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2020.6.10

共感なんてできない。だから言葉を頼りにするんだ

いつからか「精神的マッチョ」という言葉を聞くようになった。辞書的な説明をすれば、「困難をくぐり抜けたり、熾烈な競争を勝ち抜いたりしてきた経験を誇り、その経験に裏打ちされた強靭さを他者にも求める人」だろうか。

でも実は、誰もが「精神的マッチョ」の素質を持っているのではないか。勉強や仕事ができる人はできない人に苛立ち、かけっこが速い人は遅い人に苛立つ。努力できる人は努力しない人に苛立ち、自己解決できる人は不平不満をこぼすだけの人に苛立つ。それを顔や態度に出すかどうかは別として、苛立つのが人間として自然な感情だと思う。

得意であるがゆえに、苦手な人の気持ちがわからない。より正確に言えば、苦手な人の気持ちをわかろうとしない。自分を基準にして相手を測り続けている限り、イライラがおさまることはない。それは結局、自分もまわりも不幸にしてしまう。

モンゴルのチンギス=ハンは、新たに軍を編成するとき、体力が人並みであることを重視して指揮官を選んだという。「体力のある指揮官は、自分のペースで移動する。ついていけない兵が増え、結局いざというときに、軍隊としてまとまった戦闘力を発揮できなくなってしまう」のだとか。(下園壮太『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』より)

「共感」や「寄りそう」という言葉が氾濫するようになってしばらく経つが、これほど難しくてエネルギーを必要とする行為はない。そもそも「共感」できないことを前提に、理解しようと努めて、想像が及ぶ範囲をすこしずつ広げていくしか他人とうまくやることはできないんじゃないか、と思う。

人の感情は数値化できない。たとえば「あの仕事はつらかった」という感想は「あのカレーは辛かった」と言っているのに近い。辛さには明確な指標がないので、一人ひとりの「辛さ」基準はちがうし、A店の1辛とB店の1辛が同じ程度だとも限らない。極端な話、Aさんの「激辛」がBさんの「甘口」になることもあるだろう。

辛いカレーでも「辛さに強い人にとっても辛いカレー」なのか「辛さに弱い人にとっては辛いカレー」なのか。ほんとうの辛さは、そこを見極めたうえで判断する必要がある。同様に「延々と同じことをするなんて耐えられない」人にとってのつらさなのか、「地道にコツコツやることが得意な」人にとってのつらさなのかによって、実態は大きく変わってくる。

とある暴力団の総長はよく、組長や幹部にこう言っているという。

ヒラの組員は、努力が足りないか、何かそれなりの原因と理由があるから、その立場にいる。おまえたちが叱らなくてすむ人間であるなら、彼らはおまえたちと同等の立場になっているぞ(向谷匡史『熊谷正敏 稼業 頭角の哲学』より)

相手の背景や事情に思いを馳せろ、と言いたいのだろう。他人の至らなさを嘆くよりも、自分の至らなさを問う方が、自分自身を生きやすくする。そう意識したとき、自分と他人の違いを測るためのメジャーとして、言葉は強い味方になる。