこち旅してるけど、少し根を生やしてみないか。みんなで共同生活をしてみたらどうだ?」と。
「彼の提案は、もっともでした。実際、10年も旅を続けていると、落ちついて何かをやりたいという思いは芽生えてきていましたから」

1968年、長本を含めた旅仲間40〜50人は、「部族」と自称するグループを結成。メンバーは鹿児島県諏訪之瀬島や長野県富士見町など全国4カ所に散らばり、それぞれの地でコミューンを作った。そんな彼らを周りは「ヒッピー」と呼んだ。

長本は、そのうち3,40人と東京は国分寺に大きな旅館を借りて共同生活を始めた。そして、金銭を得られて、かつ社会との接点を持てるようにと、スナック「ほら貝」を開く。仲間を募るため、思いを綴った「部族新聞」を新宿駅周辺で配ったこともある。

それから7年。八百屋をやると決めたのは「話のはずみ」だった。

決め手となったのは、仲間の一人である山尾三省と飲んでいた時、長本の口からふと「農薬を使わない野菜を売る八百屋なんて夢がもてそうだね」という言葉がもれたこと。73年春から75年秋まで旅したアメリカから帰国して間もないときだった。

とはいえ、突拍子もなく出てきた発想ではない。裏付けはあった。
「(バークレーでは)八百屋風なことをやっていた連中を見かけたんですけど、すごく感じが良いし、浮かれていない。直感的に、あ、こういう感じがいいなと思ったんです。まぁ、日本に帰る頃には忘れてたんですけどね」

アメリカに旅立つ前からテーマは「自然」に絞られていたが、具体的に何をやるかはなかなか定まらぬまま。「諏訪之瀬島に行って農業でもやろうか」と、ぼんやり考えている程度だった。

コミューン「部族」の一拠点となっていた鹿児島県諏訪之瀬島は、鹿児島港から南に約200km離れた場所にある周囲約25kmの小さな島である。そこで暮らすヒッピー仲間たちは自給自足を合言葉に土地を開墾し、種々の野菜を栽培していた。当時から、「原発反対」も訴えていた。
「危機感もありました。日本では、公害問題として水俣病やイタイイタイ病が大きく取り沙汰されているし、都市部の川はみんな泥川となっている。アメリカのきれいな川や自然を目にすると、その違いが際立ってきたんです」

訪れたインディアンの部落では、いきなり「一週間くらい森に行ってこい」と放り出された。まったく知らない土地で直面する五里霧中状態を何とか乗り切って帰還してはじめて、長本は彼らに受け入れられた。
「森にいて聞こえてくるものって、日本の都会で生活する上では全く意識しないでいいことなんですよね。でも、そういうのを聞く感性って、人間の本能として欠かせないものなんだろうなと。

実際、彼らは動物を一切差別することがないし、むやみに殺したりもしないどころか、崇めたりしている。逆に、そういう感性をなくしてしまっている人が多い日本の状況ってまずいよなと。日本でも環境問題に注目が集まってはいたけれど、都会では結局、能書きを垂れているだけ。かたや、インディアンの部落では、体験、体感したものとして身体の中に残っていく。僕自身、そうやって自然観を養ってきたし、それが本来なのかなと思うんです」

「八百屋をやれば絶対食いっぱぐれない」という発想も、旅の体験、体感を通して自然に湧いてきたものである。

1975年の秋。八百屋開業へ向け長本たちは走り出した。手元にある資本金はゼロに近かったが、義父や友人に出資してもらうという形でまずは資金問題をクリア。次に、知人からの紹介で無農薬の野菜を生産している農家と知り合い、出荷の約束を取りつけた。長本らの思いに共感し、一緒にやっていくメンバーも見つかった。

何も持たない分、作り上げるのは早かった。思い立ってから1週間後の11月3日。長本たちはトラックの荷台に野菜を積んで売りにまわる八百屋を開業。資金の問題で、実店舗を持つことはあきらめていた。

「ある意味、ヒッピー的な生き方に区切りをつけようという感じでした。ただ、何と言っても、どこかに定着しないといけない生活をするのは人生で初めて。だから、僕にとっては新しいスタートだったんです。

手がけた八百屋がどういう風になっていくのか予測できなかったけれど、10年くらい旅をしたという経験が力になるだろうとは信じていたし、結果的にも思った通りになりました」

76年11月には、西荻窪駅そばのビルにて「ほびっと村」が開村。長本は同ビル1Fに店舗うまいやおや「長本兄弟商会」を持った。

翌年6月には、八百屋の仕入れ部門を分離独立させる形で、JAC(日本農業連合)を設立。同時期には、トラック使用による燃料代等のコスト面や多量の排気ガスを排出するという環境面を考慮し、リヤカーでの野菜の引き売りを始めた。

開業当初、「ヒッピー → 八百屋」という異色の経歴は世間の耳目を集めた。雑誌や新聞等に取り上げられたことにより、長本らのもとには八百屋で働きたいという若者たちが押し寄せた。そして、長本の下での「修行」を経て、リヤカーでの野菜の引き売り、小さな店舗経営を始めた若者たちの中から、ポラン広場、夢市場などの有機農産物流通の中核を担う流通組織や小売店が育っていったのである。

 

社会との“闘い”

18歳で大学をドロップアウト、35歳で社会にドロップインした長本は、いわば「社会の新入生」だった。

「みんな貧乏には慣れているから、貧乏は苦にならなかったけれど、商いに関しては素人。そういう点では、すごく大変な思いをしましたね」

私たちはずぶの素人から八百屋をはじめた。野菜のことも、生産農家のことも、流通機構についても、何も知らなかった。なんと無謀なと思うのは、いまになってから思うことで、その頃は必死だった。農業問題にせよ、環境汚染問題にせよ、野菜を売るという具体的な仕事の中で学んでいった」
「開業して1年ほどの間は、生産農家の下へと集荷に行くために要するガソリン代と高速代を経費として計上することを忘れていた。
 私たちは世間のルールに関心がなかったので、税務署のことなんか考えてみたこともなかった」『みんな八百屋になーれ』より

開業以来続いた赤字経営を脱却したのは、3年目頃。それまでには、一緒に働いていたスタッフに月給5万で我慢してもらったことがあれば、支給したボーナスを返してもらったこともある。
「借金を残したまま、八百屋になることをあきらめ、転業してゆく若者たちを見送らねばならないときもあった。一人前の八百屋になるには、まず銭勘定がしっかりできなければ駄目であることが、骨身に染みてわかりかけていた」

料理や野菜の管理、その他生活に関する諸々のことも客から教わった。「(野菜のことを知らないのに)よくやってるね」とずいぶん笑われてきたが、情熱だけは負けていなかった。