「世の中には二種類の人間がいる。楽しい気持ちやうれしい気持ちを「楽しい」「うれしい」と表現する人間と、そういう言葉を使わずに表現する人間。後者に当てはまる人間は、文章が書けるんだ」
直木賞作家の高橋義夫さんからそんな言葉をいただいたのは、20代半ば頃のことだ。僕が書いた文章に対するコメントなのだが、こちらに想像する余地が残された粋な褒め方が今も鮮やかに残っている。最後の一言が力強かったことも、大きな手で背中を押されたような気持ちになったことも――。
ただ、高橋さんは「あなたが後者に当てはまっている」とは言わなかったし、「素質がある」なんてことも言わなかった。もう少しはっきり言ってほしいと望む気持ちもなくはなかったが、自身の想像力でその真意を追いかけるという意味では、読書の醍醐味と一致するところなのかもしれない。
それに連なる記憶として思い出すのは、20歳の頃に何かの本でめぐり逢った“ラブレター”だ。
「もし僕にしっぽがあったらちょっと恥ずかしいな
だって君と一緒にいるといつも振ってしまいそうだから」
そのセンスに心を奪われただけでなく、この句を詠んだのが51歳の男性だという事実に衝撃を受けた。当時は文章を書いている自身の未来なんて想像だにしなかったが、思えばそのときから種は芽吹いていたのかもしれない。印象に残った言葉を書き留めたメモ帳の1ページ目に記されているこの句が、書き留める習慣を生むきっかけになったことからしても、新しい人生を胎動させる出逢いだったとは言えそうだ。
その後何度か、本のタイトルを控えておかなかった後悔を引きずりつつ、ネット検索したものの、出典がわからないまま10年が経った。一度世に出た以上、タイトルさえわかれば、Amazonや国会図書館を通して、本を手に入れることはできるはずだ。だが、地球の裏側で起こっている出来事ですら簡単に「わかる」時代性を思えば、むしろ「わからないまま」でいる偶然をよろこぶべきなのかもしれない。
一度すれちがっただけなのに、なぜか忘れられない人に心をかき立てられるように、伝説の人物が実態から離れた人間像で語り継がれるように、「わからない」からこそ生まれる幸福な余白は、人生を豊かにする愉しみとして欠かせない要素であり続けるだろう。言葉を扱う人間として、「人が追いかけたくなる言葉」を追いかけていきたいと思っている。
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