ライフストーリー

公開日 2015.6.26

Story

「すべては、26,7歳のときに決まったんです」

山形県 / 百姓 菅野 芳秀さん

おまけに、市役所や県の公務員、いわば中間公務員層を作り出すような雰囲気を感じる授業はどうも気に食わない。

大学3年のある日の農業実習中のことである。大学が所有する富士山の麓に広がる大農場にて、教授は生徒たちにこう語りかけた。
「やがて日本の農業も、大きなトラクターでここのような大面積をこなす農業が主流になっていくでしょう」

どこか他人事のように語られた一言がいたく気に障った。
「おっしゃることはわかりました。ならば、そこに至るまでの過程で村はどうなっていくのですか?」

押し黙った教授に、菅野はたたみかけた。
「〈人々が幸せになっていく中で農学がどう生かされているか〉が根本に据えられてないとダメなんじゃないですか?」

菅野の論調に他の学生らも賛同すると、授業のボイコットへと発展した。

のちに「教授が語った机上の空論が、農民たちに笑われる」場面を目にした時も、学生として少し恥ずかしさを覚えた。いったん否定的な視点を持ってしまった以上、早とちりは避けられない。学生運動に参加していたことも相まって、「農学」を見る菅野の目はどんどん曇っていった。

後々冷静に振り返れば、村社会のことは教授の専門外、ムキになっても仕方のないことである。だが、当時の菅野にはムキにならずにはいられなかった。

百姓の現場で百姓とともに七転八倒しながら学んだものを生かしたいのに。振り払うことのできない逃げ出したはずの農村の風景と、両親を含めた集落の農民たちが過剰労働・過少消費に苦しんでいるという農村の現状を何とか打破したいのに――。彼らの側に立つ菅野にとって、農学は自身の願いにちかい期待を裏切る無力な存在でしかなかったのである。

のちに三里塚にて成田空港建設反対運動に参加したのも、そんな胸の裡と無関係ではない。

その日、土方のアルバイトを終えた帰りに菅野は食堂で飯を食っていた。何気なく観たテレビでは、三里塚で強制測量に抗う親世代の農民たちの姿が映っていた。測量時に使用する杭にしがみつく農民たちと、「抵抗はやめなさい」と忠告する県の公団職員たち。そのやりとりはなぜか菅野の心をとらえて離さなかった。
「百姓や農村から逃げ出そうとして大学に入っている自分ならば、千載一遇のチャンスが来たと、何千万という補償金をもらってさっさと出ていくだろう。(笑)なのに、彼らは農村から逃げ出さずに守ろうとしている。その訳を知らなきゃダメだと思ったんです」

当時、三里塚は国民の注目の的になっていた。ある日の朝日新聞には、三里塚の様子を詠った「裁くとて 誰を裁くか 子を盾と 闘う親の この悲しみを」という短歌が掲載され、またある日のテレビでは「お父さん、お母さんが闘い、じいちゃんばあちゃんも弁当を背負って頑張っている時に、どうして私たちが授業に行くことができましょうか」という小学生と、彼らを説得する校長先生の様子が放映されていた。

菅野が参加したのは、闘争が激化しつつある頃だった。初めて現地へ足を運んだ時には、農民らしい闘い方に感動した。目にしたのは、測量に来る職員に向かって、糞尿を詰め込んだビニール袋を投げつけたり、自ら大便をかぶり杭にしがみついたりする農民たちの姿だった。

東京に戻ると、菅野は明治大学をはじめとして、近隣にある玉川大学、和光大学の学生に参加を呼びかけ、5,60名のメンバーで「三里塚三大学共闘」を結成。農家という出自は洗練された都会青年たちの憧れの的になり、現に彼らよりは農業について明るく、問題の実態も掴んでいる。そんな背景もあり、菅野はリーダーに押し上げられた。

約半年後。菅野を含めた「三大学共闘」のメンバーは逮捕、起訴されていた。社会的に見れば“消えない傷”が刻まれたことは確かである。大学3年の冬だった。

そんな季節を経ながらも、菅野は身の振り方が定まらぬまま卒業を迎えることとなる。そもそも、起訴されている身である以上、あまり卒業する意味もない。それでも卒業したのは、両親に卒業証書を見せたいという親孝行の気持ちがあったからだ。

