「心の豊かさ」ほど、定義があいまいな言葉はない。行き過ぎた現代文明に対立する田舎での自給自足的生活や「足るを知る」精神を礼賛、肯定するニュアンスでよく使われる言葉だが、少なくとも僕は、そういった部分で「心の豊かさ」を感じられない人間である。
では、「心の豊かさ」とは何なのか? そのヒントをくれたのは、和歌山県の色川地域という、生半可ではない田舎で暮らす原和男さんだ。インタビューさせていただいたのは4年近く前だが、今もってつい最近聞いた話であるかのように思い出せるほど、心を揺り動かされた内容だった。
“ 色川には、長男としての義務を果たすために、仕方なく戻ってきた人も少なくはない。これまで(30年ほど前に都会から移住してきた)原は彼らから、何度となく、異口同音にこう言われてきた。
「おまえらはええな、好きなことをしたくて、夢描いてここ来てるから。でも、わしらは戻らなしゃーない、親の面倒を見ないとしゃーない。そう思って戻ってきた」それでも、原の気持ちは変わらなかった。
「こっちにすれば、よっぽどあなたたちの方が羨ましいよ、と内心では思っていました。だって、戻らなあかん、と意識するくらいとてつもなく強いつながりを、親や地域と持てているわけでしょう。そのつながりを通して、数え切れないほど多くの人たちの人生を感じながら生きられているなんて、ほんとに心強いこと。まさにそれこそが、“豊かな暮らし”やと思うんです。
「先祖に申し訳ない」という言葉に表されているように、家の責任までをも背負って生きる人を見ると、多くの人は「息苦しいでしょ」と言うのかもしれません。でも、私は違う。それくらい強固なつながりをもって生きられるほど、幸せなことはないと思うんです。
その豊かさや幸せに比べれば、自分のやりたいことや好きなことをやるのはどれほどのことなのかと。いや、確かに、そういうことをする楽しさやおもしろさ、快感はあるし、私も味わってきました。でもそれは、ほんまに薄っぺらいことでしかない……ということを、長くいればいるほど突きつけられてきたこれまでやったなと。だから、田舎の人ほど幸せな人はいない、と私は思っているんです。
最低1000年の歴史がある色川では、計算したら10万人近く、少なくとも数万人は生まれ育って、働き、死んでいったわけです。昔に思いを馳せれば、棚田を築くところからやった人たちがいる。だいたい、こんな山の中に里を開いて、人が暮らせる場所を作るかと。それに要したであろう膨大なエネルギーを思えばもう、涙がちょちょぎれるくらい嬉しいこと。ほんま、おかげさま、ですよね。
どこの田舎でもそうでしょうけど、しっかりと足元を突っ込んで見ようとしたとき、いろんなものが見えてきて、気持ちの張りが生まれてくる。物語は、頭の中でなんぼでも膨らませられますから。不思議なことに、先祖とつながって生きていると思い始めれば、いずれ錯覚になり、だんだん実感に変わっていくんです。先人から元気をもらっていると思わされる、というのかな。
まぁ、完全な思い込みであって、人からは「アホや」と言われるでしょう。でも、私にはただそれが幸せなんです。田舎で思い込みと想像力を働かせれば、こんなに愉しいことはない。(笑)ほんとに「おかげさま」ですよ”
ご本人は「誰にも理解されない」とおっしゃっていたが、そういうものなのだろう。原さんが「田舎」に惚れ込んでいるのは、自らで紡いだ物語を心ゆくまで生きているからに他ならない。
そう考えると、己の生きた証を世に残したいと「苦難を乗り越えて成功をつかみ取る立身出世の物語」を生きている人も心豊かな人生を生きていると言える。愛の力を信じたくて「愛の力で人を救う物語」を生きている人も、青春をすべて捧げる勢いで「片思いをしている相手との恋を成就させる物語」を生きている人もまた、心豊かな人生を生きているとも言えるだろう。
各人の幸せを決めるのは、目の前に広がる現実そのものではない。たとえば今、絶望的な状況にあったとしても、いずれ明るい未来が訪れると信じられるなら、生きる気力も湧いてくるはずだ。つまるところ、心豊かな暮らしとは、いくらでも書き換え可能な自分の物語を懐に抱いて生きることだと思う。
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