「過去の自分にビデオレターを送る」というバラエティ番組の企画に登場したおじいちゃんが24歳の自分に宛てたメッセージがとても印象的だった。
「おまえは勤め先で知り合ったかわいいハナちゃんと付き合うことになるぞ。あんまりモテないおまえは、こんな俺なんかってことで結婚を迷うけど、思い立ったらすぐいけよ。なぜなら、ハナちゃんは2年後に病気で亡くなるんだ。おまえはすごく後悔し、悲しんで、ずっと忘れられなくなる。だから76歳になった今でも独身のままだ。
だから、俺の代わりに伝えておいてくれ。俺の人生の中で一番愛していたのがハナちゃんだ。そしてもっとも好きだったのがハナちゃんだ」
とても切ない話である。万感の思いをこらえながら語るおじいちゃんの様子には涙を誘われた。だとしても僕は、このおじいちゃんはある意味では幸せだったのではないかと思わずにはいられなかった。壊れることなど万にひとつもあり得ない、失望や幻滅とは無縁の「結婚生活」を、何度も生きたように思えたからである。
これを観て僕は、「私は坂本龍馬さんの婚約者です」という言葉を残し、生涯、独身を貫いた(と言われる)千葉佐那子を思い出した。「目の前にある人生」の向こう岸にある「あったかもしれない人生」を生き抜くこともまた、ひとつの生き方なのだと思った。
そんなことを考えていると、10年ほど前の思い出が蘇ってきた。大学卒業を半年後に控えた2010年9月。22歳の僕は、インドネシアのバリ島にいた。目的は観光ではない。旅行業者が主催する2週間の孤児院ボランティアツアーに参加したのだ。
実質的には観光だった滞在中は、ホームステイ先の家から孤児院に通った。孤児院では、3歳~18歳頃までの子供たち30人ほどが、大家族のように共同生活を送っていた。見る限りでは、炊事、洗濯、掃除は当番制。中学生以上の少女たちが日替わりで担当していた。
何からの事情があって、そこで暮らさざる得ない子どもたちが形成する「家族」は、これまで出会ってきたどんな家族よりも素敵だった。物質的には豊かではなくとも、精神的にはすごく豊かな暮らしがあることに、僕は感動していた。
生きる選択肢が限られているからこそ育まれたのであろう孤児たちの深い結びつきに、心の乾いた部分が刺激されたのだと思う。無意識のうちに「人と人のつながりが濃い」田舎を求めたのだ……なんていうのは、時が経ってから思うこと。羨望の的となった彼らの暮らしぶりから「古きよき日本の田舎」の原風景を直観した僕は、帰国後、さっそく田舎で暮らす術をインターネットで探しはじめた。
そこでヒットしたのが「緑のふるさと協力隊」である。若者たちが1年間、農山村を舞台に、農作業や地域行事の手伝いなど、地域に密着したさまざまな活動に取り組むプログラムだ。支給される生活費は5万/月。いわば「青年海外協力隊の日本の田舎版」である。行動を起こす決め手となったのは、「はじめて人間になれた気がした」という参加者の体験談だった。
はやる気持ちで事務局に電話をかけた僕は、翌日の説明会に出席。応募の締め切りまで数ヶ月の猶予はあったが、すでに意思は固まっていた。翌年4月に控えた出発の期日を今か今かと待ちのぞむ心は、まだ見ぬ「美しい日本の田舎」へと飛んでいた。
だが、いざ暮らし始めてみると、田舎は決して美しくなかった。そこにはただ、都会よりは人と人のつながりが濃い人間社会があるだけだった。夢見心地で築き上げた地上の楽園がうたかたの夢と化すまで、それほど時間はかからなかった。
といっても、僕が過ごした田舎が特別だったわけではない。北海道から沖縄まで、どこの田舎に行っても、同じ展開を迎えたはずである。何のことはない、田舎育ちの人が都会に憧れるように、都会育ちの人間が田舎に憧れていただけだった。
かといって、その選択を悔やむ気持ちが芽生えたことはない。大学卒業というタイムリミットが刻一刻と近づいているにもかかわらず、進路も生き方も定まっていない焦燥感に苛まれる日々の反動もあっただろう。田舎で暮らすあたたかい人びとや菩薩のような表情で微笑むじいちゃんばあちゃんは、僕を丸ごと受け容れてくれるにちがいない……。薔薇色の未来を夢見て熱に浮かされたように過ごした半年間は、一切の雑念や経験則に妨げられることのない幸せな時間だった。無限に広がる空想に紐づいた甘すぎる見通しが、生きていくための養分だった。
「疲れ果てた あなた わたしの 幻を愛したの」というせつない別れの歌があるが、一時的であれ、それが幻であれ、愛を注げる対象を得られたという意味では幸せだと思う。全身全霊で幻を愛することができた日々が、今となっては懐かしい。
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