就職しようと思えばできた。大学の事務長や教授などから、就職先の斡旋はあったのだ。だが、「農民になるべきか否かも含めた、生き方がわからないという重たい問題」を抱えていた菅野の心は動かなかった。
在学中、菅野は「一寸法師桃太郎症候群」という言葉を頭の中でこねくり回して作り出している。背景には、農水省や厚生省のキャリア官僚たちが立て続けにいくつか起こしていた収賄などのつまらない事件があった。
「童話に出てくる一寸法師は、やがて偉いお役人になって、鬼を退治し、打出の小槌が大きくなったという「幸せな」結末を迎えています。同様に、桃太郎も、鬼ヶ島から財宝をたくさん村に持ち帰って、めでたしめでたしとなる。それらを解釈すると、本来、手段でなければならない、あくまでも手段でしかない金や権力を得るという行為が、目的になってしまっているわけです。

その解釈を当時の世の中に照らし合わせると、――関連があるかどうかはわからないけれど――お父っさんおっ母さんや学校の先生から「いい大学を出て、いい暮らしをしなさい」と言われて育った子供は大学を出て、トヨタや大蔵省に入ればもう終わり。つまり、桃太郎や一寸法師を理想形にしているのであって、それらを貫く生き方とかを問うていない。一言でいえば、志がないのです。そして、一様にそういう童話の中で育てられた日本人は、一様にその症候群に罹っていると考えていました」

在学中、農場を見て回ったりもしたが、“百姓の姿”がまったく見えない。これから自身が生きていく道筋を照らし出せるようなものはないか、過去にヒントを求めるも、手がかりは一切見つからない。高校時代にせよ、大学に受かるためにクソの役にも立たないような雑な知識を詰め込んだにすぎないのだ。
「おれは18歳まで何を学んできたのかと思うとがっかりするとともに、教師の顔が浮かび、「あいつらクソだ。奴らの中にも志がない」と内心毒づいていました(笑)」

その思いは、のちの「夜学校」開催へと発展してゆく。その後の桃太郎や一寸法師と自身の人生史を重ねながら、懸命に子供に教える必要があると本気で思っていたからだ。

ともあれ、生き方がわからないまま学生生活を終えた菅野は、労働団体で書記のアルバイトを始めた。ほかのアルバイトを掛け持ちしながら、志を持って取り組んでいたとはいえ、身の置き所が定まらない迷い子のような気持ちも胸中ではくすぶっていた。

そんな状態から抜け出せぬまま、卒業後2年半が過ぎた75年秋。菅野は沖縄にいた。地元住民が起こしていた、本島中部の金武湾埋め立てによる石油備蓄基地計画の反対運動に参加するためだった。そこで初めて、菅野は「「地域」を未来の子孫につなごうとする脈絡のなかで語り、自分たちの人生を過程としてとらえる視点に出会う」。

石油基地反対派住民のひとりは、菅野にこう語った。
「逃げ出したい現実を前に、後ろ向きに生きていたら、後に続く世代も逃げようとする。希望をつなぐこと。地元で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいいように地元を良くしていこうとする。こういう生き方をつないでいくことが、俺たちの役割さぁ」
「その言葉は、私の中で諭すように響いていた、この人びとにくらべ、私自身の生き方の何という軽さなのだろう。その思いにつきあたった時、泣けて泣けてしょうがなかった。涙が止めどなく流れた」

数ヶ月後、百姓として生きると定めた菅野は、故郷に戻っていた。
「沖縄でようやく出逢えたのです。26歳という年齢を考えると、早かったといえば早かったのかもしれない。でも、学生の頃からずっと考え続け、苦しんできた私にとっては、決して早くはなかったのです」

 

培ってきた誇り

26歳で百姓人生を踏み出すにあたり、菅野がまず目指した「普通の百姓」とは「名実たがわぬ百姓」との意味合いも含んでいた。

1年目から冬場に土方仕事を始めたのは、たしかに金を貯めるため、肉体労働のコツを覚えるためでもあった。だが、何よりの理由はほかにあった。
「おれは本来、土方(人夫)なんてする男じゃない。大学を出たのに、土方をやっているなんて恥ずかしいことだ。そういう感覚を抱いてしまう自分自身を木っ端微塵に粉砕しないといけない。さもなくば、おれは百姓として生きていけない、生きる価値はないと思ったのです。

今でこそ、精神的豊かさを求めて収入なんかなくてもいい、と農民になる人はたくさんいるけど、当時はまだ上昇志向が支配的な時代。物質的な豊かさを求めて、地元を飛び出し、東京の大学へと進む高校生が大半を占めていましたからね」

事実、市内の主要道路で作業に当たる菅野は、周囲から「なぜ、(明治大学を出た)おまえがこんなところで土方をやっているんだ?」と幾度も尋ねられた。偶然近くを通りかかった同級生の母親が、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように目を背けた後、気づかぬふりをして去っていったこともある。脇をぞろぞろと歩いて帰路につく妻の同僚の学校教師らが「あの人、菅野先生の旦那さんだよ…」とささやく声が聞こえてきたこともある。経済成長著しい時代の地方における“社会通念”からすれば、「土方の夫と教師の妻」はありえない組み合わせだった。

だがそれもこれも、「街中の現場にしてもらえないか」と自ら頼んでいた菅野には想定内のこと。あえて衆目に晒されやすい“厳しい”環境に身を置くことで、自身を試したかったのだ。
「まだ20代後半の夢追いし青年としてはかなり揺れていたのでしょう。町中を選んだのも、裏を返せば、まだ周りの目を気にしている自分がいたという証でしょうからね。でも、志というのはそんな「青春の雑踏」を通り抜けて作り出されていくんじゃないかな」

結局、土方仕事を続けたのは6シーズン。
「稲刈りが終わり、時間に余裕ができた11月頃だったでしょうか。無性にさびしくなり、これを繰り返していてはダメだ、そろそろ潮時だなと感じたんです」

ラストシーズンの仕事を終えた82年3月、菅野は32歳になっていた。

そもそも百姓を嫌い、百姓として田舎で生きる人生を否定していた菅野にとって、故郷での百姓生活は「今までとは違う自分を作っていく」日々だった。「百姓」と自称していたのは、生き方を重ねた立場に身を置きたかったから。逆に「農民」と自称しなかったのは、職業上の名前は使いたくなかったから。そして、忙しくとも夜学校に11年間取り組んだのも、「子供たちの中にも、山形県で生まれ育った人間としてポジティブで固有の誇りのようなものをきちんと育んでいきたい」とのくすぶる思いを原動力にしていたからである。

己への誇りを獲得するために、菅野は必死だった。己へのこだわりが強い分だけ、目指すゴールも遠くなる。

百姓になって以来、周りの先輩農家たちからの「(長井市内にいる)○○のところに行って色々と教わればいい」というような助言に従ったことはない。
「彼らが紹介してくれた人にはあまり関心がなかったからです。仮に行ったとしても、26,7歳の青年に向こうは全力でこないだろうと。それよりは、おれがおもしろいことをやっていればいいんじゃないか。自身がそれなりの世界を構築すれば、相手が勝手にやってくるだろうという鼻持ちならない考えを持っていましたから」

その背後には「たった一度の自分の人生を、何者かに管理されたり、個性におろし金をかけられて、ダイコンのようにすりおろされたりすることがなによりも嫌いで、そういうものからできるだけ距離をおいて生きていきたい」との思いがあった。『玉子と土といのちと』より

若かりし菅野が内に秘めた強気の姿勢は、使命感や気負いのみならず、どこか切迫した思いとも背中合わせだった。

百姓をやろう、人生をやり直そうとの素直な思いを胸に地元に帰ってきたとはいえ、かつて逃げ出したいと感じた村の風景は、変わらず目の前に横たわっている、自身も親父と同じ人生を辿って、同じように朽ちていくのではないか――。押し寄せてくる不安に抗いながらも、前を向くしなかった。逃げ出さないと決めた以上、ここにいてよかったと思える風土にしていくために何ができるのか。七転八倒しながら模索を続ける日々だった。

百姓ルーキー時代には、減反反対を叫ぶも、部落の総会で否決された。地域の要注意人物となった自身のもとを、親の世代の市会議員たちを筆頭にした地域の要人が入れ替わり立ち替わり訪れるのだ。おれはこのまま社会的な足場を失っていくのかもしれない――。世の中がわからないだけに、菅野の胸にはある種の恐怖感が広がっていた。

そこに加わるは、「兇状持ち」という汚名である。結果的に、情状酌量により実刑こそ下されなかったが、起訴されて以来10年ほど裁判は続いたため、菅野は33歳頃まで被告人として月に一度、千葉の地方裁判所へと通っていた。東京の方で三里塚に関連する大きな動きがあるたび、菅野家の前にはパトカーが停まっていたのだ。下手すれば何世代にもわたって汚名を着せられ続けかねないという、村社会では致命的な展開になっていったのである。